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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療③ 大神官の判断と要請

大神官は、石化が再び広がっていく右腕から静かに視線を離し、ゆっくりと背筋を伸ばした。その動きには、長年あらゆる奇跡と限界を見てきた者だけが持つ、重い覚悟が滲んでいた。

周囲の神官たちも言葉を失い、祈りの姿勢のまま固まっている。誰一人として、次の手を口にすることができなかった。


「……やはり、か」

大神官の声は低く、しかしはっきりと聖堂に響いた。怒りも焦りもない。ただ、避けられなかった結論を口にする者の声音だった。


「石化病には、神位の癒し魔術も通用せぬ」

その一言は、祈りの場にとって致命的だった。神の御名を冠する癒しが効かない……それは、この大聖堂が“最後の砦”であるという前提を、根底から揺るがす宣告だった。

神官の一人が思わず息を呑み、別の者は唇を噛みしめて俯く。祈りによって救われない命が、確かにここに存在している。


大神官はリリィ先生の右腕をもう一度だけ見つめ、首を横に振った。

「聖水の補助を用い、神位の詠唱をもってしても、石化は一時的にしか解けぬ。これは癒しの問題ではない。病そのものが、神の力を拒絶しておる」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に重く沈んでいた不安が、はっきりと形を持った。神の力が届かないということは、この場にいる誰もが頼りにしてきた“救済の道”が断たれたということだ。俺にも、その意味は痛いほど分かった。ここで治らなければ、他に頼れる場所など存在しない。


リリィ先生はまだ意識を取り戻していない。だが、その表情は苦しげで、眉間には深い影が落ちている。もし今、この宣告を聞いていたら、どんな顔をしただろうか。自分が救われないと知った時、師匠は何を思うのだろうか。その想像が、胸を締め付ける。


「……手は、尽きたということですか」

誰かが絞り出すように尋ねた。大神官は一瞬だけ目を閉じ、それからゆっくりと頷いた。

「少なくとも、神の癒しとしては、な」


その言葉は、完全な終わりを告げるものだった。祈りも聖水も、神位の魔術ですら、決定打にはならない。救済を担う者の口から語られたその断言は、聖堂に集う全員の心を重く沈ませた。


だが同時に、俺の中で、別の感覚が芽生え始めていた。神の力が通じないのなら……別の何かが必要なのではないか。まだ形にならないその違和感が、胸の奥で静かに疼き始める。


神位の癒しが否定されたその瞬間、物語は、神の領域から外れた場所へと踏み出し始めていた。



重苦しい沈黙が聖堂を覆ったまま、時間だけがわずかに流れていた。神官たちは誰一人として動けず、祈りの姿勢を崩さない。まるで、この場で下された宣告を受け止め切れずにいるかのようだった。その静寂を破ったのは、大神官の低い声だった。


「……君」

その視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。鋭いが、敵意のない眼差し。俺は思わず背筋を伸ばした。大神官はしばらく俺を見つめ、その顔を確かめるように目を細める。


「その顔……どこかで見覚えがある」

一瞬、空気が変わった。祈りの場の張り詰めた緊張とは違う、別種の集中が集まる。大神官は記憶の糸を辿るように、ゆっくりと言葉を続けた。


「五年ほど前だったか。リリィと共に、この大聖堂を訪れた子がいたはずだ」

胸が小さく跳ねた。忘れられていると思っていた過去が、突然、現在と繋がる。俺は一歩前に出て、はっきりと頭を下げた。


「はい。五年前、リリィ先生と一緒に参りました。ルーメン・プラム・ブロッサムです。あの時は、大変お世話になりました」

その名を聞いた瞬間、大神官の表情がわずかに変わった。驚きというより、納得に近いものだ。彼は静かに息を吐き、短く頷く。


「やはり、あの時の子か。巨大水晶に“特異な反応”が現れた……誰にも使えぬはずの魔術を持つと示された少年」

その言葉に、周囲の神官たちがざわめいた。小さく、しかし確かな動揺が広がる。巨大水晶……神の意志を映す象徴。その記録に残る存在として、俺の名がここで再び呼ばれたのだ。


「随分と……成長したな」

大神官の声には、驚きと共に、どこか試すような響きがあった。五年前、ただの子供だった俺が、今ここで、神位の癒しすら通じない病の前に立っている。その事実が、彼の中で何かを結びつけているのが分かった。


リリィ先生の右腕からは、今も微かに悪い魔力が漏れ続けている。神の力が否定された直後に、俺の存在が思い出された……それは偶然ではないのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥にあった違和感が、はっきりとした予感へと変わり始めた。


この再会は、ただの確認ではない。五年前に蒔かれた種が、今、この場で芽吹こうとしている。俺は、大神官の次の言葉を、固唾を飲んで待っていた。



大神官は、俺を見据えたまま、しばし沈黙した。その間にも、聖堂の奥ではリリィ先生の右腕から漏れ出す悪い魔力が、空気をわずかに歪め続けている。

神官たちはそれを感じ取っているはずなのに、誰も口を開こうとしなかった。神位の癒しが退けられた今、この場で軽々しく言葉を発すること自体が、許されない行為であるかのようだった。


やがて大神官は、静かに、しかしはっきりと問いを投げかけてきた。

「ルーメン・プラム・ブロッサム。君は……五年前、大水晶に示された“誰も使えぬ魔術”を、今は使えるか」


その瞬間、場の空気が凍りついた。神官の一人が息を呑む音が、やけに大きく響く。大神官の問いは、確認というよりも、最後の賭けに近かった。神の力ですら及ばなかった現実の前で、彼は“神ではない力”に手を伸ばそうとしている。


俺は一瞬、リリィ先生の顔を見た。眠ったままのその表情は穏やかだが、右腕はなお石のように硬く、命そのものが削られている感覚が、はっきりと伝わってくる。迷っている時間は、もうなかった。


「……はい」

短く、しかし迷いのない声で答えた。

「今は使えます」

その言葉が落ちた瞬間、聖堂の中に微かなざわめきが走った。信じ難いという反応と、縋るような期待が、入り混じっている。大神官は俺の返答を聞き、目を閉じる。そして一度だけ、深く息を吸った。


「そうか……」

再び目を開いたその瞳には、僅かな覚悟の色が宿っていた。


「君の魔術は、癒しではない。神の系譜にも属さぬ。だが……今、この場にある“救えぬ現実”に対して、唯一、可能性があるとすれば……それしかない」

大神官は、視線をリリィ先生の寝台へと向ける。神官たちもまた、その動きに釣られるように視線を移した。誰もが理解している。この問いの先にあるのは、奇跡ではなく、賭けだということを。


「ルーメン」

大神官は、俺の名を、はっきりと呼んだ。

「もし、その魔術を行使するならば……君自身も、ただでは済まぬかもしれぬ。それでも……やる覚悟はあるか」

胸の奥が、静かに熱を帯びた。怖くないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、ここで何もしない方が、ずっと恐ろしかった。俺は一歩前に進み、はっきりと答える。


「はい。リリィ先生を、助けたいです」

その言葉に、大神官は短く頷いた。もはや迷いはない。神の限界が示された今、場の主導権は、静かに、俺へと移ろうとしていた。



大神官は、俺の答えを聞き届けると、ゆっくりとリリィ先生の寝台へと歩み寄った。その背中は老いてなお揺るがず、長年、祈りと救済の現場に立ち続けてきた者だけが持つ重みを帯びている。

だが、その足取りには、わずかな逡巡が混じっていた。神位の癒しが退けられた今、次に託そうとしているのは、神の力ではない。彼自身が、これまで頼ってこなかった領域だ。


「リリィ」

大神官は、眠る彼女に呼びかけるように、低く名を口にした。返事はない。ただ、右腕から漂う異質な気配だけが、確かにそこに“危機”があることを告げている。


大神官は振り返り、俺を真っ直ぐに見据えた。

「君の魔術は、癒しではないと聞いている。壊れたものを“元に戻す”のではなく、歪んだ流れを組み直す……そういう力だとな」


その言葉に、俺は小さく頷いた。正確な説明ではないかもしれないが、方向性としては間違っていない。俺自身、まだ完全に理解しきれていない魔術だ。ただ一つ分かっているのは、魔力の流れそのものに触れ、干渉する力だということ。


「神位の癒しは、肉体と魂を“正しい形”へ導く。しかし、今のリリィは、その前提そのものが崩れている。石化病……いや、それ以上の何かが、魔力の流れを歪め、神の導きを拒んでいる」

大神官は一瞬、言葉を切り、深く息を吐いた。

「だからこそ、君の力が必要だ。神の秩序の外にある力でなければ、この歪みには触れられぬ」


その言葉は、要請であると同時に、覚悟を問うものでもあった。神官たちの視線が、一斉に俺へと集まる。期待、疑念、不安――様々な感情が混ざり合い、聖堂の空気を重くしていた。


「ルーメン・プラム・ブロッサム」

大神官は、正式な名で俺を呼ぶ。

「君に頼みたい。リリィに、その魔術を使ってくれ。結果がどうなろうと、それはこの場にいる全員が引き受ける。だが、何もしなければ……彼女は、確実に失われる」

胸の奥で、何かが静かに定まった。選択肢は、最初から一つしかなかったのだと、今になってはっきり分かる。


「……分かりました」

俺は一歩進み出る。寝台の傍に立つと、リリィ先生の顔が、近くに見えた。穏やかな寝息とは裏腹に、その内側では、激しい魔力の乱流が渦巻いているのを、肌で感じ取れる。


「やります」

そう告げた瞬間、大神官は深く頭を下げた。神に仕える最高位の存在が、まだ少年に過ぎない俺に、救いを託している。その事実が、この状況の異常さを、何より雄弁に物語っていた。


聖堂は静まり返り、次の瞬間を待っている。ここから先は、神でも聖水でもない、“俺自身の魔術”の領域だった。


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