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リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練⓻ 無詠唱魔術の可能性

研究の話が一段落したところで、俺はふと、頭に浮かんだままの疑問を口にした。

理論や資料を前にすると、どうしても確かめたくなる。


「魔術の組み合わせ、という話ですけど……例えば、水魔術を出した直後に火魔術を重ねて、熱湯みたいなウォーターボールを作ることって、研究対象になりますか?」


言い終えた瞬間、部屋の空気が一瞬止まった。

ランプの火が揺れ、紙の端がかすかに鳴る。

リリィ先生は、しばらく瞬きをしたまま、言葉を失っていた。

そして、少し遅れて、信じられないものを見るように俺を見た。


「……ええっ?」

素の声だった。

教師でも研究者でもない、ただの驚きがそこにあった。

「い、今……何と言いましたか?」

「ウォーターボールを出してから、すぐにファイヤーボールを重ねて、熱湯にできるかどうか、です」

確認するようにもう一度言うと、リリィ先生は椅子から半分立ち上がった。

右手が使えないことも忘れたように、身を乗り出してくる。


「それは……理論上は、可能性として“否定はされていない”です。でも……」

言葉を探すように、息を吸う。

「同時詠唱、もしくは極端に短い間隔での連続発動が必要です。しかも、水と火は干渉が強すぎて、ほとんどの場合、魔力が弾かれて霧散します。安定させるには、精密すぎる制御が……」


そこまで言って、はっとしたように口を閉じた。

そして、ゆっくりと、信じられないものを見る視線に戻る。


「……ルーメン。なぜ、それが“できる前提”で話されているんですか?」

俺は少し首を傾げた。

「無詠唱なら、間隔を詰められると思いますし……水の魔力を保ったまま、外側から火の魔力を流し込めば、いけるかなって」


理屈として説明したつもりだった。

だが、言い終えた直後に気づく。

それは、“普通”ではない。

リリィ先生は、深く息を吐いた。

驚き、呆然、そして……落胆。

ほんの一瞬、その表情が沈んだ。


「……そう、でしたね」

小さく呟く。

「あなたは、無詠唱でした」

肩を落としたかと思うと、次の瞬間、その目に別の光が宿る。

落胆が、別の感情に反転する瞬間だった。


「……いえ。違います」

顔を上げたリリィ先生の瞳は、明らかに変わっていた。

研究者の目だ。

獲物を見つけたような、野心的な光。


「ルーメン、それが本当に安定してできるなら、属性複合魔術の基礎理論が一段階、いえ、二段階は前に進みます」

「え……」

「あなたがいれば、ですけど」

はっきりと言い切られた。


「正直に言います。あなたが研究室に来てくれるなら、私の研究は“飛躍”します。十年かかるはずだった検証が、一年で終わるかもしれない」

そう言って、ふっと笑う。

だが、その笑みは冗談ではなかった。


「……逃がしませんからね、ルーメン」

冗談めかした口調とは裏腹に、その言葉は本気だった。

俺は苦笑しながら、両手を軽く上げる。


「逃げませんよ。約束しましたから」

その返事を聞いて、リリィ先生は満足そうに頷いた。

研究者として、そして師匠として。


この瞬間、俺ははっきりと理解していた。

この人の研究に関わるということは、ただ魔術を学ぶ以上の道に踏み込むということだと。

だが、不思議と不安はなかった。

むしろ、胸の奥で、小さな期待が灯っていた。


しばらくの沈黙のあと、リリィ先生は椅子に腰を下ろした。

さきほどまでの熱量が嘘のように、背もたれに体を預け、天井を見上げる。


「……無詠唱、ですか」

その声には、まだわずかな落胆が残っていた。

研究者として積み上げてきた理論、検証、試行錯誤……それらの多くが、俺にとっては「できるかどうか考える前に、やってみる」領域にある。その現実を、改めて突きつけられたからだろう。


「私たちは、詠唱という“工程”を前提に、魔力の流れを組み立てます」

指先で机を軽く叩きながら、言葉を選ぶ。

「だから、組み合わせはどうしても段階的になる。水を出して、安定させて、次に火を重ねて……その間に魔力は変質するし、逃げる。理論はあっても、実現が追いつかない」


そこで、ちらりと俺を見る。

「でも、あなたは違う」

視線が鋭くなる。

「工程を“飛ばせる”。いいえ、飛ばしている意識すらない」

俺は返事に困り、曖昧に笑った。

できるからやっている、という感覚しかない。


「……正直に言いますね」

リリィ先生は、小さく肩をすくめた。

「最初は、少し悔しかったです」

意外な言葉だった。

だが、その次の言葉は、はっきりしていた。

「でも、それ以上に……胸が高鳴りました」

背筋を伸ばし、こちらに向き直る。

研究者としての顔が、完全に戻っていた。


「無詠唱は、私の研究の“壁”でした。才能の問題ではなく、構造の限界だと思っていた。でも、あなたはその壁の向こう側に、最初から立っている」

右手を動かそうとして、途中で止める。

使えないことを思い出し、苦笑する。


「……悔しいですけど、同時に幸運です。だって、その向こう側にいる人が、私の弟子なんですから」

その言葉は、誇らしげでもあり、覚悟でもあった。


「ルーメン、あなたがいれば、研究は確実に前に進みます。理論を“机上”で終わらせず、現実に引きずり出せる」

少し間を置いて、念を押すように続ける。

「だから……私の研究室に来る約束、忘れていませんよね?」

逃げ道を塞ぐような言い方だった。

俺は思わず笑ってしまう。

「忘れてません。ちゃんと行きます」

その返事に、リリィ先生は満足そうに目を細めた。


「よし。なら、上に話を通しておきましょう」

当然のように言う。

「あなたの名前を、研究室の正式な名簿に載せます。今のうちに」

「気が早くないですか?」

そう言うと、彼女は即答した。

「逃げられては困りますから」

冗談めかしてはいたが、本気だった。

研究者として、そして師匠として。

俺は頷いた。

この人の隣で学ぶことは、きっと楽ではない。

だが同時に、これ以上ないほど刺激的なのだと、確信していた。


話がひと段落したところで、リリィ先生は机の引き出しを開け、分厚い書類の束を取り出した。封蝋の跡が残るもの、古い署名のあるもの、いずれも研究室に関する正式文書だと一目でわかる。


「研究室の席、というのは比喩じゃありませんよ」

そう言って、紙の端を指で叩く。

「ちゃんと“枠”があります。研究費、居室、閲覧権限、実験立ち会いの資格……全部、名簿に名前が載らないと動かせない」

俺は思わず背筋を伸ばした。

学院の一研究室に、そこまでの正式な手続きが必要だとは知らなかった。


「今は、私一人の名前で回しています」

淡々とした口調だが、その裏にある負担は想像に難くない。

「でも、あなたが入るなら話は別。助手、あるいは……弟子として、正式に登録する」

そこで、ふっと視線が柔らぐ。


「もちろん、年齢の問題はあります。前例はほとんどありません」

少しだけ声を落とし、しかし迷いなく続ける。

「だからこそ、今のうちに“上”に話を通す必要があるんです」


上、という言葉には、学院だけでなく、教会、研究評議会、そしてイーストレイクの権力構造そのものが含まれているのだろう。

右手が使えないにもかかわらず、彼女は書類を器用にまとめ直した。


「ランダル先生……あなたのお父様にも、正式に話をします」

一切の躊躇はない。

「保護者の同意は不可欠ですから。それに……」

少し間を置き、視線をこちらに向ける。

「あなたを預かる以上、私も責任を負う覚悟が要ります」

それは、研究者としてではなく、師としての言葉だった。

軽い気持ちで言えるものではない。


俺は深く息を吸い、はっきり答えた。

「お願いします。逃げませんし、約束も守ります」

その瞬間、リリィ先生の表情が、ほんの一瞬だけ安堵に緩んだ。

すぐにいつもの調子に戻るが、その変化を見逃さなかった。


「よろしい」

満足そうに頷く。

「では、決まりですね。ルーメン・プラム・ブロッサム。将来、私の研究室に所属する弟子」

まるで、すでに確定した事実のように言い切る。


「覚悟しておいてください」

微笑みの奥に、研究者の光が宿る。

「忙しくなりますよ。逃げ場なんて、最初からありませんから」

冗談めかした口調とは裏腹に、その言葉は重かった。

だが、不思議と嫌ではない。

この人の研究室に縛られるなら、それはきっと、前へ進むための鎖なのだ。


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