リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ② リリィの休職
校門をくぐったところで、エレナがふと思い出したように顔を上げた。何気ない仕草だった。けれど、その何気なさに、俺の神経は過剰なほど反応してしまう。
「ねえ、お兄ちゃん。今日は剣術と魔術、どっちの授業?」
いつもなら、何の意味も持たない問いだ。時間割を確認するだけの、朝の定番のやり取り。俺も反射的に答えようとして、一瞬、言葉に詰まった。自分でも理由は分からない。ただ、その質問の裏に、妙な引っかかりを覚えたのだ。
「……魔術、だったと思うけど」
曖昧な返事になったのは、体調のせいだけじゃない。森での一件以来、魔術という言葉が、少しだけ重く感じられるようになっていた。エレナは俺の様子に気づいたのか、首を傾げながら続ける。
「そっか。今日は魔術だよ。でもね……」
その一拍が、やけに長く感じられた。エレナは特別な意味もないように、けれど少し声の調子を変えて言った。
「リリィ先生、しばらくお休みみたいだから、今日は他の先生が来るんだって」
その瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。理由の分からない寒気が、背骨を伝って上がってくる。頭では「お休み」という言葉を理解しているのに、心がそれを拒んでいる。
「……お休み?」
思わず聞き返していた。エレナは、俺の反応を不思議そうに見上げる。
「うん。代わりの先生が来てるって、みんな言ってたよ」
代わりの先生。その言葉が、決定的に現実味を帯びて響いた。休んでいる。学校に来ていない。森で見た、あの落ち込んだ背中が、頭の中で鮮明によみがえる。嫌な線が、ゆっくりと一本に繋がっていく感覚があった。
「……いつから?」
自分でも驚くほど、声が低くなっていた。エレナは少し考えてから、あっさりと答える。
「お兄ちゃんが学校を休んだ後くらい、かな」
その一言で、胸の中にあった曖昧な不安が、はっきりとした形を持ち始めた。偶然にしては、出来すぎている。タイミングが、重なりすぎている。
エレナは気にした様子もなく、先へ歩き出した。けれど俺は、その場に一瞬立ち尽くす。頭の中で、警鐘がはっきりと鳴り始めていた。これは、ただの偶然じゃない。リリィ先生の身に、何かが起きている。その確信が、静かに、しかし確実に胸を締め付けてきた。
俺は歩き出すエレナの背中を追いながら、すでに次の行動を考え始めていた。授業どころじゃない。まず確かめるべき場所は、一つしかなかった。
教室に入った瞬間、空気が少しだけ違っていることに気づいた。ざわめきの質が、いつもと違う。騒がしいわけでも、静かなわけでもない。ただ、どこか落ち着きがなく、視線が定まっていない感じだ。席に着くと、周囲の会話が断片的に耳に入ってくる。
「今日の魔術、代わりの先生らしいよ」
「リリィ先生、どうしたんだろ」
「病気かな……?」
そのどれもが、胸の奥に冷たいものを落としていく。黒板の前には、見慣れない教師が立っていた。姿を見た瞬間、はっきりと分かった。――いない。本当に、リリィ先生はいない。
代役の教師は淡々と準備を進めながら、事務的な声で告げた。
「今日は私が魔術の授業を担当します。リリィ先生は、しばらく学校をお休みされるとのことです」
その一文で、教室の空気が一段階沈んだ。誰も大きな声を上げない。ただ、小さなどよめきが波のように広がる。俺は机の下で、無意識のうちに拳を握りしめていた。
……しばらくお休み。
理由は語られない。説明もない。ただ「休む」という事実だけが、突きつけられる。その曖昧さが、逆に不安を増幅させていた。森での出来事、別れ際の表情、そしてエレナの言葉。すべてが、嫌な方向へと噛み合っていく。
授業が始まっても、内容は頭に入ってこなかった。代役の教師の声が、遠くで響いているように感じる。魔術陣の説明も、詠唱の理論も、今の俺には意味を持たない。視線は自然と、リリィ先生がいつも立っていた場所へ向かってしまう。
(……何かあったんだ)
その確信は、もう疑いようがなかった。ただ休んでいるだけなら、こうはならない。学校全体が、理由を伏せている。伏せなければならない何かがある。その中心にいるのが、リリィ先生だ。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。焦りが、喉元までせり上がってきた。今ここで座っている場合じゃない。確かめなければならない。直接、話を聞かなければ。
授業の合間の休憩時間を待つ余裕すら、もうなかった。俺は静かに椅子を引き、教室の後ろへと視線を向ける。向かう先は、最初から決まっていた。
……職員室だ。
そう決めた瞬間、心臓の鼓動が一段、速くなった。
教室を出る直前、どうしても確かめておきたいことがあった。胸の奥で引っかかっている、ほんの小さな違和感。それを言葉にできないまま歩き出してしまえば、あとで必ず後悔する。そう思って、俺は振り返り、エレナの席へと近づいた。
「なあ、エレナ、もう一度聞いておく」
呼びかけると、エレナはきょとんとした顔でこちらを見る。いつもと変わらない表情だが、その無邪気さが、今は逆に心細かった。
「リリィ先生が休み始めたのって……いつからだ?」
一瞬だけ、エレナの視線が宙を彷徨った。記憶を辿る仕草だ。指先を顎に当て、少し考えてから、はっきりと答える。
「えっとね……お兄ちゃんが学校を休んだ後くらい、かな」
その言葉が、胸の中で重く響いた。
……やっぱりだ。
森での一件。ジャイアントキリングコブラ。俺が倒れ、血まみれで運ばれ、リリィ先生が自分を責めるように謝り続けていたあの時間。あれから、俺は学校を休んだ。そして、その直後に、リリィ先生も姿を消した。
偶然で片付けるには、あまりにも線が繋がりすぎている。
「……そうか」
それだけ答えるのが精一杯だった。喉が少し乾いている。エレナは俺の表情を見て、何かを察したのか、不安そうに眉を寄せた。
「お兄ちゃん……大丈夫?」
その問いかけに、即座に答えることができなかった。大丈夫かどうかなんて、分からない。ただ一つ確かなのは、放っておけない、ということだけだ。
「うん。ちょっと、確かめてくる」
それ以上は説明しなかった。説明できるほど、状況を整理できていなかったからだ。エレナは何も言わず、ただ小さく頷いた。その仕草が、余計に胸に刺さる。
教室を出ると、廊下の空気がひんやりと感じられた。窓から差し込む光はいつも通りなのに、世界が少し色褪せて見える。足音がやけに大きく響き、自分がどれだけ焦っているのかを思い知らされる。
(休んだ後くらい……)
その一言が、頭の中で何度も反芻される。もし、あの時の出来事が原因だとしたら。もし、俺が倒れたことで、何かが決定的に狂ったのだとしたら。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
考えるより先に、体が動いていた。廊下を進む速度が、自然と上がる。目指す場所は一つ。これ以上、推測だけで立ち止まっていられない。
……直接、聞く。
職員室の扉が見えた瞬間、心臓が大きく脈打った。ここから先で、何かがはっきりしてしまう気がしてならなかった。
確信めいた不安が胸に落ちた瞬間、俺はもう立ち止まっていられなかった。廊下を踏みしめる足音が次第に速くなる。走ってはいけない、という校内の規則が頭をかすめたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。呼吸が浅くなり、胸の奥で心臓が硬く跳ねる。視界の端で、掲示物や教室の扉が流れていく。いつもは当たり前の景色が、今日はどこか遠い。
(休んだ後くらい……)
エレナの言葉が、何度も脳裏に浮かんでは消える。もし本当に、あの出来事が引き金になっているのだとしたら。森での訓練、撤退、転倒、尾撃、血、そして、リリィ先生の背中。丸まった肩、繰り返される謝罪。あの場面が、頭の中で鮮明に再生されるたび、喉の奥がひりついた。
職員室の前まで来ると、無意識に歩調が落ちた。扉の向こうから聞こえるのは、紙をめくる音と、低い話し声。いつも通りの空気だ。だが、その「いつも通り」が、今は不気味に思えた。深く息を吸い、ノブに手をかける。冷たい金属の感触が、現実に引き戻す。
扉を開けると、視線が一斉にこちらを向いた。数人の先生が事務仕事をしている。その中に、探している姿はない。分かっていたはずなのに、胸が一瞬だけ沈む。視線を素早く巡らせ、机の配置、壁際の書棚、奥の間仕切りまで確認する。やはり、リリィ先生はいない。
(……いない)
頭では理解していても、心が追いつかない。ここに来れば、何か分かると思っていた。けれど、見えないという事実が、かえって不安を増幅させる。俺は一歩踏み出し、近くにいた先生に声をかけようとしたが、言葉が喉で詰まった。誰に、どう聞けばいい。何を聞くべきだ。
その時、奥の方で、校長先生の姿が目に入った。机に向かい、書類に目を通している。迷いは一瞬で消えた。今、必要なのは遠慮ではない。真実だ。
「……失礼します」
声は自分でも驚くほど低く、硬かった。校長先生が顔を上げ、こちらを見る。目が合った瞬間、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。ここまで来たのだ。逃げ場はない。
一歩一歩、床を踏みしめながら近づく。周囲の視線が気にならないわけではないが、それ以上に、聞かなければならないという思いが勝っていた。手のひらに、うっすらと汗が滲む。
(どうか……何も、取り返しのつかないことじゃありませんように)
そう願いながら、校長先生の机の前に立った。胸の鼓動が、やけに大きく響いている。ここから先で、状況は動き出す。良くも悪くも、もう、後戻りはできない。




