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リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ④ 残滓

扉は、思ったよりも軽く開いた。軋む音ひとつ立てず、静かに内側へと引き込まれるように視界が切り替わる。その瞬間、胸の奥が締めつけられた。部屋の中は整理されている。机の上も、棚に並ぶ資料も、いつも通りだ。研究室特有の、紙と魔素薬の混じった匂いも変わらない。変わらないはずなのに、決定的に違う。


空気が、重い。

魔力が滞留している。拡散せず、逃げ場を失い、部屋の内側で静かに澱んでいる感覚だ。それは荒れてはいない。暴走しているわけでもない。だが、抑え込まれたまま限界を迎えようとしている“静かな破裂”の前触れのようだった。


視線を巡らせると、奥に一つ、椅子が見えた。背もたれの高い、あの椅子だ。何度もそこに座る姿を見てきた。講義の合間、研究の途中、疲れたときに、ほんの少しだけ力を抜く場所。だが今、その椅子に座る人物は、いつもと同じではなかった。


「……リリィ先生」

声が、自然と低くなる。張り上げることができなかった。まるで、少しでも大きな音を立てたら、この空間そのものが壊れてしまう気がしたからだ。返事はない。肩が、わずかに上下しているのが見えるだけで、こちらを振り向く気配もない。


一歩、足を踏み出す。床板が小さく鳴っただけで、胸が跳ねた。魔力の揺れが、ほんの一瞬だけ強くなる。拒絶ではない。驚きでもない。むしろ――安心に近い反応だった。


「……すみません、ちょっといいですか?」

言葉を選んだつもりだった。弟子としての礼儀。学院の生徒としての距離感。だが、その声は、自分でも分かるほど震えていた。ここにいる理由を、すべて説明する前に、まず“入ってしまった”という事実だけを、どうにか受け止めてもらいたかった。


返事は、やはりない。

代わりに、魔力が、微かに脈打った。抑え込まれていたものが、呼吸に合わせて漏れ出すような、不安定な揺れ。その中心が、確かに、リリィ先生であることが分かる。これほど近くにいて、これほど弱々しい気配を感じたのは、初めてだった。


俺は、それ以上近づけなかった。無意識のうちに、足が止まっていた。声をかければいい。名前を呼べばいい。それだけのはずなのに、何かが引っかかっている。ここで一言を間違えたら、取り返しがつかなくなる。そんな予感が、背中を冷たく撫でた。


それでも、黙っているわけにはいかない。

「……リリィ先生?」

今度は、ほんの少しだけ、声に力を込めた。その瞬間、椅子に座る背中が、かすかに揺れた。ようやく、こちらに反応があった。その動きは鈍く、重く、まるで長い間、同じ姿勢で耐え続けていたかのようだった。


何も言わず、ただ、そこにいる。その事実だけが、胸に重くのしかかる。俺は、この部屋に入ってしまった。もう、引き返すことはできない。ここから先は、師匠と弟子ではなく、“助けを求める者”と“それを受け取った者”として向き合うしかない。


その覚悟が、ようやく腹の底に落ちたところで、部屋の奥から、かすれた声が、絞り出されるように響いた。



声は、すぐには言葉にならなかった。息が喉の奥で引っかかり、かすかな音として漏れただけで、意味を持つ形に整うまでに時間がかかっている。その間、部屋の静けさが、さらに重みを増したように感じられた。時計の針の音も、外から聞こえるはずの足音もない。ただ、抑え込まれた魔力が、呼吸と同じ周期で脈打つ感覚だけが、確かにそこにあった。


「……ルーメン……」

名を呼ばれたのは、ほんの一瞬だった。次の言葉が続くと思って、自然と背筋が伸びる。だが、声はそれきり途切れ、再び沈黙が落ちてくる。椅子に座ったままの背中は、微動だにしない。振り返ることも、顔を上げることもない。まるで、そこに“座っている”というより、長い時間をかけて“置かれてしまった”物のようだった。


胸の奥が、じわりと痛む。怒っているわけではない。拒絶でもない。ただ、限界まで追い込まれた人間が、どう声を出せばいいのか分からなくなっている――そんな状態に見えた。師匠としての威厳も、魔術師としての余裕も、今は影を潜めている。ただ一人の人間が、重すぎる何かを抱え込んだまま、立ち上がれずにいる。


「……どう、されたんですか」

問いかけは、ほとんど独り言に近かった。答えが返ってくるとは、最初から期待していなかったのかもしれない。それでも、言葉にしなければ、この沈黙に押し潰されてしまう気がした。足音を殺して、もう一歩だけ近づく。魔力の揺れが、はっきりと伝わってくる。乱れてはいないが、極端に抑制されている。そのせいで、逆に不自然だ。まるで、堰き止められた水が、今にも溢れ出そうとしているようだった。


「学校……来られてないって聞きました」

反応はない。肩が、ほんのわずかに震えただけだ。それが寒さによるものなのか、別の理由なのか、判断がつかない。その小さな揺れが、かえって不安を煽る。いつもなら、ここで軽く笑って、何でもないと誤魔化すはずの人だ。それがないということが、何よりも異常だった。


部屋の空気が、じっとりと肌にまとわりつく。魔力の質が、微妙に変わり始めているのが分かった。悪意はない。だが、疲弊と自己否定が混じった、濁りのある感触。これ以上、長く留めておいてはいけない。そんな直感が、強く胸を打った。


「……リリィ先生」

もう一度、名を呼ぶ。今度は、はっきりと。弟子としてではなく、助けを求める側としてでもなく、ただ目の前の人を呼び止めるために。沈黙は続く。それでも、魔力の揺れが、確かにこちらへ向いた。応答はないが、意識は向けられている。その事実だけが、今は救いだった。


この静寂は、嵐の前だ。言葉が発せられた瞬間、何かが決定的に動き出す。そんな予感を抱えたまま、俺は息を殺して、その時を待った。



沈黙は、こちらの覚悟を試すように続いていた。けれど、その張り詰めた空気を、突然、鋭く切り裂くものがあった。声だ。小さく、掠れていて、けれどはっきりとした方向性を持つ声。抑え込まれていた感情が、限界を超えた瞬間に零れ落ちたような響きだった。


「……ルーメン」

名を呼ばれただけで、胸の奥が強く締め付けられる。次の言葉を待つ間、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。いつもの調子なら、ここで冗談めいた前置きが入る。大丈夫だとか、心配はいらないとか、そういう言葉で、こちらを安心させようとするはずだ。だが、続いた言葉は、あまりにも短く、飾り気がなかった。


「……すみません」

それだけで、十分すぎるほどだった。謝罪が最初に来るということ自体が、異常だ。何かを頼む前に、何かを説明する前に、まず謝る。師匠としてではなく、一人の人間として、追い詰められている証だった。


「……助けてください」

言葉が、削ぎ落とされている。必要最低限の意味だけを残し、余計な感情や理屈をすべて省いた、切実な音。喉の奥で震えながら、それでも確かにこちらへ届いた。助けてほしい理由も、状況も、今は語られない。ただ、この一言に、すべてが詰め込まれているのが分かった。


反射的に、一歩踏み出そうとした瞬間、空気が揺らいだ。魔力だ。視界が歪み、部屋の輪郭がぼやける。次の瞬間、リリィ先生の姿が、淡く透け始めた。驚きの声を上げる暇もない。


「……私の研究室で、待ってます」

それが、最後の言葉だった。伸ばした手は、何にも触れない。温もりも、衣擦れの音も残らず、ただ魔力の残滓だけが、空間に漂っている。淡い光の粒が、ゆっくりと床に落ち、やがて消えていった。


一瞬、思考が止まる。目の前で起きたことを、理解するまでに、ほんのわずかな時間が必要だった。瞬間移動。いや、完全な転移ではない。意図的に残された痕跡。行き先を、はっきりと示すための“道標”。


「……研究室」

口に出して、ようやく現実味が戻ってくる。置き去りにされた恐怖が、遅れて胸に押し寄せた。だが、それ以上に強かったのは、迷っている暇はないという確信だった。助けを求める声は、確かに届いた。ならば、応えるしかない。


部屋に残る魔力の残滓を、深く胸に刻み込む。この感触を、絶対に忘れないように。そう心に誓いながら、俺は踵を返した。次に向かう場所は、一つしかなかった。



部屋に残ったのは、声の余韻と、空気に滲む魔力の残滓だけだった。姿はもうどこにもない。椅子の軋む音も、衣擦れも、呼吸の気配すら消え去っている。代わりに、淡い光が粉塵のように漂い、ゆっくりと沈んでいく。触れようとした指先が、何も掴めないまま空を切った。


魔力の残滓。それは、はっきりと“彼女のもの”だと分かる質感だった。鋭さはなく、けれど重い。深い水底のように静かで、同時に、どこか歪んでいる。整っているはずの流れが、わずかに乱れ、均衡を失いかけているのが、肌で分かる。これまで幾度も教えられてきた、正確で美しい魔力とは違う。抑え込まれ、押し留められ、外へ漏れないよう必死に封じられている、そんな気配だった。


胸の奥が、冷たくなる。師匠が、こんな状態でいるはずがない。理屈では否定しようとしても、感覚が先に答えを出してしまう。これは“助けを呼ぶ魔力”だ。言葉よりも正直で、取り繕いが効かない、切迫した痕跡。だからこそ、意図的に残されたのだと理解できた。追ってこい、と。来なければならない、と。


周囲を見回す。校長室の奥、閉じられた扉、整えられた書類、日常の延長線にあるはずの場所。そのすべてが、今は薄く膜を張ったように遠い。世界が一段、奥へ引き下がった感覚。自分だけが、別の現実に足を踏み入れてしまったようだった。


「……置いていかないでください」

誰に向けた言葉かも分からないまま、声が零れた。返事はない。ただ、魔力の粒子が、微かに震えた気がした。錯覚かもしれない。それでも、その一瞬で十分だった。恐怖が、決意へと形を変える。


足元に残る魔力の残滓を、慎重に辿る。方向は明確だ。学院を離れ、街の中心へ、イーストレイク。研究室のある場所。理屈を積み上げるよりも先に、身体が動き出す。考える暇を与えれば、恐れが追いついてくる。ならば、走るしかない。


扉を開ける。廊下の光が、現実を引き戻す。けれど、もう戻れないところまで来ているのも、はっきり分かっていた。残滓は薄れつつある。時間が経てば、完全に消えるだろう。だから、今すぐに。


研究室で待っている。その言葉を、命綱のように胸に結び、俺は走り出した。


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