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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療① 緊急搬送

第五十五章 イレンティア大聖堂での治療



イレンティア大聖堂の正門が見えた瞬間、胸の奥で張りつめていた糸がさらに強く引き絞られた。白い石で築かれた巨大な建造物は、いつもなら静謐と安らぎを湛えているはずなのに、この日は違った。

門前に立つ神官たちの足取りは速く、視線は一点に集まり、言葉は短く、互いの意思を確認するように飛び交っている。馬車が止まるや否や、誰かが名を呼び、誰かが扉を開け、誰かが担架を用意した。流れ作業のようでいて、ひとつの歯車でも噛み合わなければ致命的になると分かっている動きだった。


「奥へ。すぐに奥の部屋へ運びましょう」

そう告げた声には、ためらいも説明もなかった。判断はすでに下されている。リリィ先生の状態を一目見ただけで、神官たちは理解したのだろう。軽い処置で済む話ではない、と。

白い床を進む足音が重なり、空気がひりつく。祈りの場であるはずの回廊は、今や命の境界線だった。壁に刻まれた聖句が視界の端を流れていくが、意味を辿る余裕はない。心臓の鼓動がやけに大きく、耳の内側で鳴り続ける。


奥の扉が開かれると、空気が一段と冷えた。香の匂いに混じって、別の、言葉にしがたい違和感が漂っている。善と悪の境目が曖昧になる場所。神官の一人が小さく息を呑んだのが分かった。

担架が滑り込むように置かれ、周囲が一斉に動き出す。包帯を解く準備、聖具の配置、祈りの段取り。誰もが役割を理解し、迷いなく手を伸ばす。その緊迫した連携の中で、俺は一歩下がり、ただ見つめるしかなかった。


ここは最後の砦だ。そう思った瞬間、背中に冷たい汗が伝った。救えるかどうかではない。救わなければならない場所。祈りが力になる世界で、祈りだけでは足りないかもしれない場所。

神官たちの視線が、時折こちらに向く。その目は責めていない。ただ、期待と不安が同時に宿っていた。俺は唇を噛み、拳を握りしめる。大聖堂の奥深くで、時間が削られていく音がした。次に開かれる扉の向こうで、すべてが決まる……そんな予感だけが、はっきりと胸に残っていた。



神官たちの手が一斉に動き、リリィ先生の右腕を覆っていた包帯がほどかれていく。その動きは丁寧でありながら、躊躇がなかった。ためらっている時間はない、と全員が理解している。

最後の包帯が外された瞬間、空気が目に見えて張りつめた。誰かが小さく息を呑み、別の誰かが思わず祈りの言葉を口にする。その理由は、俺にも一瞬で分かった。


右腕は、もはや人の腕ではなかった。皮膚の色は失われ、冷たい灰色の石と化している。血の巡りも、筋肉の張りも感じられない。ただ、硬く、重く、無機質な質感だけがそこにあった。肘から先、指先に至るまで、完全な石化。触れなくても分かるほど、生命の気配が断ち切られている。魔力の流れを感じ取ろうとして、俺は思わず眉をひそめた。……ない。あるべきものが、決定的に欠けている。


「……魔力が、失われている」

誰かが呟いた言葉が、部屋の中に落ちた。通常の怪我なら、どれほど深刻でも魔力の名残は残る。癒しの余地が、かすかにでも感じ取れるはずだ。だが、この右腕からは、それが完全に消えている。まるで、魔力そのものが切り取られ、置き去りにされたかのようだった。神官の一人が首を振り、別の者が歯を食いしばる。これは想定していた最悪より、さらに一段階深い異常だった。


石化は単なる外見の変化ではない。生命活動の停止であり、魔力の循環の断絶だ。治療という言葉が、ここではあまりにも軽く聞こえる。修復ではなく、再生が必要な状態。それも、通常の再生では足りない。俺は無意識のうちに一歩近づき、石となった腕を見つめた。そこに、かつて感じていた温かい魔力の感触を重ねようとして……できなかった。


神官たちは静かに役割を切り替えていく。包帯を外す手が止まり、次の準備へ移る動きが始まる。これはもう、確認の段階ではない。対処の段階だ。だが、その対処がどこまで届くのか、誰にも確信はなかった。俺の胸の奥で、不安が形を持ち始める。石化した右腕は、何も語らない。ただ、無言のまま、残酷な現実を突きつけていた。



包帯がすべて取り払われ、石化した右腕が完全に露わになった、その直後だった。空気の温度が、はっきりと下がった。肌を撫でる感覚が冷たく変わり、喉の奥がひりつく。視覚よりも先に、感覚が異変を訴えていた。

……来る。そう思った瞬間、石と化した右腕の表面から、目に見えないはずの“何か”が溢れ出した。


それは、魔力だった。ただし、俺が知っているどの魔力とも違う。澱んでいて、重く、触れたくないと本能が拒絶する感触。空間に染み出すように広がり、聖堂の静謐な空気を汚していく。

神官の一人が思わず後ずさり、別の者は即座に防護の祈りを唱え始めた。床に置かれた聖具が、かすかに震えているのが分かる。


「……これは……」

誰かが言葉を失ったまま、石化した腕を見つめていた。悪い魔力……そう呼ぶしかないそれは、量も質も異常だった。

単なる呪いの残滓ではない。意図的に込められたものでもなく、自然発生とも言い切れない。まるで、内部で腐敗した魔力が、逃げ場を求めて噴き出しているようだった。しかも、その流れは右腕だけに留まらず、首筋の方へと、細く、しかし確実に伸びている。


大神官の到着を待つ間、神官たちは即席の結界を張り、悪い魔力の拡散を抑えようとする。だが完全には止まらない。抑え込むたびに、石化部位の奥から、さらに濃い波動が押し返してくる。

俺は息を整え、感覚を研ぎ澄ませた。魔力の流れを“見る”ように捉えると、それは外から侵食したものではなく、リリィ先生自身の魔力が歪み、変質した結果であるように感じられた。


「こんな……」

思わず声が漏れる。魔力は、本来その人の在り方を映すものだ。優しさや意志、感情の積み重ねが形になったもの。それがここまで禍々しく変わるには、相応の理由がある。単なる怪我や事故では説明がつかない。俺の胸に、嫌な確信が芽生え始める。これは、体の病ではない。心と魔力が、同時に壊れかけている。


悪い魔力は、まるで生き物のように脈打ち、周囲を探るように揺れていた。その中心にあるのが、石化した右腕だ。神官たちの顔に、焦りと緊張が浮かぶ。ここは大聖堂だ。数多の奇跡と癒しが行われてきた場所。その中枢で、これほど露骨な“悪意”が噴き出している事実が、事態の深刻さを何よりも雄弁に物語っていた。



張り詰めた空気を切り裂くように、足音が近づいてきた。石造りの床を踏みしめるその歩調は早く、しかし一切の迷いがない。神官たちが一斉に道を開くと、白と金の法衣に身を包んだ老人が姿を現した。背は高くない。だが、その存在感だけで場の重心が変わる。……大神官だった。


彼は一目で状況を把握したようだった。石化した右腕、そこから噴き出す悪い魔力、即席の結界、青ざめた神官たち。視線が右腕に止まった瞬間、大神官の表情がわずかに強張る。その変化を、俺は見逃さなかった。


「……これは、急げ」

短く、しかしはっきりとした声だった。大神官は杖を床に突き、即座に命じる。


「聖水を二十本持ってきなさい。急ぎだ、一本も無駄にするな」

その言葉に、神官たちが息を呑む。二十本……それは、通常の重篤な呪いであっても滅多に使われない量だ。しかも、一本ずつが貴重で、安易に補充できるものではない。つまり、大神官はこの場で、最上位に近い処置を施す覚悟を決めたということだ。


指示を受けた神官たちは、駆け足で奥へと消えていく。残された者たちは、包帯を完全に剥がし、右腕から首筋にかけての状態を露わにした。

石化は想像以上に進行していた。肘の上まで広がる灰色の質感は、もはや生身の腕とは言い難い。触れれば冷たく、生命の反応がほとんど感じられない。その一方で、魔力だけは異様なほどに活発で、悪い魔力が絶え間なく溢れ続けている。


「魔力を失った石化部位から、これほどの放出……」

大神官が低く呟く。その声には、驚きと警戒が混じっていた。彼は杖の先で空間に小さな円を描き、結界を補強する。すると、悪い魔力の広がりがわずかに鈍った。しかし止まらない。抑え込めば抑え込むほど、内側から押し返してくる力が強くなる。


俺は、大神官の横顔を見つめながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。大神官がここまで即断し、最大級の対応を取る。それ自体が、この症状の異常さを示している。単なる石化病ではない。そうでなければ、ここまでの準備は必要ないはずだ。


やがて、聖水を抱えた神官たちが戻ってくる。透明な瓶に封じられた聖水が、光を受けて淡く輝いていた。その数、確かに二十本。大神官は一つ一つを確認し、静かに頷く。


「よい。始める」

その一言で、場の空気がさらに引き締まった。ここから先は、失敗が許されない。神の力をもってしても、救えるかどうかは分からない……そんな境界線に、今、俺たちは立たされていた。


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