リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ⑥ 魔物異常発生
街道を進むにつれて、景色そのものは変わらないはずなのに、空気だけが明確に違っていった。風が重い。鼻にかかる匂いも、土と草のそれではなく、どこか焦げたような、澱んだ感触を含んでいる。魔力を感知する感覚が、皮膚の内側からざわつき始め、背中をなぞるように冷たいものが走った。
父も同じ違和感を覚えたのだろう。手綱を引き、速度をわずかに落としたまま、低い声で言った。
「ルーメン、これは何かがおかしい。ここまで露骨に悪い魔力が溜まるのは、普通じゃない」
その言葉と同時に、父の視線が周囲を走る。森の縁、道の脇、見通しの悪い起伏。剣士としての習慣が、危険の兆しを拾い上げていく。
「強い魔物が出るかもしれない。いや、出ると思っていい」
そう前置きしてから、父は続けた。
「いつでも魔術を放てるように準備をしておきなさい。意識は分散させるな」
俺は深く息を吸い、魔力の流れを再確認する。水、風、火、土、光。五属性がそれぞれ静かに待機している。聖位に達したとはいえ、実戦で連続して使う状況は想定外だ。だが、今は躊躇している余裕はない。リリィ先生の「助けてください」という声が、頭の中で何度も反響する。
進むほどに、悪い魔力は濃くなっていった。まるで道そのものが、何かに侵食されているかのようだ。鳥の声は聞こえず、虫の羽音もない。静かすぎる。こういう時、何も起きないまま通り過ぎることはない、それを、これまでの経験が教えていた。
父は剣に手をかけたまま、俺にだけ聞こえるように言う。
「いいか、出たらまず距離を取る。数を見てから判断だ。無理はするな」
その言葉の裏にある本音も、俺には分かっていた。だが同時に、引き返すという選択肢が、もう頭の中から消えていることも。
馬が一歩進むたび、空気がさらに重く沈む。次の瞬間、何かが現れる。そんな確信だけが、はっきりと胸にあった。
最初に異変として現れたのは、音だった。無数の足音が、ばらばらに、しかし確実にこちらへ向かって近づいてくる。低い唸り声と、金属がぶつかるような不快な音が混じり、森の奥から波のように押し寄せてくる。父が馬を止め、前方を凝視した瞬間、視界の先で木々の隙間が一斉に揺れた。
次の瞬間、姿を現したのはゴブリンの群れだった。一体や二体ではない。十、二十という数でもない。数え切れないほどの緑色の影が、森の縁から溢れ出すように広がっていく。粗末な武器を振り回しながら、叫び声を上げ、こちらへ向かって走ってくる。その数は、どう見ても百体を超えていた。
父が息を呑み、思わず声を上げる。
「何事だ……この辺りで、こんな数のゴブリンを見たことはない」
その声には、驚きと警戒がはっきりと滲んでいた。「何かが狂っている」という言葉が、口に出さずとも伝わってくる。
俺の身体も、一瞬だけ硬直した。こんな規模の魔物の群れを見るのは初めてだ。恐怖と圧迫感に、腰が引けそうになる。理性が告げる、これは普通の遭遇戦ではない、正面から相手にする数ではない、と。父も同じ判断に至ったのだろう、手綱を引きながら言った。
「無理だ、これは退く。今は引き返すぞ」
だが、その瞬間、胸の奥で別の感情がはっきりと立ち上がった。リリィ先生が危ない。今この道を引き返したら、間に合わないかもしれない。その焦りが、恐怖を押しのける。俺は父の言葉を遮るように、はっきりと言った。
「父さん、僕に任せてください」
自分でも驚くほど、声は揺れていなかった。迷いはあった。それでも、決断は一瞬だった。俺は馬から身を乗り出し、前方へと意識を集中させる。ゴブリンの群れが、すでに射程に入っている。魔力を引き上げ、火属性へと一気に流し込んだ。
「……フレイムバーン」
魔術名の発声と同時に、前方の地面を舐めるように、炎が奔流となって広がった。点ではなく、面で焼く。逃げ場を与えないよう、角度と範囲を瞬時に計算する。炎は次々とゴブリンを飲み込み、悲鳴と共にその姿を消していった。立て続けに数発、間を置かずに放つ。焦りで制御を失わないよう、意識だけは冷静に保つ。
数秒後、そこにあったはずの群れは、焼け焦げた地面と、立ち上る熱気だけを残して消えていた。鼻を突く焦げ臭さに、ようやく現実感が追いつく。俺は大きく息を吐いた。正直、かなり焦っていた。だが、止まるわけにはいかない。
父は一瞬、言葉を失ったように俺を見つめ、それから強く頷いた。
「……よくやった、ルーメン。あんな魔物の群れを一人で仕留める十一歳なんて、見たことがない」
そう言いながらも、すぐに表情を引き締める。
「だが、無理はするな。恐らくだが、これで終わりじゃない。気を引き締めていくぞ」
その言葉に、俺も頷いた。焼き払ったはずの恐怖は、まだ消えていない。むしろ、これが始まりに過ぎないという予感だけが、強く胸に残っていた。
ゴブリンの群れを突破してなお、道の空気は軽くならなかった。むしろ、進むほどに重く、粘つくような感触が増していく。焼け跡を離れてしばらく進んだところで、父が再び手綱を引いた。前方の森が、先ほどとは比べものにならないほど深く、暗く沈んで見える。
次に現れたのは、低く太い咆哮だった。地面を踏み鳴らす重い足音が重なり、木々の間から巨大な影が次々と姿を現す。オーク、それだけでも脅威だが、その中に一際大きく、装備も整った個体が混じっている。ハイオークだ。数は明らかに百体を超えている。先ほどのゴブリンとは、質も圧もまるで違った。
父は即座に判断を下した。
「これは……どうやっても二人じゃ無理だ。イーストレイクの軍隊を呼ばないと対応できない。引き返すぞ、ルーメン」
声に迷いはなかった。それが正しい判断だと、頭では分かっている。だが、胸の奥で別の感情が、強く反発した。
「待って、父さん」
気づけば、俺はそう叫んでいた。
「リリィ先生が危ないんだ。今ここで引き返したら、間に合わないかもしれない。俺が何とかする。必ず何とかしてみせる。だから……待って」
父は俺を見つめ、ほんの一瞬だけ言葉を失った。その視線には、親としての不安と、剣士としての冷静な計算が交錯しているのが分かる。だが、時間は待ってくれない。オークの群れは、すでにこちらへ向かって動き出していた。
俺は覚悟を決め、魔力を一気に引き上げた。ここでは小手先の魔術では押し切れない。広範囲を制圧し、流れを断ち切る必要がある。
「……フレイムテンペスト」
魔術名と同時に、周囲の空気が爆発的に熱を帯びた。炎の嵐が渦を巻き、地を這うように広がっていく。オークたちの咆哮は、炎に呑まれて悲鳴へと変わった。巨体であろうと関係ない。炎は容赦なく包み込み、隊列を崩壊させていく。
だが、全てを焼き尽くすことはできなかった。耐え切ったハイオークが、焦げた身体のまま立ち上がり、こちらへ向かってくる。俺はすぐに魔力の流れを切り替えた。
「……ウインドカッター」
圧縮された風の刃が、一本、また一本と放たれる。狙うのは急所。動きが鈍ったところを、確実に切り裂いていく。数は減り、やがて最後の一体が倒れ伏した。
静寂が戻る。炎の余熱と焦げた匂いが、森に漂っていた。父は大きく息を吐き、そして、力強く頷いた。
「……相当強くなったな、ルーメン。これなら押し通れる。急ぐぞ」
俺は頷き、再び前を向いた。強くなったという実感よりも、急がなければならないという焦りの方が、はるかに大きかった。
オークとハイオークの群れを突破し、父の馬が再び速度を上げた時、胸の奥にわずかな安堵が生まれかけた。イーストレイクはもう遠くない。このまま駆け抜ければ、そう思った、その直後だった。
空気が、再び震えた。低く、しかし絶え間なく続く羽音。耳鳴りのように広がるその音に、父は反射的に手綱を引いた。視線の先、木々の上方から黒い影が湧き出すように現れる。無数の小さな点が集まり、渦を成し、瞬く間に一つの“群れ”として形を取った。
キラービー。しかも一体や二体ではない。百を超える数が、空を埋め尽くしていた。毒針を持つ魔物が、これほどの密度で襲いかかってくる光景を、俺は見たことがない。
父の口から、短い声が漏れた。
「……これは……」
言葉が続かない。それほどまでに、状況は絶望的だった。引き返す判断が頭をよぎったのだろう。馬の向きがわずかに変わりかけるのを、俺は見逃さなかった。
「父さん、大丈夫だから」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「僕に任せて。ここは、僕がやる」
迷っている時間はない。キラービーの群れは、すでにこちらを捉え、包囲するように動き始めている。俺は即座に魔力を展開した。
「……ウインドテンペスト」
強烈な風の渦が発生し、空中に巨大な竜巻が立ち上がる。キラービーたちは一斉に巻き上げられ、逃げ場を失ったまま、風の牢獄に閉じ込められた。羽音が悲鳴に変わり、毒針が虚空を掻く。
だが、これだけでは終わらせない。固定したまま、次の魔術を重ねる。
「……ウォーターストーム」
局所的に発生させた豪雨が、風の渦へと叩き込まれる。水と風が絡み合い、内部で激しい乱流を生む。逃げ場を失ったキラービーの群れは、次々と力を失い、渦の中で叩き潰されていった。
やがて、竜巻が収束する。空には、もはや羽音は残っていなかった。地面に落ちるのは、砕かれた魔物の残骸だけだ。
父は呆然とその光景を見つめ、やがて、苦笑混じりに言った。
「……誇らしいぞ、ルーメン。それにしても、強くなりすぎだろ。この年で、父親を追い抜かないでくれよ」
俺は答えなかった。ただ、馬を促し、再びイーストレイクへと向かう。街は、もうすぐそこだ。だが、胸の奥に渦巻く嫌な予感だけは、消えてくれなかった。




