表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

256/258

リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練① 大神官の確認

第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練


翌日、まだ朝の冷気が石畳に残る時間帯に、俺とリリィ先生は並んでイレンティア大聖堂の正門をくぐった。昨日ここを出た時と同じ場所のはずなのに、空気の重さはまるで違って感じられた。高く伸びる尖塔、白い石壁に刻まれた神紋、静かに揺れる祈祷旗。そのどれもが変わらないのに、胸の奥だけが落ち着かない。

俺の隣を歩くリリィ先生も、普段より歩幅が小さく、足音がやけに控えめだった。昨日まで、ここは「最後の望み」の場所だった。そして今日は、その結果を突きつけられる場所でもある。


扉の前で一瞬、リリィ先生の足が止まった。右手は包帯に覆われ、指先まで白布に隠されている。その姿を見るたび、昨日の光景が脳裏に浮かぶ。

大神官の神位魔術でさえ完全には通じなかった石化、噴き出す悪い魔力、そして俺の魔術でようやく抑え込んだ、あの不安定な均衡。

俺は無意識に拳を握りしめ、深く息を吸った。今日、ここで確かめられるのは「良くなっているかどうか」だけじゃない。あの場限りの奇跡だったのか、それとも、確かに前に進めているのか。その答えが、もうすぐ出る。


神官が扉を開け、静かに中へと促した。大聖堂の内部は朝の光が差し込み、昨日と同じはずの荘厳さを保っている。それでも俺の感覚は敏感になっていて、床を伝う冷気や、遠くで響く祈りの声一つ一つが、やけに生々しく感じられた。リリィ先生は一歩一歩、確かめるように進む。その背中は、昨日よりも少しだけまっすぐに見えたが、安心していいのかどうか、俺にはまだ判断がつかなかった。


「大丈夫ですよ」と言われれば、きっと信じたかった。でも、その言葉を口にする代わりに、俺はただ隣を歩いた。並ぶ足音が重なり、やがてまた離れる。そのリズムが、今の俺たちの関係そのもののように思えた。治っているかもしれない。だが、治っていないかもしれない。そのどちらの可能性も、等しく胸の中に存在している。大聖堂の奥へと続く長い通路を前に、俺は静かに覚悟を固めていた。


正門を抜けてしばらく進むと、神官の一人が静かに俺たちの前に立ち、「こちらへ」と短く告げた。

その声は落ち着いていたが、どこか余計な言葉を削ぎ落としたような硬さがあった。昨日と同じ導線、同じ廊下のはずなのに、足を進めるごとに胸の内側が締め付けられていく。

壁に刻まれた祈祷文、灯された燭台の数、空気に混じる聖香の匂い。その全てが、今はやけに鋭く意識に引っかかった。


案内されたのは、昨日も通された奥の部屋だった。扉の前で神官が一度足を止め、深く一礼する。その仕草だけで、この場が単なる診察ではないことが伝わってくる。

扉が開かれると、室内の空気が一段と張り詰めた。数人の神官が既に控えており、俺たちが入るのを待っていたかのように視線が集まる。誰も口を開かない。沈黙そのものが、今から行われる確認の重さを物語っていた。


少し遅れて、奥の扉が静かに開いた。現れたのは大神官だった。白い法衣に身を包み、背筋を伸ばしたその姿は、昨日と変わらぬ威厳を放っている。だが、その目は鋭く、すでに「結果」を見据えているようにも見えた。

「よく来てくれた、リリィ、ルーメン」

低く落ち着いた声が室内に響き、空気が一瞬で引き締まる。歓迎の言葉でありながら、そこには試すような響きがあった。


大神官の視線が、まずリリィ先生に向けられる。包帯に覆われた右手、首元の様子、呼吸の間合い。言葉を発する前に、すでに多くを読み取ろうとしているのが分かった。神官たちも自然と間隔を詰め、室内は逃げ場のない緊張感に包まれていく。

昨日、神位の癒し魔術が通じなかった現実。その上で、今ここに再び呼ばれた意味。俺は喉の奥が乾くのを感じながら、無意識に一歩だけ前に出ていた。


この部屋に入った瞬間から、空気はすでに答えを求めている。良くなっているのか、そうでないのか。どちらに転んでも、次に進むしかない。その覚悟を、大神官も、神官たちも、そして俺自身も、同時に共有しているようだった。


大神官は余計な前置きを一切挟まず、静かに問いを投げた。

「リリィ、石化の悪化はあるか」

その言葉は短く、淡々としていたが、室内の空気をさらに張り詰めさせるには十分だった。神官たちの視線が一斉にリリィ先生へ集まる。誰もが、次に発せられる一言を待っていた。


リリィ先生は一瞬だけ呼吸を整え、わずかに背筋を伸ばしてから答えた。

「……石化は、進行していません」

その声は落ち着いていたが、完全に安心しきった響きではなかった。昨日の光景を思い出せば無理もない。神位の癒し魔術ですら跳ね返された現実を、この場にいる全員が知っている。進行していない、それだけではまだ判断がつかないのだ。


大神官は頷きもせず、否定もせず、ただその言葉を受け止めたまま沈黙した。その沈黙が、妙に長く感じられる。神官の一人が包帯の様子を目で追い、別の神官が無意識に息を詰めるのが分かった。

俺自身も、胸の奥で何かがきしむような感覚を覚えていた。進行していない。それは希望であると同時に、昨日から今日までの間に起きた「変化」を示唆している。


「……では」

大神官がそう前置きし、ゆっくりとリリィ先生へ視線を戻す。その目は、すでに次の確認へ移っていた。言葉よりも先に、結果を見極めようとする眼差しだった。沈黙が続く中、俺は気づいていた。昨日と今日で、場の空気が微妙に違う。悪い魔力特有の、肌にまとわりつくような不快感が、確かに薄れている。


だが、それを誰も口にはしない。今はまだ、断定するには早すぎる。大神官は、そう言わんばかりに一歩前へ出た。その動きに合わせて、次の確認が始まることを、全員が察していた。


「右手を、見せてくれるか」

大神官の声は低く、しかしはっきりとしていた。命令というより確認に近い響きだったが、その一言で場の空気が一段階引き締まる。

リリィ先生は一瞬だけためらうように視線を落とし、それから静かに右腕を差し出した。包帯の巻かれた右手は、昨日と同じように見える。しかし、近づくにつれて、俺は確信していた。何かが違う、と。


大神官は包帯の上から、慎重に、しかし躊躇なく右手に触れた。その瞬間、周囲に立つ神官たちの気配が一斉に張り詰める。魔力を読む者なら、誰もが感じ取れるはずだった。石化が残るはずの部位から、あの嫌悪感を伴う悪い魔力の放出が、ほとんど感じられないことを。


「……安定しているな」

大神官は、わずかに眉をひそめた。驚きを隠すためではない。理解が追いついていない者が、事実を一つずつ整理する時の表情だった。

「魔力の流れが乱れていない。それどころか、昨日よりも澄んでいる」

神官の一人が思わず息を呑む音が聞こえた。昨日は、包帯の下から抑えきれないほど噴き出していた悪い魔力が、今は完全に沈静化している。


リリィ先生自身も、その変化を感じ取っているのだろう。右手を差し出したまま、わずかに指先を動かし、戸惑ったように自分の腕を見つめていた。

「……確かに、昨日より楽です」

その言葉は、安堵と困惑が入り混じったものだった。治ってはいない。石化は残っている。それでも、“悪化していない”どころか、“落ち着いている”という事実は、ここにいる誰にとっても予想外だった。


大神官は一度、俺の方へ視線を向けた。その目は問いかけている。お前は何を知っている、と。だが、今はまだ言葉を挟む場面ではない。大神官は再びリリィ先生の右手へ意識を戻し、ゆっくりと結論を口にした。

「悪い魔力の放出は、ほぼ止まっている。少なくとも、昨日の状態とは明らかに違う」


その一言が、場に小さなどよめきを生んだ。神位の癒し魔術でも抑えきれなかったものが、なぜここまで安定しているのか。理由が分からないからこそ、誰もが不安と期待を同時に抱いていた。そして、その“違い”が、次の問いへと自然に繋がっていくことを、俺はこの時すでに予感していた。


大神官は、なおも右手から意識を離さず、ゆっくりと視線を包帯の先からリリィ先生の顔へ移した。

「良くなっている」

断定に近いその言葉は、祈りや希望ではなく、観測に基づく評価だった。

「進行が止まっているだけではない。魔力の循環が、昨日よりも自然だ。これは偶然ではない」

そう言ってから、わずかな間を置き、核心に触れる問いを投げかける。

「何か、したのか」


場の空気が静まり返る。神官たちの視線が一斉に集まるのを感じながら、リリィ先生は小さく息を整えた。取り繕うような言い方はしなかった。

「昨日、研究室に戻ってから……ルーメンに、もう一度、ハーモニック・リコンストラクションをかけてもらいました」

事実だけを、淡々と。だが、その言葉が落ちた瞬間、空気が目に見えて揺れた。


大神官の眉が、わずかに動く。

「同じ魔術を?」

確認は簡潔だったが、その背後には強い疑念があった。神位の癒しを重ねても安定しなかった病態が、同一の魔術で、しかも大聖堂を離れてから安定に向かうなど、理屈が通らない。

「昨日も、同じ魔術を何度も施したはずだ。だが、その時は安定しなかった」

大神官の声は低く、事実を積み上げる調子だった。


リリィ先生は首を振る。

「特別な違いは……ありません」

言い切ったが、その言葉は自信よりも困惑を含んでいた。詠唱も、距離も、触れ方も、同じ。だが結果だけが違う。その“差”を、彼女自身も説明できていない。神官の一人が、思わず口を挟みかけて言葉を飲み込む。説明のつかない現象ほど、場を不安にさせるものはない。


大神官は、短く息を吐いた。

「大聖堂での施術と、帰宅後の施術。その間に、違いは本当に無いのか」

視線が俺に向く。その瞬間、胸の奥で決断が固まった。ここで黙っていれば、事実は歪む。理由のない安定は、やがて疑念と恐怖を呼ぶだけだ。俺は一歩前に出た。


「すみません」

静かな声だったが、十分に場を切り裂いた。大神官と神官たちの視線が、俺に集まる。次に口にする言葉が、この“違い”の正体になると、誰もが理解していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ