リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療⑬ リリィの過去
研究室へ戻ると、外のざわめきが嘘のように遠のき、静寂が支配した。夜のイーストレイクは、昼間の緊張を抱え込んだまま、ゆっくりと呼吸しているようだった。窓の外には、城下の灯りが点々と浮かび、揺れる炎がガラス越しに淡く反射している。
しばらくの間、俺たちは言葉を交わさなかった。先ほどまでの出来事が重すぎて、軽々しく口を開く気にはなれなかったのだ。リリィ先生は椅子に腰掛け、右手をそっと膝の上に置いたまま、窓の外を見つめている。その横顔は、いつもより少しだけ幼く見えた。
やがて、俺は思い切って口を開いた。
「……リリィ先生って、生まれはどこなんですか?」
自分でも、少し唐突な問いだと分かっていた。けれど、この沈黙の中で、どうしても聞いておきたい気がした。リリィ先生は一瞬、驚いたようにこちらを見てから、ふっと力を抜いたように微笑む。
「そうですね……。ここから、ずっと北東に行ったところにある、エマルナという小さな村です」
その名前を聞いたことは、正直言ってなかった。地図の端の方に、かろうじて記されているような場所だろうか、と想像する。
「エマルナは、とても寒くて……それに、あまり豊かとは言えない村でした」
淡々とした口調だったが、その言葉の端々から、過去を振り返る静かな感情が滲んでいた。
「私は、そこからヴァルディスの学院に進学して、魔術を学びました。学院を卒業したあと、もっと深く魔術を研究したくて……このイーストレイクに来たんです」
なるほど、と心の中で頷く。彼女の知識の深さと、研究への執着とも言える姿勢は、そうした道のりを経てきたからこそなのだろう。
「今は、ここで研究室を持って、授業もして……気がついたら、ずいぶん長くここにいますね」
そう言って、リリィ先生は少しだけ照れたように笑った。
「リリィ先生、実家には……帰らないんですか?」
俺の問いに、彼女は一瞬だけ視線を落とした。その間は、ほんの数秒だったはずなのに、妙に長く感じられた。
「帰らない、というより……帰れない、に近いですね」
静かな声だった。
「エマルナの周辺は、治安があまり良くなくて。強い魔物も多いんです。昔、村が魔物に襲われたこともありました」
その光景を、彼女は今でも鮮明に覚えているのだろう。言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「だから……安全を求めて、ここにいる、というのも理由の一つです。両親には、今も手紙を書いていますし、仕送りもしていますよ」
「手紙には、何て書いてあるんですか?」
俺がそう聞くと、リリィ先生は困ったように笑った。
「決まってます。『結婚はまだか』って」
その一言で、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「私は、魔術を学びたくて、教えることも好きで……気づけば、こんな年になっていました」
彼女はそう言って、自分の年齢を口にした。二十六歳。見た目からは、どうしても想像できない数字だった。
「実は……私、エルフと人間のハーフなんです」
その告白に、俺は思わず目を見開いた。
「え……そうなんですか? 全然、分かりませんでした」
「でしょう?」
リリィ先生は、少しだけ胸を張るように言った。
「見た目が普通の人間で、本当に助かりました。ハーフなので、人間よりは長生きできるはずでしたし……本来なら、二百歳くらいまで生きられたはずなんです」
そこで、彼女の言葉は一瞬だけ途切れる。
「……ルーメンより、ずっと長く生きる予定だったんですけどね」
冗談めかした言い方だったが、その奥にある意味を、俺は理解してしまった。胸の奥が、少しだけ痛んだ。
夜の研究室に、静かな沈黙が戻る。外では、風が街を撫でる音がかすかに聞こえた。リリィ先生の過去を知ったことで、彼女が背負ってきた時間と選択の重さが、今までよりもはっきりと見えた気がした。
夜はさらに更け、研究室の灯りだけが静かに揺れていた。机の上に置かれた書物の影が伸び縮みし、窓の外では、風に押されるように雲が流れていく。リリィ先生は、しばらく黙ったまま、その揺れる影を見つめていた。
「……帰れない理由、もう一つあります」
低く、落ち着いた声だった。過去を語るというより、今の自分を確かめるような口調だった。
「私は、あの村を嫌いで出てきたわけじゃありません。むしろ……大切な場所です。寒くて、貧しくて、何もない村でしたけど、それでも、あそこが私の始まりでした」
彼女は右手をそっと左手で包み込む。まだ完全には癒えきっていないその手を、確かめるように。
「でも、魔術を学べば学ぶほど、分かってしまったんです。私が戻れば、村を守れるかもしれない。でも同時に、私がいることで、もっと大きな災いを引き寄せてしまうかもしれない、と」
魔力の強い者がいる場所には、それを狙う存在が集まる。魔物も、人も、そしてもっと得体の知れないものも。彼女はその現実を、身をもって知っていた。
「だから私は……戻らない選択をしました。安全な場所で力を蓄えて、学んで、いつか必要とされる時に備える。その方が、きっと、あの村のためになると信じて」
それは逃げではなく、覚悟だった。俺は、そう感じた。
「でも……今回のことで、分かってしまいました」
リリィ先生は、わずかに笑った。その笑みは、どこか自嘲に近い。
「どれだけ準備しても、どれだけ知識を積み重ねても、私は完璧じゃない。判断を誤れば、守りたい人を傷つけてしまう」
森での出来事が、脳裏をよぎる。ジャイアントキリングコブラ、倒れた俺、そして崩れていった彼女の心。
「それでも……私は、魔術をやめません」
その言葉は、静かだが、揺るぎなかった。
「研究も、教育も、続けます。逃げないために、ここにいると決めたから」
彼女は俺の方を向き、真っ直ぐに目を見た。
「ルーメン。あなたと出会って、私は初めて、自分の選択が誰かの未来に繋がることを、実感しました」
胸の奥が、熱くなる。
「あなたは、私の弟子で……それ以上に、希望です」
重すぎる言葉だった。だが、俺は視線を逸らさなかった。
「……リリィ先生」
言葉を探しながら、俺は答えた。
「僕は、まだ分からないことばかりです。未来のことも、魔術の限界も。でも……先生が選んだ道が間違いじゃないって、証明できるくらい、強くなります」
それは誓いだった。誰に強制されたわけでもない、自分で選んだ約束だ。
リリィ先生は、少しだけ目を潤ませてから、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「ありがとう。……それなら、私も負けていられませんね」
夜の研究室に、二人分の未来が静かに重なっていく。帰れない過去を背負いながらも、前へ進むための選択が、確かにここにあった。




