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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療⑧ 大聖堂の休憩室

大聖堂での一連のやり取りが終わり、張りつめていた空気がようやく少しだけ緩んだ頃、俺は父さんの方へ向き直った。

石の床に反射する灯りの中で、父さんは腕を組み、黙って状況を見守っていた。その横顔は、剣士として数え切れない修羅場をくぐってきた男のものだったが、今はそれ以上に、息子を案じる父親の顔をしていた。


「父さん……」

声をかけると、父さんはゆっくりとこちらを向く。

「リリィ先生を治すために……」

言葉を選びながら、俺は続けた。

「しばらく、イレンティア大聖堂で修行することになりました」


父さんの眉が、わずかに動いた。驚きと理解、その両方が混じった反応だった。

「そうか……」

低く、短い声。それだけで、父さんがすぐに状況を飲み込んだことが分かった。


俺は一歩、父さんに近づく。

「父さんは、もう帰っていいよ。ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」

胸の奥が、少しだけ締めつけられる。「この魔物の溢れ出し方……きっと、村も大変だと思う。母さんやエレナのこと、心配でしょう?」


父さんは、しばらく黙って俺を見つめていた。

十一歳の息子が、こんな決断を口にしている。その事実を、噛みしめるように。

やがて、父さんは大きな手で俺の頭に触れた。

乱暴でもなく、甘やかすでもない、いつもの父さんの手つきだった。


「……ああ、正直、心配だ」

苦笑混じりに言う。

「だがな、ルーメン。今のお前の目は、逃げる人間の目じゃない」

少し間を置いて、続ける。

「家のこと、家族のこと、村のみんなのことは、父さんが責任を持つ。だから……」

その視線が、まっすぐ俺に突き刺さる。「リリィ先生のことは、お前に任せた」


その言葉は、命令ではなかった。

信頼だった。

胸の奥が、熱くなる。

「……うん」

短く、しかし確かに頷く。「任せて」

その瞬間、俺ははっきりと自覚した。

これは別れではない。

それぞれが、それぞれの場所で戦うための、一時的な分かれ道なのだと。


父さんは最後にもう一度、俺の頭を軽く叩いた。

「無理はするな。でも……悔いの残る選択だけはするなよ」

その背中を、俺はしっかりと目に焼き付けた。



大聖堂の外では、すでにイーストレイクの衛兵たちが動いていた。魔物の異常発生を受け、街と街道の警戒を強めるためだという。父さんも、その流れに従うように、護衛を付けてもらって村へ戻ることになった。


石段を下りる前、父さんは一度だけ足を止め、振り返った。

その視線は、俺の背後――大聖堂の奥、リリィ先生が横たわる方角へと向けられている。


「……正直に言うとな」

父さんは、低く呟いた。「怖いんだ」

意外な言葉だった。

父さんが、恐怖を口にするのを、俺はほとんど聞いたことがない。


「村が襲われるかもしれない。家族に何かあるかもしれない。それも確かに怖い」

一拍置いて、続ける。「だが、それ以上に……お前が、ここに残ることがな」

剣士としてではなく、父親としての本音だった。


「それでも……」

父さんは、ゆっくりと拳を握り締める。「お前がここに残ると決めた理由は、逃げじゃない。誰かを救うための選択だ」


俺は、何も言わずに聞いていた。

「だから父さんは、信じる」

その目が、真っ直ぐに俺を射抜く。「ルーメン。リリィ先生を、頼んだぞ」


胸の奥に、重く、しかし確かな責任が落ちてくる。

それは重荷ではなかった。

覚悟として、静かに受け止められる重さだった。


「うん」

俺は、はっきりと答えた。「必ず守る」

父さんは、満足そうに頷いた。

そして踵を返し、衛兵たちと共に歩き出す。


遠ざかる背中を見送りながら、俺は初めて、父さんがどれほど多くのものを背負って生きてきたのかを実感していた。

その背中が角を曲がり、視界から消えるまで、俺は動かなかった。


やがて、静寂が戻る。

大聖堂の中には、石と祈りと、微かに残る悪い魔力の名残だけがあった。

俺はゆっくりと息を吸い、奥へと歩き出す。

……ここからは、俺の番だ。

次に進むべき場所は、リリィ先生の待つ研究室。

守ると決めた師匠のもとへ、迷いなく足を向けた。



休憩室の扉を閉めると、大聖堂の喧騒は嘘のように遮断された。厚い石壁に囲まれた空間には、神聖な雰囲気と喧騒な雰囲気が混ざり合っている。窓から差し込む光は控えめで、昼と夜の境目が曖昧だった。


「……ルーメン、何か飲みますか?」

静寂を破ったのは、リリィ先生の穏やかな声だった。先ほどまで生死の境にいたとは思えないほど、声色は落ち着いている。ただ、その奥に、疲労と張り詰めた緊張が残っているのを、俺は感じ取っていた。


「お願いします」

短く答えると、先生は左手だけを使って、ゆっくりと棚に手を伸ばす。右手はまだ石化が残り、包帯の下で重たく沈黙している。その不自由さが、部屋の空気をさらに静かにしていた。


カップが机に置かれる音が、小さく響く。

二人分の温かい飲み物が湯気を立て、ようやくこの場が“治療の直後”ではなく、“日常へ戻ろうとする途中”であることを教えてくれた。


しばらく、言葉はなかった。

無理に話さなくてもいい沈黙だった。

生き延びたこと、救えたこと、そしてまだ救えきれていないこと。そのすべてが、同じ静けさの中に溶け込んでいる。


俺はカップに手を伸ばし、温もりを確かめる。

指先から伝わる熱に、ようやく自分が強張っていたことに気づいた。


「……ありがとう、ルーメン」

唐突に、リリィ先生が言った。

視線はカップに落とされたまま、それでも確かな感情が込められている。

「助けてくれたことだけじゃありません。この部屋に、こうして戻ってこられたことも」


俺は首を振る。

「まだ、完全じゃないです。右手も……」

「ええ」

先生は小さく微笑んだ。

「でも、生きて話せている。それだけで、今は十分です」

その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。

大聖堂で張り詰めていた緊迫が、ここでようやく、静かにほどけ始めていた。


沈黙は再び戻る。

だがそれは、不安に満ちたものではない。

嵐の中心で、ようやく見つけた小さな凪……そんな時間だった。



しばらく湯気の立つカップを手の中で転がしていたリリィ先生が、ふっと遠くを見るような目をした。その視線は、今この休憩室ではなく、もっと昔……俺と出会った頃へ向けられているように感じられた。


「ルーメンに、初めて会った時のこと、覚えていますか?」

問いかけは穏やかで、責める響きは一切なかった。

俺は少し考えてから首を縦に振る。

「はい。初めて魔術を見せてもらった日ですよね」


「ええ」

先生は微笑んだが、その表情には懐かしさと同時に、どこか信じられないものを見るような色が混じっていた。

「あの時のあなたは、本当に普通の、少し魔力感知が鋭いだけの小さな子でした。好奇心が強くて、でも無茶はしない。正直に言うと……特別な天才だなんて、思っていなかったんです」


その言葉に、俺は何も言えず、黙って耳を傾ける。


「それが、光属性を持っていると分かり、無詠唱魔術を見せて……その次は、五属性すべてを扱えるようになって」

先生は指を折るように、ひとつずつ思い返していく。

「私が教えたはずのことを、いつの間にか自分のものにして、私の知らない領域にまで踏み込んでいました」

声は淡々としているが、そこには教師としての驚きと、抑えきれない実感がこもっていた。


「正直に言いますね」

リリィ先生は、そこで一度言葉を切った。

「私は、何度も思いました。自分はこの子の師でいていいのだろうか、と」

胸が、少しだけ痛んだ。

だが先生は続ける。


「でも、それ以上に……あなたは変わらなかった。力が増えても、判断が重くなっても、人の命を軽く扱わない。その姿勢だけは、最初に会った時と何一つ変わらなかった」


カップを持つ左手が、わずかに震える。

それは恐怖でも不安でもなく、感情が溢れかけている証のようだった。

「だから、私は安心していました。あなたなら大丈夫だと。どれほど遠くへ行っても、壊れたりしないと……そう、信じていたんです」

休憩室の静けさの中で、俺は初めて、自分がどれほど長い間、誰かの視線の中で見守られてきたのかを、はっきりと自覚していた。


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