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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療② 大神官の神位癒し魔術

大神官の合図で、神官たちが一斉に動いた。無駄な言葉はない。まるで長年繰り返してきた儀式であるかのように、配置も手順も迷いがなかった。二十本の聖水は半円状に並べられ、床には既に刻まれていた古い聖紋が淡く発光を始める。空間そのものが、治療のための器へと組み替えられていくのが分かった。


リリィ先生は寝台の上で静かに横たえられていた。意識はないが、眉間にはわずかな緊張が残っている。苦痛を感じていないはずがない。けれど、それを訴えることもできず、ただ内側で何かと戦っているようだった。


「包帯は完全に外しなさい。首筋までだ」

大神官の声に従い、神官が慎重に包帯を解いていく。布が外れるたび、露わになる石化の境界線がはっきりしていく。右腕から肩、そして首筋の付け根にまで、灰色の変質が這うように広がっていた。その表面は滑らかで、しかし生き物の肌ではない冷たさを帯びている。


同時に、悪い魔力の流れが一段と強くなった。包帯という物理的な遮断がなくなったことで、抑え込まれていたものが解放されたのだろう。空気がざわつき、結界が低く唸るような音を立てる。神官の一人が思わず息を呑むのが聞こえた。


「動じるな。聖水を」

大神官は一切視線を逸らさず、最初の瓶を受け取った。封が切られると、清冽な香りが広がる。森の奥の泉を思わせる、澄み切った匂いだった。大神官はそれを、ためらいなく右腕の石化部位へと垂らしていく。


聖水が触れた瞬間、じゅっと小さな音がした。水が蒸発するような、しかし単なる熱ではない反応だ。悪い魔力が弾かれ、黒い靄のようなものが一瞬立ち上る。だが、すぐに結界に吸収され、消えていった。


「続ける」

二本目、三本目と、聖水は惜しげもなく使われていく。大神官は右腕だけでなく、肩、鎖骨、そして首筋へと、丁寧に流していった。清めるというより、侵食された領域を洗い流し、輪郭を確かめるような動きだった。


俺はその光景から目を離せなかった。聖水が触れるたび、リリィ先生の魔力が微かに揺れる。その揺れは安定とは程遠く、むしろ内側で何かが抵抗しているようにも見えた。悪い魔力は減衰するどころか、押し返されるたびに形を変え、より深く潜ろうとしているようだった。


「……石化と同時に、魔力そのものが絡め取られている」

大神官が低く分析する。彼の声には、確信と、わずかな苦味が混じっていた。神官たちは顔色を変える。これは、ただの病ではない。そう、誰の目にも明らかだった。


やがて、二十本すべての聖水が使い切られた。床には清めの光が残り、悪い魔力の放出は一時的に弱まっている。しかし、完全に止まったわけではない。嵐の前の静けさのような、不気味な均衡が場を支配していた。


大神官は杖を握り直し、深く息を吸う。

「ここからが、本番だ」

その言葉が意味するものを、俺は直感的に理解していた。聖水は準備に過ぎない。次に来るのは……神位の癒し魔術。その成否が、リリィ先生の運命を決めることになる。



大神官は、杖を床に静かに突き立てた。その瞬間、聖堂全体の空気が変わる。張り詰めていた緊張が解けたわけではない。むしろ逆だ。空間そのものが、これから起こる“何か”を受け止めるために身構えたようだった。神官たちは一斉に距離を取り、結界の外縁へと下がる。ここから先は、神位の領域。人の手出しが許される場所ではない。


大神官は目を閉じ、深く呼吸を整えた。その姿は老いてなお揺るぎなく、長い年月の祈りと選択の重みを背負っているように見えた。次の瞬間、低く、しかし聖堂の隅々まで響き渡る声で詠唱が始まる。


「神聖なる神の力に導かれしこの者は……」


言葉が紡がれるごとに、床の聖紋が強く輝き、天井から降り注ぐ光が一本の柱となって寝台を包み込む。光は白でも金でもなく、あらゆる色を内包したような、形容しがたい輝きだった。視界が焼き付くほど眩いのに、不思議と目を逸らしたくならない。


「御霊の存在を復活させ、根源たる神の御霊を……」


大神官の声は揺れない。祈りではなく、命令に近い響きだった。神に願うのではなく、神の力を“ここに在らせる”ための言葉。その重さに、俺の背筋が自然と伸びる。


「その体に再び取り戻すことだろう……」


光がリリィ先生の右腕へと集中していく。まるで吸い込まれるように、いや、引き寄せられるように、癒しの光が石化した部位へと流れ込んでいった。聖堂全体が震え、空気が圧縮される感覚に、思わず息を詰める。


「ああ、大いなる神よ、聖なるご慈悲を与えたまえ、導きたまえ……」


詠唱の最後の一節が放たれた瞬間、光は最高潮に達した。


「……リザレクションヒーリング」


世界が白に染まる。音が消え、時間の流れすら曖昧になる。俺はただ、その中心で起こっている変化を見つめていた。神位の癒し魔術。死すら引き戻すと伝えられる究極の奇跡。その力が、今、リリィ先生の右腕に注ぎ込まれている。


やがて、光が少しずつ収束し始める。眩しさが和らぎ、輪郭が戻ってくる。最初に見えたのは、石化した右腕の表面が、確かに変化しているという事実だった。灰色だった部分が、肘のあたりから徐々に人の肌の色を取り戻し始めている。血の通った腕。生きた腕だ。


「……効いている」

誰かが小さく呟いた。希望という言葉が、喉元までせり上がる。大神官もまた、僅かに目を見開いて、その変化を見守っていた。


しかし……その光景は、あまりにも一瞬だった。

肘から上が回復したその直後、光が完全に引くより早く、回復した部分の色が、再び鈍く濁り始めた。肌が硬質な灰色へと戻り、石化が、まるで意思を持つかのように逆流していく。


癒しの光が去った場所から、またしても悪い魔力が滲み出し、空気を汚染していく。希望は、掴んだと思った瞬間に、指の間から零れ落ちた。


大神官は歯を食いしばり、低く唸るように呟いた。

「……神位をもってしても、なお抗うか」

その声には、驚きよりも、厳然たる現実を受け入れる覚悟が滲んでいた。神の力ですら届かない病。それが、今、目の前に突きつけられている。


聖堂に、重い沈黙が落ちる。誰もが理解していた。今の詠唱は、この場で可能な、最も強力な一手だったということを。そして、それが……完全な解決には至らなかったということを。



収束したはずの光の余韻が、まだ空気の中に淡く残っていた。聖堂の天井に描かれた聖紋は、ゆっくりと輝きを失い、床に刻まれた文様も静かに沈黙していく。その中で、誰もが視線を向けていたのは、ただ一点……リリィ先生の右腕だった。


確かに、変化は起きている。完全に石と化していた右腕の上部、肩から肘にかけての部分は、はっきりと人の肌を取り戻していた。色はまだ青白く、血の巡りも弱々しいが、それでも“生きている”と分かる質感だった。神官の一人が、信じられないものを見るように、息を呑む。


「……戻っている」

その声は小さく、だが抑えきれない驚きに震えていた。俺も思わず一歩前に出る。視界の端で、父さんが拳を握りしめているのが分かった。誰も口に出さないが、胸の奥で同じ思いが膨らんでいるのを感じる。


……治るかもしれない。

神位の癒し魔術が、確かに“届いた”。完全ではないが、石化病という絶望の壁に、初めてひびが入った。その事実だけで、この場の空気は一変していた。神官たちの顔に、祈りとは違う、生々しい期待の色が浮かぶ。


大神官もまた、右腕の状態を凝視していた。長年、多くの病と向き合ってきたその目に、一瞬だけ、確かな手応えが宿る。神位の癒し魔術が、完全に無力ではなかったという事実。それは彼にとっても、大きな意味を持つ。


「……肘まで、か」

大神官は静かに呟き、顎に手を当てる。石化が解けた範囲は限定的だが、それでも前例のない進展だった。聖水を併用し、神位の癒しを局所に集中させた結果、確かに“回復”は起きたのだ。


俺は、リリィ先生の顔を見る。まだ意識は戻っていないが、呼吸は先ほどよりも安定している。胸の上下が、わずかにだが規則正しくなっているのが分かった。それだけで、胸の奥に熱いものが込み上げる。


……間に合ったかもしれない。

ほんの一瞬でも、そう思えた。ここまで連れてきた意味が、確かにあったのだと信じたかった。父さんも、大神官も、神官たちも、誰一人として、その希望を否定しようとはしなかった。


だが、その希望は、あまりにも脆かった。

回復した肘のあたりから、再び異変が生じる。取り戻したはずの肌が、ゆっくりと硬さを帯び始める。色が鈍り、温度が失われていくのが、目に見えて分かった。


「……まさか」

誰かが呟いた、その直後だった。石化が、まるで逆流するように、再び肘から上へと広がり始めた。癒しの名残を、無慈悲に塗り潰すかのように。


希望は、まだ消えていない。だが、今この瞬間、確実に揺らぎ始めていた。



解けかけた希望は、あまりにも静かに、しかし確実に崩れていった。肘まで取り戻したはずの人の肌は、まるで時間を巻き戻すかのように、灰色の硬質へと変わっていく。最初はゆっくりと、次第に速度を増しながら、その変化は止まらなかった。


「……戻って、いく……」

誰かの声が、かすれた息と一緒に零れ落ちる。聖堂に満ちていた癒しの余韻は、今や冷たい沈黙へと置き換わっていた。神官の一人が慌てて聖水を手に取ろうとするが、大神官の静かな一瞥に動きを止める。もう、追加の処置でどうにかなる段階ではないと、その場の誰もが悟り始めていた。


石化は、肘を越え、再び肩へと広がっていく。解けたはずの部分が、無慈悲に奪われていく光景は、希望を与えられた分だけ、深い絶望を突きつけてきた。俺は歯を食いしばり、視線を逸らせずにその過程を見つめていた。目を背けた瞬間、この現実を認めてしまう気がしたからだ。


大神官の額に、深い皺が刻まれる。神位の癒し魔術が、確かに届いたにもかかわらず、それを押し返す“何か”が存在する。その力は、癒しの光が引いた瞬間を待っていたかのように、再び石化を進行させた。


「……石化病が、癒しを拒んでいる」

低く絞り出されたその言葉は、祈りでも宣告でもなかった。ただ、事実を受け入れざるを得ない者の声だった。神の力ですら、完全には及ばない。そう突きつけられた現実が、聖堂の空気を重く沈ませる。


俺の胸の奥で、何かが軋む音を立てた。ここまで来て、ここまでやって、それでも届かないのか。リリィ先生の右腕は、再び石と化し、魔力を失ったまま沈黙している。その表面からは、先ほどよりも強く、嫌な気配が滲み出ていた。


……治らない。

その言葉が、頭の中で何度も反響する。希望を見せられた直後だからこそ、その否定は残酷だった。神位の癒し魔術ですら届かない病。それが意味するものを、俺はまだ正確に理解できていない。ただ、胸の奥に広がる冷たさだけが、現実として存在していた。


光が引いた後に残されたのは、癒しの痕跡ではなく、より濃くなった絶望の痕跡だった。


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