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リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練③ 大神官への調律魔術

大神官は静かに右手を差し出した。指先に年輪のような皺が刻まれ、その奥に、途方もない魔力が脈打っている。

俺は一歩近づき、礼をしてから、恐る恐るその手に触れた。触れた瞬間、身体の奥が鳴った。洪水だ。奔流だ。圧が違う。流れの密度が違う。これまで誰からも感じたことのない“別格”が、掌から一気に押し寄せてくる。


「……失礼します」

そう言って、俺は自分の魔力を“流し込む”のではなく、“添わせる”ように走らせた。押さない。引かない。角度を合わせ、速度を合わせ、ただ並走する。干渉は最小限に、だが確実に。祈りの言葉は短く、囁きに留める。

「ハーモニック・リコンストラクション」


何も起きない。光も、衝撃も、変化もない。だが、その“何も起きなさ”こそが、最大の緊張だった。魔力は拒まれていない。かといって、こちらに引き寄せられてもいない。巨大な流れの中に、俺の細い線が混ざり、乱れを正すための微細な補正だけが、確かに走っている。


大神官が、ゆっくりと息を吐いた。

「……分かる」

低い声が響く。

「強く干渉してきた。だが、壊さぬ。流れを“整える”だけだ。わしの魔力に、秩序が戻る感触がある」


俺は手を離した。掌に残る痺れが、まだ消えない。だが、成功の確信はあった。これは癒しではない。治す魔術でもない。流れを正し、暴走の芽を摘むための、別の道だ。


「これなら……」

大神官の視線が遠くを見た。

「石化病も、治るやもしれん。もう一段階、強く干渉できればな。失われた魔力の“空白”にまで届けば、道は開く」

その言葉が、胸の奥に落ちた。希望ではない。課題だ。俺は深く頷いた。


大神官はしばらく、黙って自分の手を見つめていた。皺の一本一本に意識を向けるように、指をわずかに動かし、魔力の巡りを確かめる。周囲の神官たちも息を詰め、誰ひとりとして口を挟まない。重厚な沈黙が、部屋の天井に張り付いたまま落ちてこない。


「……感じたぞ」

大神官がようやく口を開いた。

「強い。だが、乱暴ではない。わしの魔力に“合わせて”入ってきた。干渉して、調律しているのが、はっきり分かった」

言葉は短いが、そこに含まれる評価の重みは計り知れなかった。神位の癒しを極めた者が、初めて受けた“別系統の干渉”。それを否定ではなく、理解として受け止めている。


「癒しは、欠けたものを補い、壊れたものを繋ぎ直す」

大神官は続ける。

「だが、そなたのそれは違う。流れそのものを正し、暴れる理由を消していく。原因に触れている」

神官の一人が小さく息を呑む音がした。治療の順序をひっくり返す発想……症状ではなく、流れへ。


俺は視線を落とし、正直に答えた。

「僕は、治そうとはしていません。整えたいだけです。怒りや恐れ、不安が、どこで詰まって、どこで溢れているのか……それを、いま一度、元に戻す」

言葉にすると頼りなく聞こえる。だが、体はそれを覚えている。昨夜、リリィ先生の魔力が落ち着いた感触。あの温度と、同じだ。


大神官は顎に手を当て、しばし考え込んだ。

「なるほど。結果がすべてを物語っておる。昨日は不安定だった魔力が、今日は静かだ。悪い放出も止まっている。差は、場所ではない。時間でもない。……“心”だ」

その一語が、部屋の空気を変えた。


「だが、道は険しい」

大神官の視線が俺を射抜く。

「石化病は、魔力を失わせる病だ。流れを整えるだけでは、空白は埋まらぬ。もう一段、深く……失われたところまで干渉する力が要る」

期待と警告が、同時に投げられる。


「ルーメン」

名を呼ばれ、背筋が伸びる。

「可能性は見えた。だが、今はまだ届かぬ。だからこそ、鍛える。理解する。積み上げる」

大神官は静かに頷いた。


大神官は、深く息を吐いた。その呼吸に合わせるように、堂内の空気がわずかに緩む。張り詰めていた緊張は解けたわけではない。ただ、別の形へと姿を変えた……警戒から、探究へ。

「いま見た限りでは、確かに“可能性”はある」

大神官はそう前置きし、言葉を選ぶように続けた。

「石化病は、魔力を失わせ、流れを断ち切る。神位の癒しは、命を呼び戻すが、失われた流路そのものを再構築するには至らぬ。だが、そなたの魔術は……流れに触れ、原因に干渉する」


神官たちの視線が、再び俺に集まる。期待と不安が入り混じった、重たい視線だ。

「もう一段階、強く」

大神官は指で空をなぞる。

「魔力が“消えた”場所まで届く干渉ができれば、空白に新たな流路を敷けるやもしれん。治る、とは断言できぬ。だが、道は見えた」


俺は拳を握りしめた。治るかもしれない……その言葉は、軽くはなかった。軽々しく希望を振りまくための言葉ではない。鍛錬と理解を前提にした、厳しい条件付きの示唆だ。

「焦るな」

大神官は低く言った。

「焦りは、流れを歪める。必要なのは、積み上げだ。そなたの魔術は、慈悲と同調を核にしている。ならば、癒しの最奥に踏み込むべきだ」


「癒しの……最奥?」

「神位の、その先を見据える」

大神官は一瞬、遠くを見る目をした。

「癒しを神位へ。そこで初めて、“もう一段階”に手が届く」


リリィ先生が、静かに頷いた。右手を胸元に引き寄せ、深く息を吸う。悪い魔力の放出が止まっている……その事実が、彼女の中で何かを支えているのが、伝わってきた。

「可能性があるなら、進む」

大神官の声が決断を告げる。

「だが、その前に確かめねばならぬ。そなたの現在地だ」

大神官の視線が、まっすぐに俺を捉えた。

「ルーメン。魔術レベルは?」


大神官の問いは、短く、しかし逃げ場のない重さを持っていた。試すための質問ではない。ここから先へ進めるかどうか、その分岐点を確かめるための確認だ。俺は一瞬だけ呼吸を整え、事実をそのまま口にすることを選んだ。

「五属性はすべて聖位です。光属性も聖位に到達しています。闇属性は上位です」

言葉にすると、これまで積み重ねてきた時間が一行に圧縮される。誇るためではない。偽りなく、現在地を示すためだ。


大神官は眉をわずかに上げ、静かに頷いた。

「その年で、その到達……見事だ」

称賛は淡々としていたが、そこに含まれる評価は確かだった。

「師匠が良かった、というべきか。いや、資質と努力が噛み合った結果だな」

神官たちの間に、低いざわめきが走る。驚嘆はあれど、浮ついた空気はない。ここは大聖堂だ。結果は常に、次の責務を呼ぶ。


「ならば方針は定まる」

大神官は場を見渡し、宣言するように言った。

「癒しを神位へ引き上げる。そこに道がある」

俺の胸が、重く鳴った。神位……瀕死を“復活”へ導く、癒しの最奥。選ばれた者だけが立てる高みだと、何度も聞かされてきた。

「恐れはあるか?」

「あります」

正直に答えた。

「ですが、進みます」

「よい」

大神官は短く頷いた。

「恐れを抱いたまま進める者だけが、歪まぬ」


「今日から参加しなさい」

大神官は神官たちに視線を向ける。

「神位の癒しを教えている講義に合流させる。理論と実務、どちらも必要だ」

リリィ先生が、そっと俺の方を見た。その目には、期待と不安が同居している。それでも彼女は、微笑みを崩さなかった。

「ついて来られるかな?」

大神官が問いかける。

「全身全霊で挑みます」

言葉に誓いを込めた。


大聖堂の奥で、鐘の音がひとつ鳴った。合流の合図のように。

こうして、俺は“癒しの神位”へ向かう道に足を踏み入れた。まだ何も掴んではいない。ただ、進む理由だけは、はっきりと胸にあった。


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