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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療⑥ リリィへの告知

微かな息遣いが、静まり返った治療室に混じった。最初は錯覚かと思うほど弱く、けれど確かに“生きている”と主張する音だった。

リリィ先生の胸が、ゆっくりと上下している。その変化に、最初に気づいたのは大神官ではなく、俺だった。左手越しに伝わる体温が、ほんのわずかだが、戻ってきている。


「……う……」

かすれた声が漏れる。瞼が、重そうに震え、閉じられたままの時間が一瞬、永遠のように感じられた。俺は呼吸を整え、力を入れすぎないようにしながら、その手を離さずにいた。

触れていることで、彼女の魔力の状態が分かる。完全に静まったわけではないが、先ほどのような荒れ狂い方はしていない。今は、眠りから覚める直前の、危うい均衡の中にある。


ゆっくりと、リリィ先生の目が開いた。焦点は合っていない。天井を見つめ、次に大神官の姿を捉え、最後に……俺を見る。そこに浮かんだのは、驚きでも恐怖でもなく、戸惑いだった。


「……あれ……?」

自分の声が聞こえたことを、確かめるように、もう一度小さく息を吸う。次に、何かに気づいたように、視線が右腕へと落ちた。包帯は剥がされ、添え木も外されている。石化していたはずの腕が、そこに“ある”。


「……軽い……?」

信じられない、というように呟きながら、指先をわずかに動かす。肘から先にかけては、まだ石の質感が残っているが、肩から肘にかけては、確かに自分の身体だ。重さも、鈍さも、あの“死んだような感覚”がない。


リリィ先生は、何度か瞬きをしてから、俺を見た。その目に、ようやく現実が戻ってくる。


「……ルーメン……?」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溶けた。生きている。意識がある。それだけで、十分だったはずなのに、彼女はさらに言葉を重ねる。


「……腕が……動く……?」

確かめるように、左腕で右腕を支え、慎重に持ち上げる。その仕草は、術者としてではなく、一人の人間として、自分の身体を恐る恐る確認するものだった。石化は残っている。だが、失われていたはずの感覚が、戻りつつある。


大神官が、一歩前に出た。

「無理をするな、リリィ。今はまだ、完全ではない」

その声に、彼女は小さく頷いたが、視線は再び俺に戻る。問いかけるようで、答えを恐れているようでもある。


「……何が……起きたんですか……?」

その質問に、俺はすぐには答えられなかった。救えたわけじゃない。治したわけでもない。ただ、今は……ここに繋ぎ止めただけだ。その事実を、どう伝えるべきかを考えている間に、大神官が静かに口を開いた。


「目覚めたか、リリィ。お前は今、弟子に命を救われている」

その言葉が、治療室に重く落ちた。リリィ先生の表情が、ゆっくりと変わっていく。驚き、困惑、そして、理解へ。視線が、再び俺の手元へと下りる。左手を、まだ握ったままの俺の手へ。



「……弟子が……?」

その言葉を、リリィ先生はもう一度、噛みしめるように繰り返した。まるで、自分の耳が何かを聞き間違えたのではないかと疑うように。視線は俺と大神官の間を行き来し、最後に、大神官の穏やかだが揺るぎのない眼差しに留まった。


「そうだ」

大神官は短く、しかしはっきりと断言した。

「わしではない。神位の癒し魔術でも、石化病そのものを止めることはできなかった。聖水を二十本用い、リザレクションヒーリングを施しても、石化は一時的に退いただけで、すぐに元へ戻った」


その説明に、リリィ先生の眉が、かすかに寄る。自分の身体で起きていたことを、思い出そうとしているのだろう。右腕の肘まで解け、そして再び侵食されていった、あの感覚。神の光に包まれながらも、完全には救われなかった、あの瞬間。


「……では……」

声が、自然と低くなる。

「この状態に……なったのは……」

大神官は一歩下がり、代わりに、俺の方へ視線を向けた。促すでもなく、責めるでもなく、事実を示すためだけの動きだった。


「君の弟子、ルーメンだ。彼が、自らの魔術で、お前の暴走した魔力に干渉し、石化の進行を抑え込んだ」

治療室の空気が、一段階、重くなった気がした。神官たちの間に、ざわめきが走る。癒しではない。神の加護でもない。それでも、結果として“救われた”。その矛盾を、誰もが理解しきれずにいた。


リリィ先生は、しばらく黙っていた。俺の手を握ったまま、何かを考え込むように、視線を落とす。やがて、ゆっくりと顔を上げ、俺を見る。


「……ルーメン……?」

その声には、疑いはなかった。ただ、信じがたい現実を、どう受け止めればいいのか分からない、そんな戸惑いだけが滲んでいた。


「大神官様でも……治せなかったものを……どうして……?」

俺は一瞬、言葉に詰まった。誇れることじゃない。むしろ、必死で、無我夢中で、やるしかなかっただけだ。だが、ここで曖昧にするわけにもいかない。


「……治したわけじゃありません」

自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

「石化は、まだ残っています。右手の先は……」

そう言って、彼女の右手を見る。確かに、完全ではない。その事実が、俺自身を現実に引き戻してくれる。


「ただ……」

言葉を選びながら、続ける。

「魔力が、あまりにも暴走していました。だから……流れを、整えただけです。師匠の魔力と、僕の魔力を……無理やり、噛み合わせるように……」

リリィ先生の目が、わずかに見開かれた。その説明が、術者としての彼女に、何を意味するのかが伝わったのだろう。魔力同士を直接干渉させる危険性。制御を誤れば、双方が崩壊しかねない、禁じ手に近い行為。


「……そんな……」

呟きが、震える。

「そんなこと……あなたに……」

その先の言葉は、出てこなかった。責めるのでも、止めるのでもない。ただ、胸に込み上げるものが、言葉になる前に喉を塞いでいた。


大神官が、静かに締めくくる。

「事実は一つだ、リリィ。今、お前がここで息をしているのは、弟子が己の力を投じたからだ。神の御業ではなく、人の意志によってな」


その言葉は、祝福でも宣告でもなく、ただの現実だった。

リリィ先生は、再び俺を見つめ、その目に、はっきりとした感情を宿す。

それは……感謝と、そして、言いようのない重さだった。



「……思い出しました」

リリィ先生は、そう言って小さく息を吸った。まるで、遠い場所に沈めていた記憶を、水面へ引き上げるように。視線は宙を彷徨い、やがて、確かな輪郭を結んでいく。


「五年前……イレンティア大聖堂で……」

その言葉に、大神官が静かに頷いた。俺も、胸の奥がひくりと鳴る。あの時のことは、今でもはっきり覚えている。巨大な大水晶。触れた瞬間に流れ込んできた、意味の分からない光と感覚。周囲がどよめき、大神官が驚きを隠せなかった、あの空気。


「……巨大水晶に、あなたの魔術が映ったのよね」

リリィ先生の声は、どこか確信めいていた。

「誰の系譜にも属さない、属性にも縛られない……“固有魔術”」

俺は、ゆっくりと頷いた。

「あの時……確かに、大水晶に出ました。僕だけの魔術だって」

大神官が、深く息を吐く。

「わしも覚えておる。癒しでも、攻撃でも、補助でもない。魔力の在り方そのものに干渉する術……名を、ハーモニック・リコンストラクションと言ったな」


その名を聞いた瞬間、リリィ先生の表情が、わずかに変わった。理解と、恐れと、そして納得が、同時に浮かぶ。


「……調律の、再構築……」

小さく反芻する。

「だから……あんなに、優しくて……温かかったのね……」


その言葉に、俺は思わず視線を落とした。意図してそうしたわけじゃない。ただ、師匠の魔力に触れた瞬間、放っておけなかっただけだ。荒れ狂う流れを、そのままにしておくことが、どうしても出来なかった。


「……魔力を……流し込んだ時……」

リリィ先生は、ゆっくりと続ける。

「私の魔力に、直接、干渉してきた……。押さえつけるでも、上書きするでもなく……一緒に、呼吸を合わせるような……」

彼女は、左手を胸に当てた。

「私の魔力が、私のものに、戻ってくる感覚があったの」


それは、癒しではない。治癒でもない。崩れかけた構造を、もう一度、正しい位置へ組み直す行為。だからこそ、何度も、暴走が跳ね返ってきたのだろう。


「……でも、完全には、治っていない……」

リリィ先生の視線が、石化の残る右手へ落ちる。その事実が、現実を引き戻す。


「はい」

俺は、はっきり答えた。

「完全には……できていません。何度も、再構築しました。でも……魔力の暴走が、強すぎて……」

言い訳ではない。ただの事実だ。

ハーモニック・リコンストラクションは、万能じゃない。少なくとも、今の俺には。


大神官が、静かに補足する。

「それでも、進行は止まった。右腕全体が石になる未来は、回避された。これは……奇跡に等しい」

奇跡。

その言葉が、胸に重く落ちる。俺は、奇跡を起こしたつもりなんてない。ただ、師匠を失いたくなかっただけだ。


リリィ先生は、俺を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、もう迷いはなかった。

「……ありがとう、ルーメン」

その一言は、これまで聞いたどんな感謝よりも、深く、重かった。


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