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リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練⑩ 神位癒し魔術の試み

翌日も、大聖堂は朝から慌ただしかった。扉を開けた瞬間に感じる空気が、昨日までとは違う。祈りの静けさではなく、切迫した現実の匂いが満ちている。神官たちの足取りは速く、呼び交わされる声も短い。誰もが、時間に追われていた。


「ルーメン、こちらです」

案内された先には、簡易的に仕切られた治療区画が並んでいた。寝台の上には、兵士や民間人が横たわっている。包帯だらけの者、顔色を失った者、浅い呼吸を繰り返す者――そのどれもが、魔物増加の現実を物語っていた。


俺は深く息を吸い、癒しの魔力を呼び起こす。

上位、そして聖位。

これまで幾度となく使ってきたはずの魔術だ。

最初の患者には、上位の癒しで十分だった。傷は塞がり、呼吸も落ち着く。神官が安堵の息をつく。その光景に、胸の奥で小さく安らぎが生まれた。


だが、次の寝台で、その感覚は一変した。

「この方は……」

神官の声が、わずかに震えている。

横たわる兵士は、胸部を深く裂かれていた。血は止まっているが、魔力の流れが乱れきっている。生命そのものが、崖の縁に引っかかっている状態だった。


俺は聖位の癒し魔術を施した。

光は、確かに降り注ぐ。

だが……止まった。

魔力が、奥へ届かない。

体は反応しているのに、魂の層に触れられない。

「……まだだ」

歯を食いしばり、もう一度、聖位の癒しを重ねる。

それでも、結果は変わらなかった。

傷はこれ以上悪化しないが、回復もしない。

その瞬間、胸の奥に、はっきりとした感情が生まれた。

……無力感だ。


「ルーメン」

大神官が静かに近づいてくる。

「ここから先は、神位が必要だ」

その言葉に、反論は浮かばなかった。

理解している。分かっている。

だが、悔しさが、喉の奥に詰まる。

大神官が神位の癒し魔術を施すと、空気が変わった。

光は、さきほどとは次元が違う。

体だけでなく、魂の深層にまで届く感覚が、はっきりと伝わってくる。


兵士の呼吸が、整った。

生命が、こちら側へ引き戻される。

「……ありがとうございます」

神官の声が、かすれる。

俺は、その場で拳を握りしめていた。

救えなかったわけではない。

だが、救ったのは俺ではない。

聖位では届かない場所がある。

その現実が、これ以上なく鮮明に突きつけられた。


治療を終えたあと、大神官は何も言わなかった。

ただ、その背中が、すべてを語っていた。

……まだ足りない。

……だからこそ、ここにいる。

俺は、次の寝台へと向かった。

無力感を抱えたままでも、立ち止まるわけにはいかない。

この場所で、それを理由に手を止めることは、許されないのだから。


次に運び込まれたのは、まだ若い民兵だった。全身に細かな裂傷が走り、魔力の流れは絡まり合った糸のように乱れている。表面的な傷は致命的ではない。だが、魂の奥が摩耗しているのが、はっきりと分かった。


「この者には、神位が必要だ」

大神官がそう告げた瞬間、俺の心臓が強く打った。

そして、思い切って口を開く。

「……大神官様。よろしければ、僕に一度、神位の癒し魔術を試させてください」

周囲の神官たちが、息を呑む気配が伝わる。

大神官は一瞬だけ俺を見つめ、その視線の奥で何かを測るように沈黙した。


「……よい。だが、無理はするな」

短い許可だった。

それだけで、胸の奥が熱くなる。

俺は寝台の傍らに立ち、深く息を整えた。

これまでの聖位とは違う。

神位……それは、体ではなく、魂に直接呼びかける魔術だ。

頭では理解している。

だが、理解と実行の間には、埋めがたい溝がある。


俺は祈りの言葉を紡ぎ、魔力を高める。

慈悲を、愛を、命を想う気持ちを、無理やり形にしようとする。

……神聖なる神の力よ。

詠唱を進めるにつれ、魔力は確かに集まってきた。

だが、その流れが、どこか硬い。

魂に寄り添うというより、無理に押し込もうとしている感覚があった。

「……っ」

光は、確かに現れた。

だが、それは一瞬で揺らぎ、散った。


患者の容態は、変わらない。

回復もしなければ、悪化もしない。

だが……“届いていない”。

その事実が、はっきりと分かった。


「……止めなさい」

大神官の声は、厳しくも穏やかだった。

すぐに彼が前に出て、同じ神位の癒し魔術を施す。

光の質が、まるで違う。

力強さではなく、深さ。

包み込むような温度と、確信に満ちた安定感。

生命が、再びこちら側へ引き寄せられる。


治療が終わると、大神官はゆっくりと振り返った。

「違いが、分かったか」

俺は、はっきりと頷いた。

「……はい」

悔しさが、胸を締め付ける。

同じ“神位”という言葉でも、その中身はまるで別物だった。


「焦るな」

大神官は続ける。

「神位の癒しは、力で押すものではない。

“救おう”とする意志ですら、時に邪魔になる」

その言葉は、静かに、だが重く胸に落ちた。


俺は、自分の手を見つめる。

まだ、足りない。

だが……届かないわけではない。

この差を、埋める。そのために、俺はここにいる。

そう、改めて心に刻みながら、俺は再び祈りの場へと戻った。


それからの日々は、時間の感覚が薄れていった。朝の祈りから始まり、講義、実践、そしてまた祈りへと戻る。神位の癒し魔術は、回数を重ねれば身につくという類のものではなかった。

毎回、同じ詠唱を辿っているはずなのに、同じ場所へは辿り着けない。魂に触れようとすれば弾かれ、寄り添おうとすれば距離が生まれる。聖位までなら、技術として積み上げられたものが、神位では一度すべてを手放すことを求められる。その矛盾に、心が追いつかなかった。


大神官の指導は、厳密で、しかし決して叱責にはならない。

「今のは、癒したいという意思が前に出すぎている」

「その瞬間、君は相手を“救う対象”として見てしまった」

「祈りは技ではない。祈りは、相手の命を尊ぶ姿勢そのものだ」

言葉は静かだが、的確に痛点を突いてくる。理解はできる。だが、再現ができない。その繰り返しが、心を摩耗させていった。


現場では、怪我人が途切れることがなかった。魔物の増加は止まらず、兵士や民が次々と運び込まれる。多くは上位や聖位で癒せるが、時折、魂が深く削られた者が現れる。そういう時、俺は一歩前に出て、神位を試みる。しかし結果は、同じだ。光は現れるが、届かない。大神官が代わり、確実に命を引き戻す。そのたびに、胸の奥で何かが崩れる音がした。


夜、研究室へ戻ると、リリィは右手を庇いながらも、いつも通りに振る舞おうとする。だが、俺には分かる。右手の石化は進んでいないが、完全に止まったわけではない。だから毎晩、俺は彼女の右手に触れ、ハーモニック・リコンストラクションを施す。魔力の流れを整え、悪化しないことを確かめる。その行為は、祈りであり、確認であり、そして自分への戒めだった。救えなかった現場の悔しさを、ここで置いていくための。


「焦らなくていいですよ」

リリィはそう言う。だが、その声に、ほんのわずかな不安が混じっているのを、俺は聞き逃さない。だからこそ、折れかけた心を叱咤する。神位に届かないままでは、彼女の石化病を“治す”入口にすら立てない。理解はある。時間も、多少はある。だが、余裕はない。そう思うたび、祈りは重くなり、魔力は硬くなる。


それでも翌朝、俺は再び大聖堂へ向かう。大神官の前で頭を下げ、指導を受け、現場に立つ。失敗しても、戻る。折れかけても、立ち直る。理由は一つだけだ。目的が、毎晩、右手の石化として目の前にあるから。祈りは、まだ届かない。だが、離れてもいない。その確信だけを頼りに、俺は今日も祈りの輪の中へと足を踏み入れた。


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