リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ③ 職員室の空気
校長先生の机の前に立った瞬間、ようやく走り続けていた身体が止まった。だが、胸の奥のざわめきは収まらない。
むしろ、ここに来てからの静けさが、不安を際立たせていた。職員室はいつもと変わらないはずなのに、どこか一角だけが欠けているような、そんな違和感がある。
視線は無意識に、奥の席へと向かっていた。窓際、書類の山と実験用の資料が並ぶ机。あの場所に座り、淡々と仕事をこなす姿が、今日はない。
椅子はきちんと机に収められ、書類も整然としている。それが逆に、胸を締めつけた。まるで、意図的に“空けられている”席のように見えたからだ。
「……リリィ先生は」
声を出そうとして、喉が詰まった。言葉にすれば、現実が確定してしまう気がした。けれど、聞かなければ何も始まらない。俺は一度、唇を噛みしめてから、改めて口を開いた。
「リリィ先生は、今日は……」
校長先生は一瞬だけ、視線を伏せた。そのわずかな間が、やけに長く感じられる。書類の端を指で揃え、静かに息を吐いてから、こちらを見た。
「……君も、気づいているようだね」
その言葉だけで、胸が冷えた。否定ではない。誤解でもない。事実を前提にした口調だった。
「リリィ先生は、しばらく学校を休ませてほしい、と申し出があったんだ」
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。やはり、そうなのか。覚悟していたはずなのに、実際に告げられると、身体の力が抜けそうになる。俺は反射的に問い返していた。
「……病気、ですか?」
校長先生は首を横に振る。その動きは、ゆっくりで、慎重だった。
「そう尋ねたんだがね。“いえ”とだけ答えられたよ。詳しいことは話してくれなかった。ただ……」
言葉が途切れる。校長先生は、俺の顔をまっすぐに見据えた。
「非常に元気のない様子だった。普段の彼女とは、まるで違ってね」
その一言が、胸に深く刺さった。森を出た後の、あの背中。謝り続け、視線を落としたまま去っていった姿が、鮮明に蘇る。あれは、単なる落ち込みではなかったのかもしれない。俺は無意識に、拳を握りしめていた。
「いつ頃から……休まれているんですか」
声が、わずかに震えた。校長先生は少し考えるように視線を泳がせてから、答える。
「君が学校を休み始めた、その少し後くらいだ」
はっきりと、線が繋がった。偶然ではない。タイミングが、あまりにも重なりすぎている。胸の奥で、嫌な予感が形を持ち始める。
職員室の空気が、急に重く感じられた。紙の擦れる音、誰かが椅子を引く音。それらすべてが、遠くに聞こえる。俺の意識は、ただ一つのことに向かっていた。
(このままじゃ、いけない)
何かが起きている。しかも、それは放っておいていい類のものではない。そう確信した瞬間、俺は職員室を出ようとしていた。校長先生が何か言いかけたが、耳には入らなかった。
扉に向かって一歩踏み出した、その時だった。背後……職員室の、さらに奥。普段は使われていないはずの部屋の方向から、微かな“揺らぎ”を感じた。
魔力だ。
はっきりと、間違えようのない感覚。胸の奥が、ひくりと反応する。さっきまでの不安が、一気に確信へと変わった。
(……いる)
俺は足を止め、ゆっくりと振り返った。職員室の奥。閉じられた扉。その向こうから、確かに感じる、懐かしくて、そして今はひどく歪んだ気配。
取り返しのつかないところまで、来てしまっている。そんな予感が、背筋を冷たく撫でた。
扉の前に立った瞬間、空気の密度が変わった。職員室の奥へと続く廊下は、つい先ほどまでと同じ場所のはずなのに、まるで別の空間に足を踏み入れたかのように重い。耳鳴りに似た感覚が、静かに、しかし確実に鼓膜の内側で響いていた。音があるわけではない。ただ、何かが満ちている。満ちすぎて、均衡を失いかけている。
やはり、魔力だ。それも、よく知っているはずの波長。何度も背中を追い、何度も導かれてきた、あの魔力。リリィ先生のものだ。だが、記憶の中にあるそれとは、どこか決定的に違っていた。透明で澄んだ流れではなく、濁りを抱えたまま、行き場を失って渦を巻いているような感触。触れれば、こちらの感情まで引きずられてしまいそうな、不安定さを孕んでいる。
思わず、拳を握りしめた。掌の内側に、じっとりと汗が滲む。森で感じた“悪い魔力”とは、質が違う。敵意や暴力性が前面に出ているわけではない。けれど、その分、厄介だ。内側から壊れていく兆しを、そのまま放置しているような、そんな危うさがあった。
「……やはり、ここに、いる」
小さく呟いた自分の声が、やけに遠く聞こえた。理屈ではなく、確信だった。奥の部屋。その扉の向こうに、師匠はいる。そして、助けを必要としている。
一瞬、躊躇が頭をよぎる。校長先生に許可を得たとはいえ、勝手に踏み込んでいい場所ではない。大人たちの領域だ。ましてや、相手は学院でも屈指の魔術師。弟子である俺が、出過ぎた真似をしていいはずがない。
それでも、足は止まらなかった。
森での光景が、鮮明に蘇る。血に染まった視界。抱き起こされる感覚。何度も何度も、震える声で謝り続けたリリィ先生の姿。あの背中を、また一人で抱えさせるわけにはいかない。あの時、俺は守られる側だった。今度は、今度こそ、手を伸ばす番だ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。魔力の流れを整える必要はない。戦うわけではない。ただ、向き合うだけだ。そう言い聞かせながら、扉に手をかける。
その瞬間、扉の向こうから、微かに魔力が揺れた。まるで、こちらの存在に気づいたかのように。
……待っていた。
そんな錯覚が、胸を打った。偶然ではない。校長先生の言葉も、ここに来た理由も、すべてが一本の線で繋がっている。この扉の向こうで、何かが限界に達しようとしている。
「……すみません」
誰にともなく、そう呟いてから、俺は扉を押した。




