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リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ⑧ リリィ先生との再会

扉を開けた瞬間、鼻腔をくすぐる独特の匂いがした。薬草と魔素、紙とインクが混じり合った、いつもの研究室の匂い。何度も訪れ、慣れ親しんだはずの空気だ。それなのに、今日は決定的に違っていた。部屋全体が、どこか“沈んで”いる。音が吸い込まれるように静まり返り、空間そのものが重く感じられた。


「……どうぞ」

奥から聞こえた声に、心臓が跳ねる。間違いない、リリィ先生の声だ。だが、その響きは以前よりも細く、無理に形を保っているようだった。俺と父は足を踏み入れる。視線の先、机の前の椅子に、リリィ先生が座っていた。


一見すると、いつも通りだ。背筋を伸ばし、研究資料に目を落としている。だが、その“いつも通り”が、逆に異様だった。肩がわずかに強張り、呼吸の間隔が不自然に短い。魔力の流れも、均一ではない。細かく揺れ、一定のリズムを保てていなかった。


(……無理をしている)

その確信は、入室して一瞬で胸に落ちた。俺は一歩前に出て、声をかける。


「リリィ先生。学校を休んでいるって聞きましたけど……来られてたんですね」

問いかけに、彼女は顔を上げる。その動作が、ほんの僅かに遅れた。視線が合う。笑おうとしたのだろう、口元が動く。けれど、その笑みは完成しなかった。代わりに浮かんだのは、取り繕うような表情だった。


「ええ……少し、用事があって」

言葉は整っている。だが、魔力が正直だった。感情の揺れが、制御しきれずに滲み出ている。研究室という、彼女の“居場所”でさえ、今は安定を保てていない。その事実が、俺の背筋を冷やした。


父も同じ違和感を覚えたのだろう。無言で周囲を見渡し、警戒するように立ち位置を調整している。リリィ先生は、それに気づいた様子もなく、再び視線を机へ戻した。


再会できた安堵よりも先に、確信が深まる。この人は、助けを必要としている。しかも、それを自分一人で抱え込もうとしている。その危うさが、研究室の空気全体に滲み込んでいた。



俺の視線は、否応なくそこへ引き寄せられた。机の横、椅子の肘掛けに沿うように置かれた右腕。その形が、明らかに不自然だった。

腕全体が真っ直ぐに固定され、添え木で支えられ、その上から何重にも包帯が巻かれている。白い布は清潔だが、巻き方がやけに厳重で、単なる捻挫や切り傷とは思えない。


「……その右腕、どうしたんですか?」

気づいた時には、もう口に出していた。問いは静かだったが、胸の奥では鼓動が早まっていた。リリィ先生は、一瞬だけ視線を逸らす。その仕草が、何よりの答えだった。


「私、ちょっとドジなので……怪我をしてしまっただけですよ」

そう言って、軽く笑おうとする。けれど、その笑みはぎこちなく、どこか力が抜けている。俺は、言葉よりも魔力の反応を見ていた。右腕の周囲だけ、魔力の流れが滞り、硬く、冷たい。生きた魔力というより、何か別のものが混じっているような感触だった。


「ヒーリングは……してないんですか?」

思わず、前のめりになる。癒し魔術なら、少なくとも痛みは和らぐはずだ。俺の問いに、リリィ先生は首を振った。


「大丈夫です。今、教会に通って治してもらっている最中なので」

淡々とした口調。だが、その裏にある“諦め”の色を、俺は見逃さなかった。治してもらっている、という言い方が引っかかる。治っている、ではない。治せている、でもない。


「そんなに……ひどい怪我なんですか」

重ねて尋ねると、彼女は少しだけ間を置いた。逡巡の時間。やがて、小さく息を吐いて答える。


「実験で……こぼしてはいけない魔素液を、右腕にこぼしてしまって」

その瞬間、背筋に冷たいものが走った。魔素液。扱いを誤れば、人体に深刻な影響を及ぼす代物だ。それを“こぼした”という言い方で済ませていいはずがない。


「どれくらい……かかりそうなんですか。痛みは……」

質問が止まらない。自分でも分かるほど、声に焦りが混じっていた。リリィ先生はそれ以上答えず、ただ「大丈夫ですよ」と繰り返す。その言葉が、余計に不安を煽った。


目に見える異常。隠そうとする態度。噛み合わない説明。点と点が、まだ線にならないまま、胸の中で不穏に揺れていた。



「本当に……大丈夫なんですね?」

自分でも、しつこいと思うほどに念を押していた。けれど、それでも確認せずにはいられなかった。目の前のリリィ先生は、確かに“ここに座っている”。だが、どこかで無理をして立っているようにしか見えなかったからだ。


「ええ、大丈夫ですから」

そう言いながら、リリィ先生は右腕をかばうように、わずかに身体を傾ける。その仕草は無意識だったのだろう。痛みを隠そうとする癖のようなものが、長い時間の中で染みついているのが分かった。


「でも……ヒーリングなら、今すぐでも……」

俺が言いかけると、彼女はそれを遮るように、静かに首を横に振った。


「だめです」

その一言は、今までよりもはっきりしていた。


「これは……普通の怪我じゃありませんから」

声は穏やかだが、そこには教師として、研究者としての判断が含まれていた。感情ではなく、知識と経験から導き出した結論。だからこそ、俺は言葉を失う。


「教会で診てもらっています。ヒーリングも、向こうで必要な分だけ……」

“必要な分だけ”。その言い回しが、胸に重くのしかかる。完全に治す、ではない。進行を抑える、という意味にしか聞こえなかった。


「魔素液は……」

リリィ先生は、視線を落としながら続ける。

「魔力と強く反応します。外から魔力を流し込むと、かえって状態を悪化させることがあるんです。だから、無闇にヒーリングをかけるわけにはいかなくて」


なるほど、と思うと同時に、背筋が冷える。魔力を扱う者にとって、それは致命的な制約だ。癒しが“毒”になり得る状況。その説明は、あまりにも現実的だった。


「だから……心配しないでくださいね」

そう言って、また笑おうとする。その笑みは、さっきよりも少しだけ硬い。俺は、はっきりと感じていた。リリィ先生は、隠している。自分の状態を、意図的に軽く見せようとしている。


(……違う)

頭の中で、警鐘が鳴る。これは“もう少し様子を見る”段階じゃない。師匠としてではなく、一人の人間として、限界に近づいている。


その確信が、次の言葉を引き出した。

「……リリィ先生」

声を低くして呼びかける。彼女は、わずかに肩を震わせて、こちらを見た。

この先にある話が、ただの怪我の説明では終わらないことを、俺は直感していた。



「ルーメン」

不意に、リリィ先生が俺の名前を呼んだ。いつもの、少し柔らかくて落ち着いた声……けれど、今はその奥に、はっきりとした“決意”が混じっている。


「……奥の部屋に、ちょっと来てくれますか」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。ここから先は、もう“取り繕うための会話”ではない。そう、はっきり分かってしまったからだ。


「父さんには……」

「ええ。少しだけ、待っていてもらいましょう」

リリィ先生は椅子から立ち上がろうとして、わずかによろめいた。俺は反射的に一歩踏み出し、支えようとするが、彼女はそれをやんわりと制する。


「大丈夫。……今は、まだ」

“まだ”。その言葉が、耳に残る。

俺は父さんの方を振り返り、短く説明した。

「父さん、少しだけ待っててください。師匠と弟子の……内輪の話です」

父さんは状況を察したのだろう。深くは聞かず、ただ頷いた。

「分かった。無理はするな」

その言葉が、今は俺に向けられているのか、リリィ先生に向けられているのか、分からなかった。


奥の部屋へと続く扉を開けた瞬間、空気が変わった。

研究室の表側とは違い、ここは静かだった。書棚に並ぶ分厚い魔導書、実験用の器具、封印術式が刻まれた机。どれも見慣れたはずの光景なのに、今日は妙に重く感じられる。


扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

その瞬間、俺は理解した。ここは、“教師としてのリリィ先生”ではなく、“一人の魔術師リリィ”が真実を語る場所なのだと。


リリィ先生は、ゆっくりと息を整え、椅子に腰を下ろした。そして、視線を落としたまま、静かに言った。

「……まずは、あなたから話してください。学校で、何があったのかを」

逃げ場は、もうなかった。



俺は、短く息を吸ってから話し始めた。順序を選んでいる余裕はなかった。頭に浮かんだ出来事を、そのまま言葉にしていくしかなかった。


「……学校で、リリィ先生が休んでいるって聞いて、変だと思って……職員室に行きました」

リリィ先生は何も言わず、ただ静かに頷く。その視線は俺に向けられているが、焦点は少しだけ遠い。


「校長先生に話を聞いて、非常に元気が無い様子だったって……それで、職員室を出ようとした時に……」

そこで、言葉が一瞬詰まった。思い出すだけで、胸の奥がざわつく。


「……奥の部屋から、リリィ先生の魔力を感じました。確かに、間違いなく」

その瞬間、リリィ先生の指先が、わずかに強張った。


「すみませんって言って、中に入ったら……先生が、そこに座っていて。でも、声をかけても反応がなくて……」

俺は、あの時の光景を思い出しながら続ける。


「もう一度声をかけたら……先生が、こう言いました。『ルーメン、助けてください。私の研究室で待ってます』って。それだけ言って……」

俺は拳を握りしめた。


「……魔力の残滓だけを残して、消えました」

部屋の中に、沈黙が落ちる。魔導書の紙が擦れる音さえ、今はやけに大きく聞こえた。


しばらくして、リリィ先生が、ゆっくりと口を開いた。

「……やっぱり、そうでしたか」

声は低く、どこか納得したようでもあり、同時に痛みを含んでいた。


「私が送った魔力が……あなたに届いたんですね」

顔を上げ、こちらを見る。その瞳には、はっきりとした理解があった。


「私が願ったんです。ルーメンならもしかしたら助けてもらえるんじゃないかと思って。ずっと、ずっと、ルーメンに届くように魔力を送り続けました。届いてくれたんですね。」

“あの状態”。その言葉が、重く胸に落ちる。


「それで……来てくれたんですね」

感謝の言葉が、先に来た。

「ありがとうございます、ルーメン」

だが、その直後、彼女の表情が僅かに歪んだ。


「本当は……もっと早く、話しておくべきでした」

視線が、右腕へと落ちる。

俺は、その動きを見逃さなかった。

この先にあるのは、ただの説明ではない。

“隠してきた核心”だと、はっきり分かった。


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