リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ⓻ 軍部への報告
キラービーの群れを振り切ったあと、父は迷わず馬腹を蹴った。イーストレイクまでは三十分。だが、その三十分が、これまでで最も長く感じられた。街道の先に見える城壁は確かに近づいているのに、空気の重さだけが増していく。風に混じるのは、血と鉄の匂いではない。もっと粘ついた、嫌な気配。“悪い魔力”が、街全体を覆い尽くしているのが、肌で分かった。
城門が視界に入ると、門番たちの緊張が一目で伝わってきた。槍は構えられ、目は落ち着きなく周囲を走る。追撃はない。それでも、誰も安堵の表情を見せない。父は声を張り上げ、名を名乗ると同時に状況を告げた。門は即座に開かれ、馬は石畳の上へと踏み込む。
城内は、普段のイーストレイクとはまるで違った。人の動きが早く、短い命令が飛び交い、どこかで鎧の擦れる音が絶え間なく響いている。息をつく暇はない。父は馬を下りると、俺を促し、まっすぐ軍部の詰所へと向かった。
「魔物の異常発生を報告する。至急だ」
通路を進む間にも、俺の胸はざわつき続けていた。街は無事だ。建物も、人々も、まだ日常の形を保っている。だが、その下で、何かが確実に狂い始めている。城の石壁に触れた瞬間、冷たさとは別の違和感が指先を走った。ここですら、安全ではない。そんな直感が、背筋を凍らせる。
軍部の扉が開く。中に足を踏み入れた瞬間、張り詰めた空気が肺に流れ込んだ。机の上に広げられた地図、書き殴られた報告書、疲労を隠せない顔つきの兵士たち。ここが、今この街の心臓部だ。
父が一歩前に出る。
「街道西方、及び周辺森林にて、ゴブリン、オーク、ハイオーク、キラービーの大規模な群れを確認。すでに排除したが、異常だ」
静まり返る室内。誰かが息を呑む音がした。俺はその沈黙の中で、はっきりと理解した。これは、偶発的な事件じゃない。街全体を巻き込む“何か”が、すでに動き出している。
父の報告が終わると、軍部の責任者と思しき壮年の男が、深く息を吐いた。その仕草一つで、事態の深刻さが伝わってくる。彼は机に両手をつき、地図の上に視線を落としたまま、低い声で言った。
「……確認します。ですが、あなた方の報告は、こちらの把握と一致しています」
その言葉に、室内の空気がさらに重く沈んだ。責任者は顔を上げ、集まっている兵士たち、そして俺と父を順に見渡す。
「ここ数日で、魔物の出現数が急激に増えています。単独、あるいは小規模な群れではありません。百単位の群れが、各所で確認されている」
誰かが無意識に拳を握る音がした。俺は思わず喉を鳴らす。街道で遭遇した光景が、脳裏に蘇った。あれが例外ではなく、“各地で起きている現実”だという事実が、胸を締め付ける。
「ゴブリンだけではない。オーク、ハイオーク、キラービー……種別もばらばらです。統率が取れているわけではないが、数が異常だ」
父が一歩前に出て、低く問いかける。
「原因は?」
責任者は、わずかに首を振った。
「不明です。強力な魔物の出現、あるいは魔力環境の変質……考えられる要因はいくつかありますが、断定には至っていません」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。“分からない”という答えほど、恐ろしいものはない。対処法も、終わりも見えない。室内に漂う焦燥は、誰の顔にも隠しきれずに滲んでいた。
「軍としては、対応に当たっています。しかし……」
責任者は言葉を切り、正直な表情で続ける。
「増加の速度が早すぎる。部隊の再配置も追いついていないのが現状です」
父は歯を食いしばり、地図を見つめた。
「つまり、これは一過性の騒ぎじゃない、ということだな」
「ええ。街だけでなく、周辺一帯が、何かに包まれているような感覚があります」
その“何か”が何なのか、誰にも分からない。ただ一つ確かなのは、事態がすでに人の手を離れかけているということだった。俺は胸の奥で、嫌な予感が形を持つのを感じていた。リリィ先生の姿が、自然と脳裏に浮かぶ。
責任者は地図の端を指でなぞりながら、苦い表情のまま続けた。「さらに厄介なのは、周辺の村との連絡が途絶えている点です。伝令を出そうにも、街道が魔物で塞がれている。徒歩も馬も通れない場所が増えています」その言葉に、室内が一瞬ざわめいた。連絡が断たれるということは、救援も、避難も、警告も届かないということだ。街は孤立しつつある。俺は無意識に拳を握り、爪が掌に食い込む感覚で現実を繋ぎ止めた。
「悪い魔力の濃度も、明らかに上がっています」責任者は窓の外、城壁の向こうを一瞥する。
「街全体が、薄い膜で覆われているような……そんな感覚だと報告が上がっています。原因は特定できていません」
言い切れない沈黙が続いた。原因不明。伝令不能。数の暴力。どれもが最悪の組み合わせだった。
父が低く唸るように言った。
「俺が村に住み始めてから、こんな事態は初めてだ。……あの森にジャイアントキリングコブラが現れたのと、無関係とは思えん」
責任者は即座に否定もしなかった。
「可能性はあります。強大な魔物が住み着くことで、周辺の魔力環境が歪む例は、記録にもある。ただ……」
彼は言葉を切り、慎重に続ける。
「それだけで、この規模の同時多発を説明できるかは分かりません」
説明できない、という言葉が重く落ちた。街は今、見えない圧力に包囲されている。敵は外にいるのか、それとも、もっと近くに。俺の胸に、焦りが燻る。時間がない。先生の研究室へ行かなければならない。外の世界が壊れ始めている今、内側で起きている“異変”に目を向けなければ、取り返しがつかなくなる。父と視線を交わし、俺は静かに頷いた。次に向かうべき場所は、もう決まっていた。
俺と父は軍部の詰所を出ると、ほとんど立ち止まることなく城内の回廊を進んだ。石畳に反響する足音がやけに大きく、胸の鼓動と重なって聞こえる。周囲の兵や役人たちの視線が一瞬こちらに集まり、すぐに逸れていく。
その一瞬の間にさえ、時間を削られている気がした。研究室へ。ただそれだけを考えていた。焦りは足を速め、呼吸を浅くする。理性で抑え込まなければ、走り出してしまいそうだった。
案内係の詰所に辿り着き、事情を端的に告げる。「リリィ先生の研究室へ案内をお願いします。緊急です」声は震えなかったが、喉の奥が張り付く。
案内係は一瞬ためらい、規定どおりの手続きを口にした。「身元の確認が必要です」その一言が、刃のように時間を切り取る。父がすぐに前へ出て、身分証を差し出した。剣士として、そして家長としての落ち着きは保っているが、視線の奥には同じ焦燥があった。
確認は丁寧で、だからこそ長く感じられた。名、所属、目的。質問が一つ進むたび、俺の中で不安が一段ずつ積み上がる。研究室に辿り着く前に、何かが起きてしまうのではないか。
先生が残した言葉、「助けてください」が、頭の中で何度も反響する。案内係が通信を取り、確認を取るために背を向けた瞬間、胸が締め付けられた。待つ、という行為が、今ほど残酷に感じられたことはない。
やがて、短い返答が戻る。
「……確認が取れました。ご案内します」
その言葉に、わずかな安堵が混じる。だが、安堵は一瞬で霧散した。許可が下りたという事実は、事態が“平常”ではないことの裏返しでもあるからだ。俺は父と並び、案内係の背中を追った。回廊の先、重い扉の向こうに、師匠がいる。時間はもう、俺たちの味方ではなかった。
城内の回廊を進むにつれ、空気の重さが増していく。石壁に刻まれた紋様、灯りの揺らぎ、警備の兵の数。どれもが、いつもより過剰に感じられた。
案内係は途中で立ち止まり、再度、確認を取る。短い沈黙。俺は無意識に拳を握りしめていた。許可が下りなければ、ここで足止めを食う。そうなれば、取り返しのつかない時間を失う。
「……リリィ先生の名で通達が出ています。研究室へお通しします」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、わずかに緩んだ。リリィ先生が、確かにここにいる。その事実だけが、俺を前へ進ませる力になった。
だが、同時に不安も増幅する。名で通される。それは、通常の手続きではない。緊急の、例外的な対応だ。師匠の身に、ただ事ではない何かが起きている証でもあった。
扉の前に立つ。厚い木製の扉は、外界と研究室を明確に切り分けているように見えた。案内係が一歩下がり、こちらに視線を向ける。
「中へどうぞ」その声は静かで、だが急かすような響きを帯びていた。俺は父と視線を交わす。父は小さく頷き、言葉なく背中を押してくれた。
扉に手を掛けた瞬間、胸騒ぎが強くなる。魔力の流れが、扉の向こうで歪んでいるのが分かる。微かながら、確かに感じる。悪い魔力の滲み。許可は下りた。道は開かれた。だが、その先に待つ現実が、俺たちを優しく迎えるとは到底思えなかった。




