リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療⓻ 覚悟
「……少し、伸びました」
その言葉は、あまりにも静かに告げられた。まるで、天気の話でもするかのように。けれど、その内容が指しているものを理解した瞬間、胸の奥が冷たく締め付けられる。
「寿命が、です」
リリィ先生はそう言って、淡く笑った。無理をしているわけではない。ただ、覚悟を決めた人間の、揺るがない表情だった。
「石化病は……治っていません。大神官様のお力でも、あなたの魔術でも……完全には」
その視線が、右手に落ちる。指先に残る、灰色の石化。確かに、広がりは止まっている。肘より上に戻る気配もない。だが、それは「治った」わけではない。
「それでも……進行は、確実に遅くなりました」
リリィ先生は、静かに続ける。
「このままなら……本来、もっと早く、全身へ回っていたはずです。でも……あなたが、何度も……何度も、私の魔力を引き戻してくれた」
大神官が、深く頷いた。
「間違いない。寿命は……確実に、延びておる。どれほどかは分からぬが……“今すぐ終わる運命”では、なくなった」
その言葉を聞いて、胸の奥に小さな安堵が生まれた。けれど、それは、すぐに別の感情に塗り替えられる。
「……だから」
リリィ先生が、俺の方を見た。
「残された時間は……弟子の、ルーメンのために使いたいと思います」
一瞬、言葉の意味が、理解できなかった。
「……え?」
間の抜けた声が、勝手に口から漏れる。
残された時間。
その言い方が、あまりにも、決定事項のようで。
「命を、あなたに捧げる、と言っているわけではありませんよ?」
そう前置きして、彼女は少しだけ、困ったように笑う。
「でも……あなたがここまでしてくれた。私を生かすために、必死になってくれた。その事実が……私の中で、とても大きくて……」
言葉を探すように、一度、視線を逸らす。
「教師として。師匠として。……そして、一人の魔術師として」
再び、こちらを見る。
「あなたの未来を、見届けたい。支えたい。導ける限り、導きたい」
その声音には、使命感ではなく、個人的な想いが滲んでいた。
「だから……残りの人生は……あなたのために、使わせてください」
その言葉を、俺は、素直に喜べなかった。
胸の奥で、何かが、重く沈んでいく。
救えた。確かに、救えたはずなのに。
「……そんなの……」
言いかけて、言葉が詰まる。
感謝されるほどのことを、したつもりはない。
寿命を、誰かのために使うなんて、そんな重い選択を、背負わせるつもりもなかった。
俺は、ただ……失いたくなかっただけだ。
リリィ先生は、その沈黙を、責めなかった。ただ、静かに、見守る。
「……今は、答えなくていいですよ」
優しく、そう言った。
「あなたはまだ、十一歳ですもの。重すぎる話でしたね」
そう言って微笑むその姿が、余計に、胸を締め付けた。
助けたはずなのに。
救ったはずなのに。
俺の中には、喜びと同時に、消えない違和感が、確かに残っていた。
喉の奥に、何かが引っかかったまま、言葉にならない。
助かった……その事実だけを見れば、間違いなく奇跡だった。大神官ですら治せなかった病を、完全ではないにせよ食い止めた。
右手に石化は残ったが、命は繋ぎ止められた。誰もが「よくやった」と言うだろうし、胸を張っていいはずなのに、俺の心は、どうしても軽くならなかった。
(……本当に、救えたのか?)
その問いが、胸の内で何度も反響する。
寿命が「少し伸びた」
その言葉は、救いであると同時に、残酷な宣告でもあった。終わりが先送りになっただけで、消えたわけではない。しかも、その延びた時間を、リリィ先生は「俺のために使う」と言った。
(そんなつもりじゃなかった)
俺は、ただ生きていてほしかっただけだ。師匠として、教師として、当たり前に笑って、研究して、授業をして、そんな日常を続けてほしかった。自分の未来と引き換えに、誰かの余命を背負う覚悟なんて、考えたこともなかった。
視線を落とすと、リリィ先生の右手が目に入る。包帯の下に、まだ残る石化。完全には戻らなかった証拠。何度も、何度も、魔力を流し込み、調律を繰り返した末に辿り着いた限界線。あれ以上を望めば、きっと、俺の方が先に壊れていた。
(……俺は、足りなかった)
そう思ってしまう自分が、悔しかった。
救えなかった部分ばかりが、目についてしまう。救えた事実よりも、救いきれなかった現実の方が、重くのしかかる。
「……ルーメン?」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
リリィ先生は、こちらを気遣うように見ていた。謝罪も、感謝も、もう口にしない。ただ、弟子の心の揺れを、正面から受け止めようとしている目だった。
「……ごめんなさい」
思わず、そう口にしていた。
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥に溜まった感情が、そう言わせた。
「ごめんなさい、完全には……」
言い終わる前に、首を振られる。
「謝らないで」
穏やかな声だった。
「あなたは、十分すぎるほど、やってくれました。ここまで来られたのは、あなたのおかげです」
その言葉は優しかったが、俺の中の葛藤を消すには足りなかった。むしろ、余計に深く刻まれる。
救いとは何なのか。
命を繋げば、それでいいのか。
(……強くならないと)
心の奥で、静かに決意が形を取り始める。
次は、寿命が「少し伸びた」で終わらないように。
次は、「残り」を語らせないように。
俺は、まだ何も言わなかった。ただ、拳を、ぎゅっと握りしめる。
その小さな動作に、決意と未熟さの両方が、滲んでいた。
沈黙を破ったのは、大神官だった。
長い年月を刻んだその瞳は、ルーメンとリリィの二人を順に見渡し、最後にゆっくりと口を開く。
「……ルーメン、と言ったな」
呼ばれて、背筋が伸びる。
大神官の声には、試すような厳しさと、どこか確信めいた響きがあった。
「お主の魔術は、わしの知る癒しとは異なる。神位とも、体系とも、明確に違う。しかし……命に干渉し、なお壊さぬ。これは、神の領域に最も近い“調律”だ」
その言葉に、周囲の神官たちがざわめく。
神の領域。
軽々しく使われるはずのない言葉だった。
大神官は続ける。
「この大聖堂には、神の理と、癒しの歴史が蓄積されている。だが、それだけでは足りぬことも、今日、はっきりした。お主の魔術は、ここでこそ磨かれるべきだ」
一拍置いて、はっきりと告げた。
「再び、このイレンティア大聖堂で修行する気はないか?」
空気が、ぴんと張り詰める。
それは勧誘ではなく、試練への招待だった。
俺は、言葉を失った。
大聖堂での修行……それは、名誉であると同時に、人生の進路そのものを変える選択だ。村での生活、学院での学び、家族との距離。すべてが、一気に頭をよぎる。
迷いが、胸に広がる。
答えを出すには、重すぎる問いだった。
そんな俺の横で、リリィ先生が、小さく息を吸う気配がした。
「……大神官様」
静かな声だった。
だが、その一言に、場の視線が一斉に集まる。
リリィ先生は、まだ完全には戻らない右手を胸の前でそっと押さえながら、ゆっくりと頭を下げた。その姿は弱々しく見えるはずなのに、どこか不思議な芯の強さを帯びていた。
「もし、ルーメンがこの大聖堂で修行することをお許しいただけるのであれば……私の研究室から通わせていただけませんか」
大神官が、わずかに目を細める。
「研究室から、だと?」
「はい。私も、これからは毎日、ここに通うことになります」
その言葉は、淡々としていながら、決意を含んでいた。「この身体では、以前のように研究だけに籠もることはできません。でも、だからこそ……ここで学び、向き合う必要があると思っています」
一瞬、場に沈黙が落ちる。
神官たちは、互いに目を合わせ、言葉を飲み込んでいる。
リリィ先生は、ちらりと俺の方を見た。
その視線には、師としての厳しさではなく、どこまでも優しい配慮があった。
「ルーメンは、まだ子どもです。家族も、村もあります。すべてを切り離してしまうのは、あまりにも酷です」
そして、少しだけ口元を緩める。
「でも……この子は、ここで学ばなければならない力を持っている。私は、そう思っています」
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
俺のために。俺の人生を、俺以上に真剣に考えてくれている。
大神官は、しばらく黙ったまま、二人を見比べていたが、やがて低く息を吐いた。
「……なるほどな」
それは、否定ではなかった。
「神の理に背かぬ限り、修行の形は一つではない。研究室から通うこと――認めよう。ただし」
視線が、今度は真っ直ぐ俺に向けられる。
「甘えは許されぬぞ、ルーメン。ここで学ぶということは、神の前に立つということだ」
重い言葉だった。
だが、不思議と怖くはなかった。
隣で、リリィ先生が、ほっとしたように小さく息を吐くのが分かった。
大神官の視線が、まっすぐに俺を捉えていた。逃げ場のない、だが試すような眼差しだった。
大聖堂の奥深く、石造りの壁に反響する静けさの中で、俺は自分の鼓動の音をはっきりと聞いていた。
早すぎる。まだ十一歳だ。
本来なら、こんな場所で、こんな選択を迫られる年齢じゃない。
けれど……。
寝台に横たわるリリィ先生の姿が、視界の端に入る。
右手は、まだ石化したまま。
完全に救えたわけじゃない。
それでも、確かに、救えたものがあった。
命。時間。そして、師としての誇り。
「……ルーメン」
大神官が、低く名を呼んだ。
「お前は、この大聖堂で何を求める?」
問いは、単純だった。
力か。奇跡か。それとも、誰かを救うための手段か。
俺は、一度だけ深く息を吸った。
「……僕は」
言葉にするまで、ほんのわずかな時間がかかった。
頭で考えた答えじゃない。
胸の奥から、そのまま引き上げるように。
「僕は、救える力が欲しいです」
声は、震えていなかった。
「神位の癒し魔術でも救えないものがあることを、今日、知りました。でも……それでも、諦めたくありません」
拳を、ぎゅっと握る。「リリィ先生を、完全に救いたい。これから先、同じように苦しむ人がいたら、その人も……」
大神官は、何も言わずに聞いていた。
「それが、神に背くことだとしても、僕は……人を救うために、学びたいです」
言い切った瞬間、胸の奥で、何かが定まった気がした。
迷いは、もうなかった。
長い沈黙のあと、大神官はゆっくりと頷いた。
「よかろう」
その声は、厳かで、しかし温かかった。「神の御霊に従い、心して望むがよい。お前の歩む道が、祝福であれ、試練であれ……それは、お前自身が背負うものだ」
俺は、深く頭を下げた。
「……はい。心して、お受けします」
その瞬間、隣で、リリィ先生が小さく微笑んだ。
それは、教師としての微笑みであり、同時に……一人の人間としての、安堵の表情だった。
こうして、俺は決めた。大聖堂で修行することを。
神と向き合い、魔術と向き合い、そして……師の未来と向き合うことを。
まだ知らない困難が、この先いくつ待ち受けていようとも。




