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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療⑫ 悪い魔力の消失

沈黙が、ゆっくりと場を満たしていった。大聖堂特有の澄んだ静けさの中で、さきほどまで張り詰めていた緊張だけが、名残のように床に沈んでいく。神官たちは一歩距離を取り、大神官も深く頷くと、今はこれ以上の処置は不要だと判断したのだろう、静かに背を向けた。


残されたのは、俺とリリィ先生、そして確かに“生き延びた”という感覚だけだった。


しばらくして、リリィ先生が小さく息を吐いた。

「……不思議ですね」

その声は、どこか現実に戻ろうとするような響きを帯びている。


「さっきまで、時間の感覚がなくて……次の瞬間には、すべて終わってしまうんじゃないかと思っていたのに」

そう言って、彼女は左手で胸元を押さえた。


「今は……お腹が、空いた気がします」

思わず、俺は目を瞬いた。あまりにも普通の言葉だったからだ。命の危機を越え、神位の癒しすら及ばなかった病と向き合った直後に出てくる言葉としては、あまりに穏やかで、あまりに人間的だった。


「……それ、いい兆候だと思います」

俺がそう言うと、リリィ先生は少しだけ困ったように笑った。


「でしょう? あれだけ何日も、何も喉を通らなかったのに」

その表情は、確かに疲れていたが、先ほどまでの翳りはない。心が、現実へと戻ってきている証拠だった。


「無理はしないでくださいね」

そう言いながら、俺は彼女の様子を改めて確かめる。呼吸は安定している。魔力の流れも、乱れはない。右手の石化は残っているが、進行の兆しは見られなかった。


「ええ。でも……」

リリィ先生は視線を上げ、俺を見た。

「少しだけでいいんです。スープとか、柔らかいものとか。誰かと一緒に、食べたいな、って」

その“誰か”が誰を指しているのか、言葉にされなくても分かった。


「分かりました」

俺は即座に答えた。

「大聖堂の中でも、軽い食事なら用意してもらえるはずです。僕も……少し、喉が渇きました」

それを聞いて、リリィ先生は安心したように肩の力を抜いた。


「ふふ……それなら、付き合ってもらいますね」

こうして、張り詰めていた時間は終わりを告げた。大きな脅威が消え去ったわけではない。病はまだ残り、未来は不確定だ。それでも……今この瞬間だけは、日常へと戻るための小さな一歩が、確かに踏み出された。


命をつなぎ止めたのは、奇跡の魔術だけではない。こうして“生きること”を選び直す意志そのものが、次へ進む力になるのだと、俺はその背中を見ながら思っていた。



大聖堂の奥にある控えの間は、先ほどまでの治療室とは違い、穏やかな空気に包まれていた。白い石の壁に灯された柔らかな光が、静かに揺れている。

神官の一人が運んできてくれたのは、湯気を立てるスープと、柔らかく煮込まれた野菜、そして小さく切り分けられたパンだった。どれも、体に負担をかけないように配慮されたものだ。


「ありがとうございます」

リリィ先生は丁寧に頭を下げたが、その動きはどこかぎこちない。右腕は添え木と包帯に固定され、自由に動かせない状態だった。椅子に腰掛けると、彼女は一瞬だけ困ったような表情を浮かべる。


「……やっぱり、少し食べにくいですね」

無理に笑おうとしているのが、かえって痛々しかった。俺はその様子を見て、迷うことなく席を立つ。


「僕がやります」

短くそう言うと、スプーンを手に取った。

「え?」

リリィ先生が目を丸くする。

「い、いえ、そこまでしてもらうのは……」

「大丈夫です」

そう言って、俺はスープをすくい、湯気が落ち着くのを待ってから、彼女の口元へ運んだ。

「熱くないですよ」

一瞬の沈黙のあと、リリィ先生は観念したように、そっと口を開いた。スープを含んだ瞬間、驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと表情が緩んでいく。


「……おいしい」

その一言が、胸に染みた。

何日もまともに食事を取れていなかったのだろう。少量ずつ、慎重に口へ運びながら、俺は彼女の様子を見守った。野菜はあらかじめ小さく切り分け、パンも無理のない大きさにして渡す。時折、スープが口元に残れば、清潔な布でそっと拭ってやる。


「……すみません」

リリィ先生が、小さな声で言った。

「弟子に、こんなことまでさせてしまって」

「弟子だから、ですよ」

そう返すと、彼女は少し驚いたように俺を見て、やがてふっと笑った。


「そうですね……。あなたは、私の弟子でした」

その笑顔は、どこか懐かしく、柔らかい。食事を進めるにつれ、彼女の呼吸は落ち着き、顔色もわずかに戻ってきた。


「久しぶりに……ちゃんと、ご飯が食べられました」

スープの器が空になるころ、リリィ先生はそう言って、深く息をついた。


「不思議ですね。体だけじゃなくて、心まで……少し、楽になった気がします」

その言葉を聞いて、俺は静かに頷いた。魔術で癒せるものと、そうでないものがある。だが、人の温もりや、こうした何気ない時間が、確かに心を支えているのだと、今ははっきりと分かる。


このささやかな食事の時間は、戦いや奇跡とは無縁だ。それでも、確実に……リリィ先生を、そして俺自身を、日常へと引き戻してくれていた。



食事を終えたあと、俺たちは神官に礼を言い、大聖堂の控えの間を後にした。廊下へ出ると、石造りの床に反響する足音が、先ほどまでよりもはっきりと耳に届く。緊迫した治療の場から離れたことで、周囲の音が、ようやく“街の中”のものとして戻ってきたのだと気づかされた。


城内を抜け、研究室へ戻るための通路を歩いていると、前方から数人の兵士がやってくるのが見えた。鎧の擦れる音、疲労の滲んだ足取り。だが、彼らの表情には、どこか安堵が混じっている。


「……急に魔物がいなくなったな」

一人の兵士が、確かめるように呟く。

「さっきまで、あれだけ立ち込めていた悪い魔力も、今は感じない」

別の兵士が頷きながら続けた。

「本当に、何だったんだ……。ともかく、少しは安心できる」

その会話は、決して大声ではなかった。それでも、城内の静けさの中では、はっきりと耳に届いた。俺は思わず足を止め、リリィ先生の方を見る。彼女もまた、その言葉を聞いていたようで、わずかに視線を伏せた。


「森の中に、ジャイアントキリングコブラがいるらしい」

別の兵士が続ける。

「近々、討伐部隊が編成されるそうだ。あれを倒してしまえば、ひとまず一安心だろう」

その声には、職務としての冷静さと、長く続いた異常事態への疲れが滲んでいた。俺は胸の奥で、何かが静かに引っかかるのを感じる。魔物が消え、悪い魔力も薄れた……それは確かに事実だ。だが、その原因が解決されたわけではない。


(本当に……終わったのか?)

一瞬、そう思ったが、すぐに首を振った。少なくとも今は、街がひと息つける状況になった。それは、否定しようのない現実だ。


「……よかったですね」

俺がそう言うと、リリィ先生は小さく息を吐き、ゆっくりと頷いた。


「ええ。街の人たちが、少しでも安心できるなら……それだけで、救われます」

その声音には、まだ完全には拭えない疲労と、教師として、研究者として、この街を思う気持ちが混じっていた。

魔物の異常発生が収まりつつあるという事実は、確かに希望だった。だが同時に、あの悪い魔力の正体と、彼女自身の身に起きている異変が、未解決のまま残されていることも、俺は強く意識していた。


城内を歩きながら、外の喧騒に耳を澄ます。悲鳴も、警鐘も聞こえない。ただ、人々がそれぞれの場所で、ようやく呼吸を整え始めている気配だけが、静かに広がっていた。


それは、嵐の直後の、束の間の凪。

この安堵が、いつまで続くのかは分からない。それでも今は……この街に戻りつつある日常を、確かに感じ取っていた。


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