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リリィ編 第五十五章 イレンティア大聖堂での治療④ ルーメンの魔力干渉

俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。聖堂の空気は澄んでいるはずなのに、胸の奥に重く沈む感覚がある。

神官たちの祈りの気配、聖水の残り香、そのすべてが混ざり合いながらも、今この瞬間、世界はひどく静かだった。音が消えたわけではない。ただ、意識が一点に絞られ、他のすべてが遠ざかっていく。


俺は寝台の傍に膝をつき、そっとリリィ先生の左手へと手を伸ばした。包帯に覆われていないその手は、見た目にはいつもと変わらない。温もりもある。だが、触れる前から分かっていた。内側が、まるで嵐の前の海のように荒れ狂っていることを。


指先が、彼女の手に触れた瞬間……。

一気に、視界が歪んだ。


直接見えているわけではない。だが、魔力の流れが、情報として、感覚として、頭の中に流れ込んでくる。細く、柔らかく、本来なら穏やかに循環しているはずのリリィ先生の魔力が、今は無数の裂け目を抱え、互いに衝突しながら暴走していた。流れは不規則で、ところどころが硬直し、石のように固まりかけている。その中心に、黒ずんだ澱のようなものが絡みつき、全体を歪めていた。


「……っ」

思わず、喉が鳴る。これは、これまで感じたことのない規模だ。単なる魔力過多でも、術式の乱れでもない。感情、記憶、後悔……そういったものが絡み合い、魔力そのものを縛り上げている。まるで、彼女自身が、自分を罰するために、内側から壊れようとしているかのようだった。


次の瞬間、その暴走が、こちらにも影響を及ぼす。握った手を通じて、荒れ狂う魔力が逆流し、俺の腕を駆け上がろうとする。冷たさと熱さが同時に押し寄せ、皮膚の下を何かが走る感覚に、思わず歯を食いしばった。


「ルーメン……?」

かすれた声が、微かに聞こえた気がした。意識があるのか、それとも魔力の反応が作り出した幻なのかは分からない。ただ一つ確かなのは、このまま放置すれば、暴走はさらに加速するということだ。


大神官が、低く、緊張を抑えた声で告げる。

「無理をするな。引き返すなら、今だ」

その言葉に、俺は首を振った。視線を落とし、リリィ先生の手を、少しだけ強く握り直す。恐怖はある。だが、それ以上に、ここで手を離せば、彼女が失われるという確信があった。


「……大丈夫です」

自分に言い聞かせるように、そう呟く。魔力の流れを感じ取り、絡まった糸を一本ずつ見極める。壊すのではない。押さえつけるのでもない。乱れた調和を、もう一度“組み直す”。


そのための言葉は、もう決まっていた。

胸の奥で、静かに魔力を整える。ここから先は、試行錯誤ではない。一瞬の迷いが、すべてを壊す領域だ。聖堂の空気が張り詰め、次の瞬間に訪れる変化を、全員が固唾を飲んで待っていた。



俺は目を閉じ、呼吸をひとつ、深く整えた。外の音を遮断し、感じ取っている魔力の情報だけに意識を集中させる。荒れ狂う流れ、硬直し始めた経路、中心に絡みつく澱……それらを“敵”として見ない。修復すべき“構造”として捉える。壊れた家を直すとき、柱を叩き壊すのではなく、歪みを測り、組み直すように。


「……ハーモニック・リコンストラクション」


囁くような声で、その名を口にした。魔力を流し込み、その魔力を合わせていく。俺の魔力の位相を、リリィ先生の魔力の位相に重ね、衝突しない角度を探る。強くはしない。速くもしない。温度を合わせ、呼吸を合わせ、音叉が共鳴する瞬間を待つ。


瞬間、手のひらの奥で、抵抗がほどけた。

逆流していた魔力が、ふっと力を失い、静かな渦へと変わる。荒れた流れが一本の筋に束ねられ、裂け目が縫い合わされていく感触が、確かに伝わってきた。冷たさと熱さが同時に消え、代わりに、やわらかな温もりが広がる。


「……っ」

神官の誰かが、息を呑む音を立てた。視界を開くと、リリィ先生の右腕……石の色に覆われていた部位の境界が、ゆっくりと変わり始めている。灰色だった表面に、血の通った色が滲み、肘に近い部分から、確かに“戻って”いくのが分かった。石化が、解けている。


希望が、胸に灯る。

だが、同時に分かってしまった。これは“完全な治癒”ではない。組み直した調和は、まだ仮固定に過ぎない。中心に絡みついた澱は薄まりはしたが、消えきってはいない。油断すれば、すぐに反発が来る。


「続ける……」

誰に言うでもなく、そう呟き、位相を保つ。呼吸を一定に、魔力の出力を抑え、合わせ続ける。すると、肘の辺りまで解けた石化が、さらに一歩、内側へと後退した。見守っていた大神官の表情が、わずかに揺れる。


「確かに……効いておる」

その声には、驚きと、抑えきれない期待が混じっていた。だが、次の瞬間だった。手の中で、再び、強い脈動が走る。中心部が、抵抗を取り戻そうとする兆し……反動が、来る。


俺は歯を食いしばり、位相を崩さない。ここで離せば、すべてが元に戻る。握った左手に力を込め、調和を維持し続ける。石化は確かに崩れ始めた。だが、この戦いは、まだ始まったばかりだった。



灯った希望は、あまりにも短かった。解けかけた境界の奥で、沈めたはずの澱が、再び脈打ち始める。最初は微かな違和感だった。俺の位相に合わせていたはずの流れが、わずかにズレる。ズレは摩擦を生み、摩擦は熱を生む。熱は焦りを呼び、焦りは出力を押し上げる。……その瞬間を、相手は待っていたかのように。


「……っ、来る」

声に出すより早く、手のひらの奥で、激しい反発が弾けた。束ねた流れがほどけ、静まっていた渦が、逆回転を始める。まるで、無理に押し込められていた力が、一気に解放されたようだった。温もりは急速に失われ、代わりに、冷たく、硬い感触が戻ってくる。


石化が、再び進行し始めた。

肘まで解けていたはずの部位に、灰色が走る。皮膚の色が鈍くなり、血の気が引き、硬質な光沢が広がっていく。俺は出力を下げ、位相を探り直そうとするが、中心部の澱が抵抗を強め、こちらの調整を拒む。合わせれば弾かれ、緩めれば侵食される。まるで、正解の幅が消えたかのように。


「……くっ」

息が浅くなる。無意識に力を込めそうになるのを、必死に抑える。強くすれば壊す。弱くすれば奪われる。ならば、どうする。頭の中で選択肢を並べ、ひとつずつ切り捨てる。治す、ではない。今は、止める。完全を目指すな。最悪を防げ。


だが、反動は容赦なかった。再構築しかけた調和が、中心から引き裂かれ、波が外へ外へと押し広がる。石化は肘を越え、前腕へと戻ろうとする。神官たちのざわめきが、遠くで重なる。大神官の眉が深く刻まれ、その視線が、状況の深刻さを物語っていた。


「石化が……戻っておる」

誰かが呟いた言葉が、胸に突き刺さる。分かっている。分かっているからこそ、離せない。ここで手を放せば、すべてが無に帰る。俺は歯を食いしばり、呼吸を数え、位相を“追いかける”のをやめた。追えば逃げる。ならば、先回りする。反動が来る位置、その一歩手前に、自分の魔力を“置く”。


「……もう一度」

声は震えていた。それでも、やるしかない。石化は再び広がった。制御は、完全に失われたかに見えた。それでも……ここで折れたら、終わりだ。



置いたはずの魔力は、次の瞬間には引き剥がされる。相手は学習しているかのようだった。こちらが先回りすれば、その一拍先で位相を歪め、同調の糸を断ち切る。追いかければ逃げ、逃がせば侵す。まるで、終わりのない綱引きだ。しかも、相手の土俵は“肉体”であり、“生命”そのものだった。


俺は左手を強く握りしめる。温度、脈、呼吸。すべてが刻々と変わる。再構築は一度では足りない。落ち着かせる。崩れる。抑える。跳ね返される。そのたびに、こちらの消耗は積み重なり、選択肢は削られていく。


「……ハーモニック・リコンストラクション」

囁く。声を荒げない。言葉は鍵であり、力ではない。合図だけを与え、干渉は最小限に抑える。俺の魔力は、流し込むだけではなく、呼び水だ。相手の流れが、自ら整う余地を残す。その一点に賭ける。


一度、落ち着く。石化の縁が、ほんのわずかに後退する。だが、すぐに反発が来る。再び灰色が濃くなり、硬質な感触が戻る。息が詰まる。指先が冷える。視界の端で、神官たちが息を飲むのが分かる。


「……まだだ」

繰り返す。回数は数えない。数えた瞬間、限界が見えるからだ。俺は、流れの“形”ではなく、“癖”を見る。暴走は、感情の波と結びついている。恐れ、後悔、自己否定。どれも、同じ方向に引く力だ。ならば、逆方向を強くする必要はない。引き合いを弱めればいい。


俺は出力をさらに落とす。代わりに、接触時間を延ばす。短く強く、ではなく、長く浅く。反動は鈍り、石化の進行が、わずかに遅くなる。完全な勝利ではない。だが、“止め続けられる”兆しが、初めて見えた。


それでも、終わりは見えない。再構築は、何度でも求められる。限界は、まだ先だ。……それを知った瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。


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