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リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ⑩ 急速な進行

言葉を終えた直後だった。リリィ先生の肩が、ふっと落ちた。糸が切れたように、背筋から力が抜けていく。その変化はあまりにも静かで、最初は疲労による一瞬の揺らぎかと思ったほどだった。しかし、次の瞬間、彼女の呼吸が明らかに浅くなったのを見て、俺ははっきりと異変を悟った。


「リリィ先生!」

返事はない。瞼が半分ほど閉じられ、視線が定まらない。額に浮かんだ冷や汗が、肌を伝ってこめかみへ落ちていく。

石化の兆候が現れている首筋は、さっきよりも色が濃くなっているように見えた。錯覚であってほしいと願ったが、漏れ出す魔力の重さが、その希望を否定していた。


俺は慌てて彼女の身体を支え、近くにあった長椅子へと導いた。研究室の奥に置かれた簡素な長椅子。いつもなら、書物を広げて議論を交わす場所だ。だが今は、倒れそうな師匠を横たえるための、唯一の避難場所だった。


「少し、横になってください」

声は、できるだけ落ち着かせたつもりだった。それでも、内心の焦りは隠しきれていなかった。彼女の身体は驚くほど軽い。その軽さが、これまで無理を重ねてきた証のようで、胸が締め付けられる。


横になったリリィ先生の胸が、小刻みに上下する。呼吸は浅く、速い。意識は完全には失っていないが、はっきりとこちらを認識できているかも怪しい状態だった。


「……ごめんなさい……」

かすれた声で、そう呟いた。その一言が、俺の中で何かを決定づけた。これ以上、ここで様子を見る時間はない。研究室でできることは、もう何も残っていない。


俺は、迷わず立ち上がった。

次に取るべき行動は、ただ一つだった。



俺は研究室の扉を振り返り、一瞬たりとも迷わず駆け出した。廊下に出ると、城の石床がやけに硬く、遠く感じられる。息が荒くなり、足音だけがやけに大きく響いた。

頭の中では、さっき見たリリィ先生の顔色と、首筋に広がる灰色が、何度も何度も反復されていた。あれは、休めば回復するような状態じゃない。直感ではなく、確信だった。


「父さん!」

待たせていた場所に辿り着くと、父さんはすぐに異変を察したらしく、俺の顔を見るなり表情を引き締めた。問いかける前に、俺は言葉を叩きつけるように続ける。


「リリィ先生が危ない。倒れかけてる。石化病が進行してるみたいで、しかも、普通じゃない悪い魔力が出てる。今すぐ教会に連れていかないと……!」

説明は支離滅裂だったかもしれない。それでも、父さんは一言も遮らなかった。俺の言葉よりも、その必死さと、声の震えから状況を読み取ったのだろう。父さんは短く息を吐き、周囲を一瞥してから、即座に決断した。


「分かった。時間はないな」

それだけ言うと、父さんは近くにいた案内役の兵士に声を掛けた。

「馬車を用意しろ。至急だ。目的地は教会、怪我人がいる」


その口調には、一切の迷いがなかった。剣士として、そして父として、最悪の状況を何度も潜り抜けてきた人の判断だった。兵士が驚いたように目を見開きながらも、すぐに走り出す。


父さんは俺の肩に手を置き、低い声で言った。

「ルーメン、よく知らせてくれた。あとは、大人がやる。だが……」

一瞬だけ、視線が鋭くなる。

「最後まで一緒だ。目を逸らすな」


その言葉に、俺は強く頷いた。逃げない。背けない。リリィ先生を、このまま失うわけにはいかない。胸の奥で、焦燥と恐怖が渦巻く中、それでも足は自然と研究室の方角へ向いていた。

時間は、刻一刻と削られていた。



兵士が走り去ってから、ほんのわずかな時間が、異様なほど長く感じられた。研究室へ戻ると、リリィ先生は長椅子に横たえられていた。

呼吸は浅く、胸の上下がかすかに確認できる程度で、顔色はさらに悪くなっている。首筋の灰色は、さっき見た時よりもはっきりと輪郭を持ち、まるで皮膚の下から石が浮き上がってくるかのようだった。

その周囲に漂う魔力は、静かでありながらも重く、空気そのものを濁らせている。これが“ただの病”であるはずがないという確信が、さらに強まった。


「リリィ先生……」

声をかけても、返事はない。ただ、微かに眉が動いたような気がしただけだった。俺は無意識のうちに、ヒーリングを発動させようとして、はっと手を止める。

教会でも治せないと言われた病だ。下手に触れれば、かえって悪化させる可能性もある。歯を食いしばり、拳を握り込むしかなかった。


ほどなくして、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてくる。案内役の兵士が戻ってきて、短く報告した。

「馬車の用意ができました。城門前に待機しています」

父さんは即座に頷き、俺と視線を交わす。


「運ぶぞ」

二人で慎重にリリィ先生の身体を支え、毛布に包む。軽い。あまりにも軽すぎて、胸の奥が締め付けられた。魔術師として世界でも屈指の実力を持つ人が、今はこんなにも脆く見える。城内を進む間、周囲の兵士や役人たちの視線が突き刺さるが、構っている余裕はなかった。


城門を抜けると、外の空気はさらに重かった。街全体を覆う悪い魔力が、夜明け前の霧のように立ち込めている。馬車にリリィ先生を乗せ、俺と父さんも飛び乗った。御者が鞭を振るうと、馬車は石畳を激しく揺らしながら走り出す。


ガタン、と大きく揺れるたびに、俺は無意識にリリィ先生の手を握った。冷たい。その感触に、背筋が凍る。


「間に合え……」

祈るように呟いた言葉は、車輪の音にかき消されていった。教会はすぐそこにあるはずなのに、その距離が、今は果てしなく遠く感じられた。時間との競争が始まっていた。



馬車は速度を緩めることなく、イーストレイクの街路を突き進んでいった。石畳を叩く車輪の音が、夜明け前の静けさを乱暴に引き裂いていく。

通りの両脇に並ぶ家々は、まだ眠っているはずなのに、窓という窓がこちらを見つめ返しているような錯覚に襲われた。街全体が、何かを知り、何かを恐れ、息を潜めている。そんな空気だった。


馬車の中で、リリィ先生は浅い呼吸を繰り返していた。そのたびに、胸の上下がわずかに揺れる。その動きを目で追いながら、俺は必死に意識を集中させる。

魔力の流れを感じ取ろうとすると、すぐに“異物”の存在が分かった。清らかな魔力の層の下に、淀んだ、重いものが絡みつくように張り付いている。それは暴れ回ってはいない。むしろ静かで、沈黙していて、だからこそ不気味だった。


「……まだ、抑え込まれている」

誰に言うでもなく、そう呟く。だが、それは希望ではなく、期限付きの猶予に過ぎないと、直感が告げていた。

この悪い魔力は、確実に増している。街に蔓延する異常な気配と、リリィ先生の体内で進行する石化。その二つが、無関係だとはどうしても思えなかった。


父さんは馬車の揺れに身を任せながら、外の様子を警戒している。剣に手をかけ、いつでも飛び出せる姿勢を崩さない。その横顔は、魔物討伐の時と同じだったが、今は相手が違う。見えない敵、時間そのものが、最大の脅威だった。


やがて、前方に教会の尖塔が見えた。白い石で造られた建物が、悪い魔力の中でもなお、かすかに光を放っているように見える。その光に、思わず縋りたくなった。


「もう少しだ……」

自分に言い聞かせるように呟く。しかし胸の奥では、別の声が響いていた。本当に、ここで止められるのか。教会で間に合うのか。もし間に合わなかったら……その先の想像を、必死に押し殺す。


馬車は教会前の広場に滑り込み、急停止した。扉の向こうには、救いが待っているはずだ。だが同時に、これが“始まり”に過ぎないことも、はっきりと理解していた。街を包む悪い魔力は、消えていない。それどころか、確実に息づいている。


俺は深く息を吸い、リリィ先生の手をもう一度、強く握りしめた。

……間に合え。

その願いだけを胸に、俺たちは馬車を降りた。


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