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リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練② 不安と調律の関連性

「違いがない、という答えは受け取った」

大神官は静かに言ったが、その声色は一歩も引いていなかった。

「だが、結果が違う以上、必ず差はある。術式か、環境か、あるいは……術者の在り方か」

言葉が落ちるたび、場の空気が研ぎ澄まされていく。神官たちは互いに目配せをし、記録係の手が止まる。理屈で積み上げてきた治療の体系に、説明できない“裂け目”が生まれつつあった。


大神官は、昨日の光景を一つずつ反芻するように語る。

「昨日、大聖堂で施した際、神位の癒しは局所に作用し、確かに一時的な改善を見せた。だが、光が引くと同時に再石化が起き、悪い魔力の放出も止まらなかった」

そこで視線を上げ、断言する。

「つまり、外側からの強制的な修復は通ったが、内側の均衡が戻っていなかった」


次に、帰宅後の施術へと話題が移る。

「それに対し、研究室での施術後は、魔力が安定し、放出が止まった」

同じ術名、同じ術者、同じ患者。にもかかわらず、結果は逆だった。大神官は一瞬、言葉を選び、それから率直に切り出す。

「場所が違うだけで、結果が変わるほど、病は単純ではない。だが、場所が違うだけでは説明もつかない」


沈黙が落ちる。リリィ先生は唇を結び、俺は一歩、さらに踏み出した。

「違いは、あります」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「術式や触れ方ではありません。……向き合い方です」

神官の一人が小さく息を呑む音がした。


大神官は眉を上げたが、遮らなかった。

「続けなさい」

その一言が、場を“追及”から“聴取”へと切り替えた。俺は続ける。

「大聖堂では、病を“治す対象”として見ていました。けれど、研究室では……リリィ先生の不安や後悔、その感情に合わせて、魔力の流れに触れました」

言葉にすると単純だが、実感は重い。

「石化そのものではなく、乱れている“均衡”に、合わせにいったんです」


大神官はしばらく黙考し、やがて静かに頷いた。

「外から押し戻すのではなく、内側の歪みに同調して整えた、ということか」

疑念は残っているが、否定ではなかった。

「……ならば説明はつく。病の正体が、肉体だけでなく、感情と魔力の結び目にあるのなら」


場の空気が、わずかに変わる。理屈が通り始めたのだ。だが同時に、別の重みが生まれた。もしそれが真なら、癒しは“力”だけでは足りない。術者の心、その向き合い方そのものが問われる。大神官は深く息を吸い、結論を急がずに言った。

「確かめる必要がある」


その視線が、再び俺に向けられる。

「次の段へ進もう」

そう言って、大神官は場を制した。


大神官の「確かめる必要がある」という言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かが決壊した。ここで黙っていれば、議論は再び術式や環境の差へと戻ってしまう。そうなれば、昨日の“安定”は偶然として処理される。……それだけは、違う。確信があった。だから、俺は一歩前に出た。


「すみません」

声は小さかったが、場の空気を切るには十分だった。神官たちの視線が一斉に集まる。大神官は咎めることなく、顎で続きを促した。俺は深く息を吸い、言葉を選ぶ。

「昨日、研究室で行ったのは、治療というより……対話に近いものでした」


説明は簡単ではない。だが、誤解されたまま進む方が、ずっと危険だ

「魔力の流れは、人の状態を映します。恐れや後悔、責任感が強すぎると、流れは硬くなり、滞ります。昨日のリリィ先生は……」

言いかけて、言葉を切った。本人がいる。配慮が必要だった。

「……とても、苦しんでいました」


大神官の目が細くなる。俺は続ける。

「だから、石化に“勝つ”つもりでは触れていません。『治そう』ではなく、『一緒に落ち着こう』という気持ちで、流れに合わせました」

それは術式の説明ではない。態度の説明だ。

「流れを押さえ込まず、寄り添って、歪みが自然にほどける方向へ……それだけです」


一瞬の静寂。神官の一人が、思わず呟く。

「……調律」

大神官はその言葉を拾った。

「魔力を“整える”のではなく、“調律する”」

重ねるように、低く言う。

「対象の状態に合わせ、最小限の干渉で均衡を戻す。だから、放出が止まった」


俺は小さく頷いた。

「はい。結果として、石化の進行も止まりました」

誇示はしない。ただ、事実を置く。大神官は長い沈黙ののち、厳かに言った。

「理屈としては理解できる。だが……」

視線が鋭くなる。

「それを意図して行える者は、極めて少ない」


場の空気が、緊張から別の密度へと移り変わる。否定ではない。評価だ。大神官は一歩、前へ出た。

「ならば次は、検証だ」

その言葉が、次の段階の扉を開いた。


「悩みや不安を……聞いた、というのは?」

大神官の問いは短く、核心を射ていた。俺は一瞬、言葉を探す。術式の説明よりも、ここは心の話になるからだ。

「昨日、研究室で……石化のことだけじゃありません。あの森の出来事のこと、判断の責任、弟子を危険にさらしたという後悔。先生は、それらを全部、胸の奥に溜め込んでいました」


リリィ先生が、僅かに肩をすくめる。否定はしない。その沈黙が、真実を裏づけた。

「魔力は、感情に引っ張られます。強い自己否定は、流れを硬直させ、出口を失わせる。だから、まず……癒す気持ちで、触れました」


大神官が目を細める。

「術者の意図が、対象の流れを決める、と」

俺は頷いた。

「“治す”ではなく、“楽にする”。“押し戻す”ではなく、“一緒に整う”。流れの速さや向きを決めるのは、こちらの力じゃない。相手の呼吸に合わせて、拍を揃えるだけです」


神官たちの間に、低いざわめきが走る。概念としては知っていても、実践で語られることは稀だ。大神官は静かに言った。

「感情に合わせて、魔力を調律した。だから、放出が止まり、安定が続いた」

確認するように、俺を見る。

「そう理解してよいか」


「はい」

短く、しかし確信を込めて答える。

「石化は“結果”で、原因は“内側”でした。内側が落ち着けば、結果も静まります」


大神官は、しばし沈黙した後、深く息を吐いた。

「……神位の癒しが通らぬ理由が、見えた気がする」

神の力は強大だが、意図は一様だ。対象の状態に合わせて拍を変えることは、必ずしも得意ではない。

「君の魔術は、癒しではない。しかし、癒しに至る道を開く」


評価の言葉が、重く場に落ちる。俺は胸の奥が熱くなるのを感じながらも、次に来るであろう要請を予感していた。理屈が通ったなら、検証が必要になる。……そして、その相手は。

大神官が、ゆっくりと右手を差し出した。


差し出された大神官の右手を前に、場の空気が一段、静まった。誰もが息を潜める。神位の癒しを司る者が、自ら検証を求める……それ自体が異例だ。大神官は視線を俺に据えたまま、低く言う。

「魔力を“調律”した、という理解で相違ないな」

問いというより、確認だった。


「はい」

俺は一歩踏み出し、距離を詰める。

「流れの乱れを正し、拍を揃えました。押し切る力は使っていません」

大神官は頷き、続ける。

「結果がすべてを語る。昨日、ここでは安定しなかった。だが、帰宅後は安定した。術式も対象も同じで、違ったのは“向き合い方”だけ……そうだな」


神官の一人が小さく息を呑む。理屈は簡潔だが、到達は容易ではない。大神官は、掌を上に向けたまま言葉を重ねる。

「神位の癒しは、神の慈悲を均しく注ぐ。だが、均しは時に、対象の拍と噛み合わぬ。君の魔術は、対象の拍に合わせ、こちらが拍を変える」

ゆっくりと、確信を含ませて言う。

「それを、調律と呼ぶなら……妥当だ」


俺は黙って頷いた。言葉を重ねる必要はない。大神官は、わずかに口角を上げる。

「にわかには信じ難い。だが、目の前の安定が証明している」

視線が、リリィ先生の右手に移る。

「悪い魔力の放出が止まったのは、偶然ではない」


場に漂っていた疑念が、理解へと収束していくのが分かった。大神官は、手を引かずに続ける。

「よかろう。次は……検証だ」

短く、しかし重い一言。

「その魔術を、わしにもかけてくれないか」


その瞬間、胸が強く鳴った。恐れ多いという感情が先に立つ。だが、拒めば真理から遠ざかる。大神官は、逃げ道を与えぬ声で付け足した。

「わしにはできぬ魔術だ。受け、理解する以外にない」

俺は深く息を吸い、覚悟を決めた。


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