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リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練⑥ 大聖堂での実務と住み込み

大神官の言葉が場に残した重みを、そのままにしておく時間は与えられなかった。

大聖堂の奥から、慌ただしい足音が近づいてくる。


「怪我人が到着しました!」

神官の声は、切迫していた。

ここ数日の魔物の異常発生により、教会には連日のように負傷者が運び込まれている。

兵士、街の人々、商人、時には旅の途中で襲われたという者もいた。

大聖堂は、今や“祈りの場”であると同時に、戦場の延長線上にある治療所でもあった。


「では、実務に入る」

大神官の一声で、空気が切り替わる。

神官たちは手分けして配置につき、担架が並べられていく。

血の匂い、薬草の香り、焦燥と祈りが入り混じった空気。

俺は、思わず一歩息を吸い込んだ。


「ルーメン、こちらへ」

呼ばれ、最初の患者の前に立つ。

剣で裂かれた深い傷。

出血は止められているが、顔色は悪い。

意識はあるが、呼吸は浅い。


「上位でいけるか?」

神官の問いに、俺は魔力を感じ取る。

傷は深いが、生命力はまだ残っている。

「……上位で足ります」

そう答え、詠唱に入る。


癒しの光が傷口を包み、肉がゆっくりと塞がっていく。

患者の表情が、わずかに緩む。

「助かった……」

その小さな声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


次、また次。

上位で治る者、聖位が必要な者。

状況は一人一人違い、判断を誤れば命に関わる。

「急いで、次はこちらです!」

呼び声が止まらない。

俺は、休む間もなく癒しを施し続けた。

魔力を抑え、必要な分だけを流す。

派手さはいらない。

確実に、確実に。


やがて、視界の端で、聖位でも治りきらない患者が運ばれてきた。

大神官が無言で前に出る。

神位の癒しが発動した瞬間、空気が震えた。

同じ癒しでも、次元が違う。

それを目の当たりにし、俺は歯を食いしばった。


……まだ、届かない。

だが、逃げ場はなかった。

次の患者が、もう運ばれてきている。

大聖堂の中で、時間の感覚は失われていった。

昼か夜かも分からないほど、治療は続く。

その中で、俺ははっきりと理解していた。

ここは訓練場ではない。

一つ一つの判断が、命を分ける現場だということを。


神位の癒しを目指すとは、

この現実の中に身を置き続ける覚悟を持つということだった。

そして俺は、その覚悟を、すでに踏み込んで背負い始めていた。


治療は途切れなかった。一人を終えれば、すぐ次が運び込まれる。

まるで、列が“減る”という概念そのものが、この大聖堂から消えてしまったかのようだった。


担架の並びは、いつの間にか二列から三列へと増えていた。

兵士の鎧は裂け、血に濡れ、民の衣は破れ、恐怖と疲労が顔に刻まれている。

誰もが同じ言葉を口にした。


「魔物が……多すぎる」

「昨日より、明らかに数が増えている」

「森だけじゃない、街道にも出ている」

断片的に聞こえてくる情報が、胸の奥で一本の線に繋がっていく。

これは偶発的な増加ではない。

何かが、意図的に“溢れ出ている”。


「ルーメン、こちらだ」

神官に呼ばれ、また一人の前に立つ。

この患者は、上位では足りない。

魔力の流れが乱れ、傷が拒絶反応のように塞がらない。

俺は一瞬だけ、迷い、そして決断した。


「聖位でいきます」

光が強くなる。

身体の奥まで、深く、丁寧に。

流れを整え、魂に触れるように魔力を導く。

患者の胸が大きく上下し、やがて安定した。

だが、その直後、別の担架が滑り込んでくる。


終わらない。本当に、終わらない。

額に汗が滲み、魔力の消耗を自覚する。

それでも、止まるわけにはいかなかった。

ここで手を止めるということは、誰かの命を後回しにするという意味だからだ。


ふと、遠くで大神官が神官たちに指示を飛ばしている姿が見えた。

落ち着いた声。

だが、その背中からは、状況の深刻さがはっきりと伝わってくる。

……このままでは、追いつかない。

俺はそう思いながらも、次の患者へと向かう。

癒しを施すたびに、胸の奥で同じ問いが繰り返された。


神位の癒しが使えれば、救える命は増える。

だが、今の俺には、まだ届かない。

だからこそ。

この終わらない列の中で、逃げずに立ち続けるしかなかった。

ここは、大聖堂。そして今は、戦場と同じだ。

祈りと悲鳴が交錯するこの場所で、俺は、神位の高みが「力」ではなく、覚悟の果てにあるものだと、はっきりと理解し始めていた。


その日の治療がようやく一区切りついた頃、身体の芯に残る疲労が、遅れて重さを主張し始めていた。

魔力を使い切った感覚ではない。それでも、張り詰め続けた神経が、静かに軋んでいるのが分かる。大聖堂の回廊を歩く足取りは、思っていたよりも重かった。


「ルーメン、今日はもう戻りましょう」

リリィ先生がそう言った。声は穏やかだが、どこか気遣うような間がある。俺は頷き、並んで歩き出した。

向かった先は、いつもの研究室……ではなかった。


「今日は、そのまま私の部屋に来てください」

「……え?」

戸惑う俺に、リリィ先生は少しだけ困ったように笑った。

「しばらく長くなりそうですし、行き来は負担でしょう? ここに住み込みでいいと思います」

あまりにも自然な言い方だった。

“提案”というより、すでに決まっていることのような口調で。


通された部屋は、研究室とは違い、生活の匂いがはっきりとあった。簡素だが清潔な寝台、整えられた棚、窓辺に置かれた小さな机。研究に没頭するための場所というより、ようやく一息つける空間といった印象だった。


「着替えも、用意しておきましたから」

そう言って差し出された包みを見て、思わず目を瞬かせる。

「え、あの……」

「遠慮しないでください。必要なものですから」

断る理由が、見つからなかった。

それどころか、胸の奥に、妙な温かさが広がるのを感じた。


衣食住を共にする、という言葉が、遅れて意味を持って響く。

師匠と弟子。

それだけで済ませていい距離なのか、分からない。

けれど、今の俺たちは、同じ場所で同じ目的を背負っている。


部屋に入って腰を下ろすと、張り詰めていたものが、ようやく少し緩んだ。

リリィ先生は右手をかばいながら、棚の奥を探り、俺の方を振り返る。

「無理、していませんか?」

「……正直、少しだけ。でも、大丈夫です」


その返事に、先生は安堵したように息をついた。

近くにいると、右手の不自由さが、以前よりはっきりと目に入る。何気ない動作一つ一つに、小さな負担が積み重なっているのが分かる。

……だからこそ、ここにいる。

この距離で、この時間を共有する意味を、俺はまだ言葉にできない。

けれど、少なくとも逃げるつもりはなかった。


住み込み。

それは、修行の始まりであり、同時に、師匠の弱さを間近で見る覚悟を持つということでもあった。


部屋に落ち着いてしばらくすると、外の喧騒が嘘のように遠のいた。大聖堂の夜は静かで、厚い石壁が音を吸い込み、時間の流れさえ緩めてしまうようだった。ランプの灯りの下、リリィ先生は椅子に腰を下ろし、左手で机の端を軽く叩いた。


「せっかくですから、少し話をしましょうか」

その声には、教師としての落ち着きと、研究者としての熱が混じっていた。

俺は自然と背筋を伸ばす。


「私は、この研究室で何をしていると思いますか?」

唐突な問いだったが、答えは分かっているつもりだった。

「……新しい魔術、ですよね」


リリィ先生は小さく頷いた。

「ええ。ただ“新しい”というより、“繋ぐ”研究です」

そう言って、棚から数冊の分厚い資料を引き寄せる。右手が使えないため、動作は慎重で、だが慣れていた。


「それぞれの魔術は、属性ごとに分断されがちです。火は火、水は水、風は風。けれど、魔力の根は同じ。ならば、どう組み合わせれば、より効率的で、より安全で、より強力な効果を生み出せるのか……それを探しています」


ページをめくる音が、静かな部屋に響く。

図式化された魔力の流れ、重ね書きされた属性の相互干渉、理論式と実験記録。どれもが、膨大な試行錯誤の痕跡だった。


「もう一つは、基礎研究です」

「基礎……?」

「魔力が、どのように生まれ、どのように流れ、どの段階で“魔術”として形を持つのか。詠唱の有無、感情の介在、身体との結びつき……それらを一つ一つ解きほぐしています」


その言葉に、胸の奥が微かに震えた。

ハーモニック・リコンストラクション。

俺が“自然に”やっていることが、まさにその核心に触れていると、直感的に理解したからだ。


「理論だけでは足りません。実例が必要です。再現性も、検証も」

リリィ先生はそう言って、俺を見る。

視線は鋭く、けれどどこか期待を含んでいた。


「……だから、ルーメン。あなたの存在は、私の研究にとって、特別なんです」

重い言葉だった。

期待でもあり、責任でもある。


「もちろん、研究のために無理をさせるつもりはありません。でも……」

一拍置いて、静かに続ける。

「あなたとなら、今まで届かなかった場所に、手が届く気がするんです」

それは、野心だった。

同時に、純粋な探究心だった。


俺はしばらく黙ったまま、資料の山を見つめた。

魔術を学ぶ理由は、人それぞれだ。力、名誉、守るため、知るため。

リリィ先生の場合、それは明確だった。

知りたい。繋げたい。救いたい。

その核に触れた気がして、自然と口が開いた。

「……僕でよければ、手伝います」

迷いはなかった。


リリィ先生は、少しだけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。

「ええ。約束ですよ、ルーメン」

研究の話は、いつの間にか夜更けまで続いていた。

魔術の未来を語るその声は、疲れを感じさせなかった。

ただ一つ、右手の不自由さを除いて。

それが、この研究と、この修行が背負う現実なのだと、俺は改めて胸に刻む。


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