リリィ編 第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ① 休養そして登校
第五十四章 リリィ先生を求めてイーストレイクへ
両親の判断で、俺はしばらく学校を休むことになった。表向きの理由は「大事を取って」だったが、その言葉の裏にあるものが何かは、俺自身が一番よく分かっていた。
身体の傷は、リリィ先生のリジェネレイトヒーリングで完全に癒えている。骨も内臓も、魔力の巡りも問題はなかった。
それでも、心の奥だけが、いつまでも落ち着かなかった。目を閉じると、あの森の奥で感じた圧迫感、地面に叩きつけられた瞬間の衝撃、そして視界が暗くなっていく感覚が、何度も蘇ってくる。眠っても、完全には休めていない。朝になっても疲れが抜けず、胸の奥に小さな石のような重さが残ったままだった。
父さんは、いつもより少しだけ声を抑えて言った。
「今は無理をする時じゃない。学校は休め。焦る必要はない」
その言葉は正しかったし、俺も反論はしなかった。ただ、その「焦る必要はない」という言葉が、逆に胸に刺さった。
焦っている自覚が、はっきりとあったからだ。時間が過ぎていくことが怖かった。何もしていない間に、何かが取り返しのつかないところまで進んでしまう気がしてならなかった。
部屋は、いつもと同じはずなのに、どこか違って感じられた。窓から差し込む光は柔らかく、外ではエレナの笑い声が聞こえることもある。
それでも、俺の意識は常に外に向いていた。学校のこと、訓練のこと、そして何より、リリィ先生のことだ。森を出る時に見た、あの丸まった背中が、頭から離れなかった。師匠として、研究者として、常に余裕を持って立っていたはずの人が、あんなにも小さく見えた理由を、俺はまだ理解できていない。
身体を休める時間は、考える時間でもあった。考えれば考えるほど、胸の奥の不安は形を持ちはじめる。これはただの心配なのか、それとも、何かが確実に起きつつある前触れなのか。その区別がつかないまま、俺は静養という名の足踏みを続けていた。何もしないでいることが、こんなにも重く感じられるとは思っていなかった。
学校を休む間、俺はリリィ先生から借りた本を、返す前にせめて全部読み切ろうと決めていた。何かをしていないと落ち着かなかったし、何より、あの人から受け取ったものを、まだ途中で手放したくなかった。
本は分厚く、紙の匂いも、装丁の硬さも、研究書特有のものだった。ぱらぱらとめくるだけで、そこに費やされた時間と労力が伝わってくる。軽い気持ちで読み始められる内容ではない。それでも、俺は夜ごとにページを開いた。
最初は、単純な魔術理論の復習だと思っていた。属性ごとの魔力の流れ、詠唱に込める意味、術式の組み立て方。だが、読み進めるうちに、それが「教科書」とはまるで違うものだと気づかされる。
ただ魔術を発動させるための説明ではない。なぜその魔術が成立するのか、どの瞬間に失敗するのか、魔力がどこで歪むのか、細部まで、容赦なく書かれていた。理解が追いつかない部分も多く、同じページを何度も読み返すことになる。それでも、不思議と苦ではなかった。頭が疲れる代わりに、胸の奥のざわつきが少しだけ静まっていくのを感じた。
ページの端には、細かい書き込みが残っているところもあった。インクの色が微妙に違い、何度も推敲された痕跡がある。ここで一度失敗した、ここは危険、実践では絶対に調整すること。そんな言葉が、淡々と記されているだけなのに、そこに人の気配を感じた。魔術師としての経験だけでなく、失敗や後悔まで含めて積み上げられた知識。それを、俺は今、無防備に受け取っている。
読みながら、ふと手が止まることがあった。この本を書いた人は、今、何を考えているのだろうか。研究室で、いつものように机に向かっているのか。それとも、あの日見せた落ち込んだ背中のまま、どこかで立ち止まっているのか。ページを閉じると、静かな部屋に自分の呼吸だけが残る。外では夜風が木々を揺らしていたが、その音さえ、どこか遠く感じられた。
本の内容は、確かに俺を成長させてくれるものだった。だが同時に、圧倒もされていた。この領域に辿り着くまでに、どれだけの時間と覚悟が必要なのかを、突きつけられている気がした。そして、その中心にいるはずの人が、今、元気を失っているかもしれないという事実が、重くのしかかる。ページをめくるたびに、知識と一緒に、不安もまた積み重なっていった。
本を閉じるたびに、どうしても思い出してしまう光景があった。森から戻ったあの日、別れ際に見たリリィ先生の背中だ。丸まった肩、伏せられた視線、何度も謝罪を繰り返しながら遠ざかっていく姿。その背中が、頭から離れなかった怪我をしたのは俺だったはずなのに、あの人は、まるで自分が取り返しのつかない失敗をしたかのような顔をしていた。師匠として、研究者として、そして何より一人の人間として、何かを背負い込みすぎているように見えた。
ページの隅に書かれた注意書きを眺めながら、俺は無意識のうちに、あの時の声を思い出していた。「私の判断が甘かった」。あれは単なる反省の言葉ではなかった。自分を責める癖が、長年染みついている人の言い方だった。失敗を次に活かすための冷静な分析ではなく、感情ごと抱え込むような、自罰に近い響き。その危うさに、俺はその時、はっきりと気づいていただろうか。
夜が深くなるにつれて、嫌な予感が膨らんでいく。怪我のことだけなら、時間が解決してくれるはずだ。だが、あの落ち込み方は、ただの心配や一時的な動揺ではない。何かを決定的に失ったかのような、あるいは、自分の存在価値そのものを疑っているかのような重さがあった。研究に没頭することでしか、自分を保てない人が、研究からも距離を置こうとしているとしたら、その行き先は、あまりにも不安定だ。
窓の外を見やると、月明かりに照らされた庭が静かに広がっていた。何も起きていないように見える世界が、逆に怖かった。静けさの裏で、何かが進行しているのではないか。俺の知らないところで、リリィ先生が一人、抱えきれないものと向き合っているのではないか。そう考えると、胸の奥がじくりと痛む。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせようとしても、言葉が空回りする。あの背中は、助けを求めていなかったわけじゃない。ただ、どうやって助けを呼べばいいのか分からない人の姿だった。そう思えてならなかった。その予感は、はっきりとした根拠もないまま、夜の静けさと一緒に、俺の中に深く刺さったまま残り続けていた。
朝の光は、いつもと同じように部屋に差し込んできた。母さんが用意してくれた温かいスープの湯気を見つめながら、俺はようやく、身体が自分のものに戻ってきた感覚を確かめていた。怪我の痛みは消え、呼吸も安定している。歩くときに残っていた違和感も、ほとんど感じなくなっていた。
母さんは、いつもより少しだけ近くにいて、何度も顔色を確かめるように俺を見る。その視線には心配が滲んでいたが、同時に「もう大丈夫だろう」という安堵も混じっていた。
「今日は、無理しないでね」
そう言いながらも、母さんは登校の準備を整えてくれた。両親からの許可が下りたのだ。しばらく休んでいた学校に、また通っていいという判断。
それは、俺にとって小さな一歩でありながら、確かな区切りでもあった。大事を取るべき時期は終わり、日常へ戻る。その合図のように、父さんも短く頷いて背中を押してくれた。
身支度を整え、鞄を手に取る。何度も繰り返してきた動作なのに、今日は少しだけ重みを感じた。それは不安ではなく、「戻る」という行為そのものが持つ感触だった。怪我をする前の自分と、今の自分は同じなのか。答えは分からない。ただ、普通に学校へ行き、授業を受け、友達と話す。その流れに身を置くことで、確かめられることもあるはずだ。
玄関を出ると、朝の空気がひんやりと肺に入ってくる。エレナが待っているはずだ。いつもの道、いつもの時間。何も変わっていないように見える景色の中で、俺は小さく息を吐いた。“普通”に戻るというのは、特別なことをするわけじゃない。ただ、当たり前だった日常に、もう一度触れ直すことだ。その手触りを確かめるように、一歩、また一歩と歩き出した。
門を出ると、少し先でエレナが振り返って手を振った。いつもと同じ位置、同じ仕草。俺はその光景に、胸の奥がわずかにざわつくのを感じながら歩みを早めた。二人並んで歩く通学路は、これまで何度も通ってきたはずなのに、今日は妙に静かに思えた。鳥の声も、朝露に濡れた草の匂いも、すべてが「変わっていない」ことを強調してくる。その“変わらなさ”が、逆に怖かった。
エレナは元気そうだった。足取りも軽く、時折こちらを見上げて笑う。その笑顔に、俺は少しだけ安心する。少なくとも、家族の日常は壊れていない。けれど、胸の内に沈んだ重たいものは、簡単には消えてくれなかった。リリィ先生の背中。森での出来事。悪い予感が、まだ体のどこかに残っている。
道の角を曲がるたびに、学校の屋根が少しずつ近づいてくる。そこに辿り着けば、昨日までの“普通”が待っているはずだ。そう思う一方で、もしも何かが欠けていたら、と考えてしまう自分がいた。授業の席、職員室、魔術の時間。どれも、リリィ先生の存在と結びついている。その影が見当たらなかったらどうなるのか。考えないようにしても、思考は勝手に先へ進む。
エレナは何気ない調子で話しかけてくる。今日の天気のこと、給食のこと、授業の順番。俺は相槌を打ちながら、言葉の端々を聞き逃さないようにしていた。いつも通りの会話。いつも通りの朝。そのはずなのに、胸の奥では警鐘が鳴り続けている。“普通”は、失われる時ほど静かに崩れる。だからこそ、この静けさが、今は怖かった。
校門が見えてきた。ここから先は、もう戻れない。俺は無意識に拳を握り、歩調を整える。何が待っていようと、確かめなければならない。エレナの隣で、俺は静かに覚悟を固めながら、学校へと足を踏み入れた。




