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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療⑨ 告白と決意

しばらく沈黙が落ちた。休憩室の中にあるのは、神聖な雰囲気と、外から届く城内の足音だけだった。その静けさを破ったのは、リリィ先生の小さな息だった。まるで長い間、胸の奥に溜め込んでいたものを、ようやく言葉にしようと決めたかのように。


「……私、今回のことで分かったんです」

先生は俺の方を見なかった。視線は机の縁に落ちたまま、言葉だけが静かに続く。


「自分が思っていたより、ずっと弱かったということを。師匠として、導く側として、冷静であるべきだったのに……森でのことが、頭から離れなくなってしまって」

声が、わずかに揺れる。

俺は何も言わず、ただ聞くことに徹した。


「ルーメンが倒れた瞬間、あの音と感触が、何度も何度も思い出されて……。もし、あの時、違う判断をしていたら。もし、私がもっと慎重だったら。そう考え始めると、魔力まで、自分のものじゃなくなっていくのが分かりました」

先生の左手が、無意識のうちに胸元を押さえる。その仕草は、魔力ではなく、心臓そのものを抑え込もうとしているように見えた。


「石化病だと告げられた時、正直……少しだけ、納得してしまったんです」

自嘲気味な笑みが浮かぶ。

「罰なのかもしれない、と。師として失格だという、証のように感じてしまって」

その言葉は、重く、鋭かった。

だが次の瞬間、先生はゆっくりと顔を上げ、はっきりと俺を見た。


「でも、あなたが来てくれた」

その一言で、空気が変わった。

「大神官様でも抑えきれなかった石化を、あなたは止めてくれました。でも、それ以上に……私の中で暴れていたものを、静かにしてくれた」

視線が合う。そこにあるのは、感謝だけではなかった。依存でも崇拝でもない、もっと切実な感情。


「命を救われた、というだけじゃありません」

リリィ先生は、言葉を選びながら続ける。

「私は、あなたに“戻してもらった”んです。師として立っていられる場所に、もう一度」


その瞬間、俺の胸の奥で、何かが強く締め付けられた。

救ったつもりでいた。助けたつもりでいた。だが、先生の言葉は、それだけでは済まされない重さを持っていた。


「ルーメン」

名前を呼ぶ声は、驚くほど穏やかだった。

「私は、あなたに救われました。本当に……ありがとう」

その告白は、研究室の静けさに溶けながら、確かに俺の中へと届いていた。



ありがとう、と言ったきり、リリィ先生はしばらく言葉を失ったように黙り込んだ。視線は俺から外れ、窓の外……夕暮れに染まり始めたイーストレイクの空へと向けられている。その横顔は、どこか覚悟を決めた人間のものだった。迷いを通り抜け、逃げ場のない場所に立った者だけが浮かべる、静かな表情。


「……寿命の話を、聞きましたよね」

唐突に、そう切り出された。

俺は、反射的に息を呑んだ。


「大神官様が言っていた通りです。あなたの魔術のおかげで、確かに私は“少し”生きられる時間を取り戻しました。でも、完全に治ったわけじゃない。右手の石化が、それを教えてくれています」

包帯に覆われた右手を、先生はそっと見下ろす。その仕草には、もはや恐怖はなかった。ただ、事実を受け止める冷静さだけがあった。


「私は、まだまだたくさんやりたいことがありました魔術やその研究。もっと時間があって生き続けることができたはずです。でも今は、その未来が消えかけている」

一瞬、胸の奥が痛んだ。

俺は、何か言わなければと思いながら、言葉を見つけられずにいた。


「だからこそ、決めたんです」

リリィ先生は、はっきりとそう言った。

「残された時間を、ただ延ばすために使うつもりはありません。後悔しながら、恐れながら、生きるつもりもない」

ゆっくりと立ち上がり、俺の前に立つ。距離は近いのに、威圧感はなかった。ただ、真剣さだけが空気を張り詰めさせる。


「ルーメン。もし……もし、あなたがそれを許してくれるなら」

一度、言葉が途切れた。

それでも、先生は目を逸らさなかった。

「私は、あなたと共に生きたい。師として、研究者として、そして……あなたを導く者として。残りの人生を、あなたのために使いたいと思っています」

それは依存ではなかった。犠牲でもない。

自分の意思で選び取った、未来の形だった。


「もちろん、あなたの道を縛るつもりはありません。私が先にいなくなる可能性だってある。それでも……それでも、あなたが進む道のそばにいられるなら、それでいい」

胸の奥が、熱くなる。

救いたいと思っていた相手から、ここまでの覚悟を向けられるとは、思っていなかった。


俺は、深く息を吸い、ゆっくりと言葉を返した。

「……もし、僕がもっと強くなれたら」

声が、わずかに震えた。

「もし、教会で修行して、この魔術を極められたら……きっと、リリィ先生を“完全に”救えるかもしれません」

一瞬、先生の目が見開かれた。

だが、次の瞬間、柔らかな笑みが浮かぶ。


「そうですね」

静かに、しかし確かに。

「ルーメンなら……できるかもしれません」

夕暮れの光が、二人の影を床に落とす。

その影は、並んでいた。重なり合いながら、同じ方向を向いて。

その瞬間、俺ははっきりと理解した。

これは“救済”ではない。

互いが選び取った、未来への誓いなのだと。



リリィ先生の言葉が、胸の奥でゆっくりと沈殿していく。共に生きたい……その一言は、感情としては温かいのに、背負うものの重さをはっきりと伴っていた。守るべき未来が生まれた瞬間、人は否応なく強さを求められる。俺はその感覚を、はっきりと自覚していた。


「……だから、決めました」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

逃げでも衝動でもない。積み重ねた思考の、行き着いた先だった。


「イレンティア大聖堂で修行します。大神官様のもとで、癒しも、神術も、魔力の在り方そのものも、全部学びたい。今のままじゃ、足りない。今日のことが、それをはっきり教えてくれました」

右手に残った石化。何度も再構築を繰り返し、抑え込むことしかできなかった現実。あれは失敗ではないが、到達点でもない。俺の魔術は“可能性”を示しただけで、“解答”にはなっていなかった。


「ハーモニック・リコンストラクションは、まだ完成していません。暴走を鎮め、形を立て直すことはできても、病そのものを断ち切るところまでは至っていない。……でも、だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいきません。リリィ先生を救うために、そして、同じように苦しむ誰かを救えるようになるために、僕は強くなります」

リリィ先生は、少し驚いたように目を瞬かせたあと、静かに頷いた。


「……やっぱり、あなたは私の誇りですね」

その声は、教師が生徒に向けるものでも、命を救われた者のものでもなかった。対等な覚悟を持つ者に向けた、まっすぐな敬意だった。


「私も、毎日ここに通います。教会の治療を受けながら、研究を続けます。あなたが修行するなら、私も立ち止まりません。……一緒に、前に進みましょう」

その言葉に、迷いはなかった。

俺は、はっきりと頷く。


「はい。必ず、結果を出します」

大神官の言葉が、脳裏をよぎる。

“神の御霊に従って心して望め”……それは命令ではなく、問いだったのだろう。覚悟はあるか、と。


答えは、もう決まっている。

俺は、リリィ先生の前で、深く息を吸い、胸の内で誓った。

この場所で、限界を越える。

神の力にすがるのではなく、神の理に届くまで、自分を鍛え上げる。

それが、弟子としての責任であり、共に生きると決めた者としての、最初の一歩だった。


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