リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ⑤ 父への相談・出発
廊下を抜け、階段を駆け下り、校舎の扉を押し開けるまでの間、頭の中は一つの思考で満たされていた。父さんに知らせなければならない。今すぐに。誰よりも早く、誰よりも正確に。風が頬を叩き、肺が焼けるように痛む。けれど足は止まらなかった。止まった瞬間、あの魔力の残滓が消えてしまう気がしたからだ。
通学路を逆走する形で、街道へ出る。人の視線が突き刺さるが、構っていられない。息は荒く、喉は乾き、視界の端が白く滲む。それでも走る。頭の中で、さっきの場面が何度も再生される。「助けてください」、削られたように短い言葉。置いていかれた静寂。整えられていない魔力の歪み。あれは、偶然でも錯覚でもない。
家の門が見えた瞬間、さらに力を込めた。呼吸が追いつかず、胸が裂けそうになる。それでも走る。門を開け、庭を横切り、扉を叩くより先に押し開けた。驚いた母の声が背後で上がったが、振り返らない。
「父さん!」
居間にいた父が顔を上げる。剣を手入れしていた手が止まり、その視線が一瞬で俺を捉えた。汗だくで、息が切れて、言葉にならない俺の様子を見ただけで、何かが起きたことを察したのだろう。父は立ち上がり、低い声で言った。
「落ち着け。何があった」
落ち着けと言われて、初めて自分がどれほど焦っているかを自覚する。だが、落ち着いている時間はない。胸に溜め込んだ空気を一気に吐き出し、言葉を繋ぐ。
「リリィ先生が……危ない。学校で会った。正確には、会えたと思った次の瞬間、消えた。魔力の残滓だけ残して……『助けてください』『研究室で待ってます』って」
父の表情が、はっきりと変わった。剣士としての顔だ。状況を一瞬で切り分け、危険度を測り、取るべき行動を探る目。俺の言葉を遮らず、最後まで聞いたあと、短く息を吐いた。
「……あれから、元気がないとは聞いていた。校長にも休むと伝えていたらしいな」
その一言で、胸の奥が冷える。偶然じゃない。線はすべて繋がっている。父は顎に手を当て、ほんの一瞬だけ考え込んだあと、決断を下した。
「今すぐは動けない。日も傾いている。だが……」
視線が俺に戻る。その目に、迷いはなかった。
「明朝だ。準備を整えて、イーストレイクへ行く。研究室を訪ねる。今夜は備えろ。お前の話が本当なら、時間はあまり残っていない」
一夜が、やけに長く感じられた。
「明朝……ですか」
自分の声が、思った以上に低く沈んで聞こえた。理解はしている。夜間の移動は危険だし、準備も整っていない。父の判断が正しいことは分かっている。それでも、胸の奥で何かが焦げ付くように痛んだ。今も、あの人は一人でいる。助けを求めていた。その事実だけが、頭の中で膨らみ続ける。
「父さん、今すぐじゃ……だめですか」
縋るような言い方になってしまったのを、自分でも分かっていた。父は俺を見つめ、静かに首を振る。
「無謀だ。夜の道は見通しが利かない。何が起きているかも分からない状況で、慌てて動けば、取り返しのつかないことになる」
言葉は厳しいが、声は柔らかい。俺を否定しているのではなく、守ろうとしているのだと伝わってくる。その分、余計に歯がゆかった。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む感覚を無理やり受け止める。
「……分かりました」
納得したわけじゃない。ただ、これ以上押しても意味がないことを理解しただけだ。父はそんな俺の様子を見て、少しだけ表情を緩めた。
「今夜のうちに準備はすべて整える。馬も、装備も、最悪を想定してだ。お前も休め。明日、全力で動くためにな」
休め、と言われて休める気がしなかった。それでも、体を横にしなければならないことも分かっている。母が心配そうに声をかけてきたが、短く答えるだけで部屋へ戻った。
夜が、異様に長かった。目を閉じても眠りは訪れず、天井の染みを見つめたまま、何度も呼吸を整える。耳を澄ませば、何か聞こえる気がして、心臓が跳ねる。リリィ先生の魔力の感触が、まだ指先に残っている気がした。あの歪み。あの切迫した声。助けを求める言葉。
……待っていてください。
声に出さず、胸の中で繰り返す。夜明けはまだ遠い。それでも、時間は確実に進んでいる。その事実だけが、せめてもの救いだった。
夜が白み始めるよりも早く、家の中は動き出していた。眠れたのかどうか分からないまま迎えた朝だったが、身体は不思議と軽かった。焦りが、疲労を押しのけて前に出ている。父は既に外に出て馬の様子を確かめており、革具の音が静かな空気に規則正しく響いていた。母は最低限の荷をまとめ、俺の顔を見て何も言わずに頷いた。その沈黙が、どんな言葉よりも強く背中を押す。
戸口を出ると、冷たい朝の空気が肺に入り、意識がはっきりする。空は澄んでいるのに、胸の奥には重たいものが沈んだままだった。父は馬に跨り、俺にも手を伸ばす。鞍に乗ると、蹄が地を叩く感触が直に伝わり、これから向かう先の現実味が増していく。
「急ぐが、慌てるな」
父は短くそう言った。いつもの言葉だが、今は意味が違う。全力で急ぎながら、判断だけは鈍らせるな、という戒めだ。俺は頷き、魔力の流れを確かめる。いつでも放てるように、しかし無駄に昂らせないように整える。リリィ先生の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。昨夜感じたあの魔力の残滓が、まだ消えない。
馬が走り出す。村を抜け、街道へ。速度が上がるにつれて、焦りもまた加速する。間に合ってくれ。そう願うたび、胸の内で何かが軋む音がした。




