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リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練④ 癒し魔術神位への覚悟

大神官の言葉は、ただの評価では終わらなかった。そこには、過去に多くの才能を見送り、また見失ってきた者だけが持つ重みがあった。

「その年でそこまで至ったのは、素晴らしい」

短い一言だが、軽くはない。年齢を理由にした驚きではなく、到達点そのものを正面から認める声音だった。


「だが、覚えておきなさい」

大神官は続ける。

「神位は“上位の延長”ではない。聖位の先にある別の地平だ。力の強さでも、精度の高さでもない。向き合う相手が変わる」

その言葉に、俺は背筋を正した。

「相手は、肉体だけではない。魂だ。もっと言えば、“生きたいという意思”そのものだ」


リリィ先生が、静かに頷いた。彼女はここで学び、癒しの神位に至った。その背中を、俺はずっと追ってきた。

「リリィも、ここで学んだ」

大神官は彼女に一瞥を向ける。

「聖位と神位の差に、何度も打ちのめされながらな」

リリィ先生は小さく苦笑し、

「ええ、正直……何度も諦めかけました」

と答えた。その声は穏やかだが、過去の重さがにじんでいた。


「それでも彼女は越えた」

大神官は言う。

「慈悲と愛を、技としてではなく、在り方として身につけたからだ」

その言葉が、胸に刺さる。

慈悲と愛……それは、鍛えれば身につく“技能”ではない。日々の選択と、向き合い方の積み重ねだ。


「お前には、師匠がいる」

大神官は俺を見る。

「それは誇るべきことだ。だが同時に、影でもある」

影……追いかけるほどに大きく、時に自分を小さく感じさせる存在。

「影に飲まれるな。越えようとするな。並び立て」

その助言は、剣よりも鋭く、同時に温かかった。


俺は深く息を吸い、はっきりと答えた。

「はい。並び立つために、学びます」

大神官は満足そうに頷いた。

「よろしい。では、始めよう。癒しの神位は、ここからだ」


大聖堂の空気が、さらに張り詰める。

称賛は終わり、猶予もない。ここから先は、結果で語るしかない領域だった。


大神官は頷く。

「だが、覚悟だけでは足りぬ。神位は“成功”より“耐久”が問われる。結果が出ない日が続く。誰も救えぬ日もある」

その言葉に、胸が締め付けられる。

「それでも続けられるか」

「続けます」

俺は即答した。

「救えない日があるから、続けます」


大神官は小さく笑った。

「良い答えだ。では方針を定めよう。講義に参加し、現場に立て。理論と実務を同時に積む」

重い扉が、音もなく開いた気がした。


リリィ先生が、俺の方を見た。右手はまだ不自由だが、その瞳には確かな光が戻っている。

「ルーメン」

「はい」

「一緒に、越えましょう」

「はい」

宣言は終わった。

ここからは、毎日の積み重ねが答えになる。

癒しを神位へ……その言葉が、胸の奥で静かに燃え続けていた。


大神官は振り返り、控えていた神官に短く指示を出した。その一言で空気が変わる。通路の先から人の動きが加速し、奥の講義室へ続く扉が開かれた。

「これより、神位の癒しに関する講義へ合流せよ」

それは特別扱いでも、例外でもない。むしろ、最も厳しい場所へ放り込むという宣告だった。


講義室に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わる。静かだが張り詰めている。机に向かう神官たちの背中は一様に真っ直ぐで、そこに集う覚悟の重さが伝わってきた。年齢も経験もさまざま。だが、全員が同じ一点を見つめている……“命を引き戻す”という、癒しの最奥だ。


大神官が壇上に立つ。

「神位の癒しは、術式の巧拙ではない」

低く、よく通る声が室内を満たす。

「肉体は結果だ。原因は魂にある。呼びかける相手は、傷そのものではない。生きようとする意思だ」


板書が始まる。身体、精神、魂……三層の円が描かれ、その中心に“意思”の文字が置かれる。

「神位とは、魂の中心へ触れる許可を得る段階だ」

ざわめきが、かすかに走る。許可……それは選ばれるという意味ではない。許され続ける努力を指す言葉だ。


俺は息を整え、ノートを取った。文字を追いながら、昨日の手応えが蘇る。暴走した魔力が、感情に寄り添った瞬間に鎮まった感覚。理屈では説明し切れないが、今なら言葉にできる。魂は、応答する。正しい呼びかけがあれば。


「今日から現場に立つ」

大神官は続ける。

「教会に集う人々、兵士、旅人。傷の大小で選別はしない。まずは“上位で足りる者”を見極めよ。次に“聖位が要る者”。神位は最後だ」

段階の重みが、胸に落ちる。

「誤れば、命を奪う」

静かな断言だった。


視線が、俺に向く。

「ルーメン」

「はい」

「お前は観測者だ。触れ、聞き、応える。だが、背負い込み過ぎるな」

「……はい」

その助言が、痛いほどありがたかった。


講義は実務へ移る。担架が運び込まれ、軽傷者から順に癒しが施される。神官たちの手つきは迅速で、迷いがない。上位で足りる者、聖位が必要な者……判断が早い。

俺は補助に入り、呼吸を合わせ、流れを読む。治る音がする。痛みが抜ける瞬間の、微かな緩み。だが、救えない影も見える。


場は完全に“修行”へ変わった。

成功は称えられない。失敗は記録される。

それでも、前に進むしかない。


扉の外で、リリィ先生が見守っている気配を感じた。右手はまだ不自由だが、立ち姿は凛としている。

……ここからだ。

神位への道は、もう始まっていた。


講義室の空気が、さらに一段、重くなった。

大神官は壇上から一歩だけ前へ出て、神官たち……そして俺を見渡した。その視線は、選別ではなく、覚悟を量るものだった。


「ここまでで、理解した者もいるだろう」

声は低く、しかし逃げ場はない。

「聖位と神位の差は、出力でも詠唱でもない。責任の深さだ」


一人の神官が息を呑むのが分かった。

「聖位は“癒す”。神位は“引き戻す”。戻ってきた魂が、再び折れぬよう、世界へ繋ぎ直す」

その言葉が、胸の奥へ沈む。癒したその先まで、背負うということ。


大神官は続けた。

「聖位では、失敗は痛みで済むことがある。だが神位では……失敗は“終わり”だ」

沈黙が落ちる。紙の擦れる音すら消えた。


視線が、再び俺に向けられる。

「ルーメン。お前は、感情に合わせて魔力を調律したと言ったな」

「はい」

「それは、魂の揺れに手を伸ばす行為だ。便利だが、危険でもある」

喉が渇く。

「相手の恐怖、後悔、自己否定……それらを受け止めきれるか?」


俺は、答える前に、リリィ先生の右手を思い浮かべた。石化の境目。止めた“悪化”。

……治せなくても、悪化させない。

……逃げない。

「……ついていきます」

声は小さかったが、嘘はなかった。

「全身全霊で」

大神官は、わずかに目を細めた。

「よい」

それは許可ではない。試験開始の合図だった。


「では、次の患者だ」

担架が運ばれる。重篤――聖位でも足りない兆候。

「見極めよ」

神官たちの動きが、微かに速まる。空気が張り詰め、心臓の音が耳に残る。


俺は一歩下がり、観測に徹した。流れは荒れている。恐怖が強い。身体は限界だが、魂はまだ……

「戻れる」

そう判断した瞬間、大神官の声が重なる。

「今は手を出すな。判断を外すな」


拳を握りしめる。

ここは、助けたい気持ちだけでは越えられない場所だ。

聖位と神位の差……それは、踏みとどまる勇気でもあった。

講義室は、完全に沈黙した修羅場となった。

重圧が、確かに俺を試している。


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