リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練⑧ リリィの素性
研究室での生活が本格的に始まって、俺はすぐに気づいた。リリィ先生という人は、「整っている部分」と「完全に放置されている部分」の落差が、驚くほど激しい。
部屋の一角、壁際に据えられた棚は見事だった。魔術書は属性ごと、さらに初位・中位・上位・聖位・神位と段階別に分けられ、背表紙の高さまで揃えられている。研究ノートも年代とテーマ別に整理され、索引札まで付いていた。必要な資料を尋ねると、迷いなくその棚に手を伸ばし、寸分違わず目的の一冊を抜き取る。その動きには一切の無駄がなく、長年積み重ねてきた研究者としての矜持が感じられた。
一方で、机の上と床の一部は、まるで別の世界だ。書類、報告書、未整理の研究メモ、封を切られていない手紙が、崩れそうな塔のように積み上がっている。どこからどこまでが一つの山なのか、本人以外には判別不能だ。風が吹けば崩れそうなのに、不思議と絶妙なバランスで保たれている。
「そこは触らないでくださいね」
そう言われた時の真剣な顔を見て、俺は素直に頷いた。
「整理しないんですか?」
恐る恐る聞くと、リリィ先生は一瞬考え込むような表情になり、そして小さく笑った。
「整理、ですか……頭の中では終わってるんですけどね」
そう言って、山積みの書類に視線を投げる。
「手を付ける時間がないのと……優先順位が、どうしても後回しになるんです」
研究室の棚は、彼女が「今すぐ必要なもの」
机の山は、「いつか向き合わなければならないもの」
そう割り切っているようにも見えた。
だが、右手が使えない今、その雑多さは少しだけ危うく映る。紙を取ろうとして、別の束が崩れそうになり、慌てて左手で押さえる。その度に、俺は反射的に手を伸ばして支えた。
「すみません……助かります」
そう言われるたび、胸の奥が少しだけ締め付けられる。
大魔術師であり、研究者であり、学院の教師でもあるリリィ先生。
その肩に乗っているものの重さを、この散らかった机は、雄弁に物語っていた。
そして俺は思う。
この人の研究室は、魔術の知識だけでなく、彼女自身の人生そのものが、整理されきらないまま積み重なった場所なのだと。
研究室で過ごす時間が増えるにつれて、俺はもう一つ、否応なく理解していったことがある。リリィ先生は、信じられないほど優秀であると同時に、驚くほど抜けている瞬間がある、という事実だ。
それはある意味で、研究室の散らかり具合以上に、彼女という人を端的に表していた。
「……あれ?」
ある日、魔術式の走り書きをしていたリリィ先生が、ふと手を止めた。首を傾げ、宙を見つめる。
「ルーメン、私、今……何をしようとしてましたっけ?」
その言葉に、俺は一瞬、返答に詰まった。つい数秒前まで、魔力回路の効率化について熱心に語っていたはずだ。それをそのまま伝えると、彼女は少し照れたように笑う。
「ああ、そうでした。ありがとうございます」
まるでよくあることのように、何事もなかったかのように続きを書き始める。
また別の日には、机の上を探し回っていた。
「ルーメン、さっきここに置いていた本、見ませんでしたか?」
俺が視線を巡らせると、その本は、彼女の左脇にしっかりと抱えられている。
「……それ、今持ってます」
「……あ」
一拍置いて、二人で顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
失敗談はそれだけではない。
魔素液を混ぜる作業中、瓶を取り替えた直後に手を止めて言う。
「……これ、違いますね。最初からやり直しです」
そう言って、苦笑しながら片付けを始める。危険な薬品を扱っているという緊張感があるはずなのに、その所作はどこか柔らかい。だが同時に、俺の背筋は自然と伸びた。もし俺が傍にいなかったら、右手が使えない今、どんな事故が起きていたか分からない。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけると、リリィ先生はいつものように笑って答える。
「大丈夫ですよ。ほら、こうして笑えてますから」
その笑顔は、安心させるためのものだ。
だが、その裏にある無理を、俺はもう見逃せなかった。
大魔術師としての威厳や、師匠としての頼もしさ。そのどれもが本物だと、俺は知っている。けれど、近くで見れば見るほど、この人は完璧ではない。むしろ、不器用で、抜けていて、そして誰よりも自分を後回しにしてしまう。
可愛らしい、と言ってしまえば簡単だ。
だが、それ以上に、放っておけない危うさがある。
俺は無意識のうちに、彼女の動きを目で追い、次に何をしようとしているかを考えるようになっていた。右手が使えない今、転ばないように、こぼさないように、忘れないように。
弟子として。
そして、それ以上に近い距離で。
「……ルーメン?」
「いえ、何でもありません」
そう答えながら、俺は心の中で決めていた。
この人が笑って誤魔化してしまう間は、俺が傍で支えよう、と。
どれだけ一緒に過ごす時間が増えても、決して慣れない光景があった。リリィ先生の右手だ。包帯と簡易的な固定具に覆われ、以前のように自由に動かせないその手は、研究室という空間の中で、静かに、しかし確実に存在感を放っていた。
ペンを取るとき、書類をめくるとき、瓶の蓋を開けるとき。ほんの些細な動作のたびに、彼女は一瞬だけ動きを止める。左手だけでできるかどうかを考え、無理だと判断すれば、何も言わずに俺の方を見る。その視線は助けを求めているようで、同時に、迷惑をかけまいとする遠慮も滲んでいた。
「ルーメン、悪いのですが……」
言葉が最後まで出る前に、俺はもう動いている。
「はい、大丈夫です」
それが当たり前のやり取りになっていった。
書類の山を崩さないように支える。重い魔導書を棚から下ろす。魔素液を正確な分量で量り、指定された位置に置く。どれも難しいことではない。だが、その一つ一つが、彼女の右手が失われている現実を、何度も突きつけてくる。
「……不自由ですね」
あるとき、ぽつりとリリィ先生が漏らした。
それは嘆きでも、怒りでもなかった。ただの事実確認のような、淡々とした声だった。
「はい」
俺は短く答えた。余計な慰めは、今の彼女には必要ない気がしたからだ。
右手が使えないことで、彼女の研究速度は明らかに落ちていた。それでも、彼女は焦りを表に出さない。むしろ、いつもより丁寧に、一つ一つの思考を言葉にしながら進めていく。その姿勢は、以前よりも深く、静かな集中を感じさせた。
けれど、その分、無理が積み重なっていることも、俺には分かってしまう。
長時間立ち続けたあとに、わずかに肩を落とす瞬間。
魔力を使った直後、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなること。
そして、右手を無意識に動かそうとして、途中で止める仕草。
近くにいるからこそ、見えてしまう。
弟子として尊敬している師匠の、弱さと限界が。
「ルーメン」
夕方、作業を切り上げるころ、彼女は静かに言った。
「あなたがいてくれて、本当に助かっています」
その言葉に、胸の奥が少しだけ締めつけられた。助けになれていることは嬉しい。だが同時に、こんな形で支えなければならない現実が、どうしようもなく悔しかった。
俺は何も言わずに頷いた。
そして心の中で、改めて誓う。
この右手が元に戻る日まで。
いや、それ以上に……この人が再び、何の遠慮もなく魔術に向き合えるようになるまで。
俺は、ここにいる。




