リリィ編 第五十三章 リリィ先生と魔物討伐訓練⑥ 救出・自責
闇に沈みきる直前、わずかに残った感覚の奥で、誰かの声が聞こえた気がした。遠く、深い水の底から響いてくるような、必死さを帯びた声だった。
次に意識が浮上したとき、視界は断片的で、輪郭が定まらなかった。上下の感覚が曖昧で、身体が揺れている。地面を蹴る振動が、規則的に背中から伝わってくる。
……抱えられている。
その事実だけは、はっきりと分かった。
強く、硬い腕。鎧越しでも分かる、鍛え抜かれた筋肉の感触。揺れの一つ一つが、速く、力強い。森の中を、全力で駆け抜けている。
父さんだ。
視界の端で、枝葉が猛烈な速度で後方に流れていく。低い姿勢のまま、木々の間を縫うように進んでいるのが分かる。足を止めれば、すぐ背後には“それ”がいる。そんな距離感が、理屈ではなく、本能として伝わってきた。
息をするたび、胸の奥が軋んだ。意識は途切れ途切れで、痛みも現実感を失っている。ただ、父さんの腕だけが、確かな現実として存在していた。
(……生きて、帰る)
その決意が、言葉ではなく、身体の動きとして伝わってくる。父さんは一度も振り返らない。ただ前だけを見て、最短の道を選び、全力で走り続けていた。
遠くで、何かが地面を打つ重い音がした。木々が揺れ、空気が震える。ジャイアントキリングコブラが、まだ追ってきている。その圧倒的な存在感が、背中越しに迫ってくる。
だが、父さんは止まらない。
森の出口が見えたとき、空気の色が変わった。湿った暗さが薄れ、開けた空間の匂いが混じる。最後の力を振り絞るように、父さんは速度を上げた。
そして、森を、抜けた。
一気に視界が明るくなり、背後の圧迫感が、少しだけ遠ざかる。完全に安全とは言えない。だが、少なくとも、今すぐ追いつかれる距離ではない。
父さんはそこでようやく足を止め、俺を地面に下ろした。膝をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、それでも真っ先に俺の顔を覗き込む。
「……生きてるな」
それは確認というより、祈りに近い声だった。
その瞬間、意識が再び遠のく。だが今度は、完全な闇ではない。誰かが傍にいるという確信と共に、深い眠りに引き戻されていった。
意識が戻ったのは、森の外の開けた場所だった。空の色が、やけに近い。地面の感触が、背中に直接伝わってくる。だが、それらを認識するより先に、身体の内側から、耐え難い痛みが一斉に押し寄せてきた。
息が、できない。
肺に空気を入れようとした瞬間、胸の奥が軋み、視界が白く弾けた。肋骨が折れている。いや、それだけではない。内臓のどこかが損傷している感覚が、遅れてはっきりと理解できてしまう。
「ルーメン君!」
切迫した声が、すぐ近くで響いた。震えを抑えきれない声色。次の瞬間、全身を包み込むような、温かな感覚が流れ込んでくる。
リリィ先生だった。
彼女は地面に膝をつき、迷いなく詠唱に入っていた。普段の落ち着いた調子とは違う。早く、しかし一語一語を噛みしめるように、確実に言葉を紡いでいく。
「聖なる神の力よ、御霊の力を取り戻し、この者の再生と聖なる加護を授けたまえ……リジェネレイトヒーリング」
淡い光が、俺の身体を覆う。血に染まっていた衣服の下で、砕けた骨が音もなく繋がり、裂けた内側が、無理やり引き戻されていく感覚があった。
同時に、痛みが……一気に押し寄せた。
「……っ!」
思わず声が漏れる。回復しているのが分かるからこそ、その過程がはっきりと意識に上ってくる。治る。確実に治っている。だが、それを身体が拒否するように、激痛が全身を駆け巡った。
「大丈夫、大丈夫……!」
リリィ先生の声が、震えながらも必死に続く。
光が一度、弱まる。俺の視界が揺れ、天と地の境目が曖昧になる。意識が完全に戻りきらないまま、ただ痛みに耐えていると、彼女は迷いなく、もう一度詠唱を始めた。
「……もう一度」
二度目のリジェネレイトヒーリングが発動した瞬間、先ほどまで身体を支配していた激痛が、嘘のように引いていく。骨も、内臓も、皮膚の下の違和感も、すべてが正しい位置に収まっていく感覚。
呼吸が、楽になった。
視界が、はっきりする。
身体は、無事だった。
完全に、治っている。
だが。
起き上がろうとした瞬間、力が入らず、身体がわずかに傾いた。筋肉が動かないわけではない。痛みもない。それなのに、足が、前に出ない。
(……動けない)
身体ではなく、心が、現実に追いついていなかった。死にかけたという事実を、頭がまだ処理できていない。安全な場所に戻ったと理解していても、恐怖の残響が、深く残っている。
父さんがすぐに支え、俺を抱き起こした。
「無理するな。歩かなくていい」
その声は、低く、しかし確かだった。
こうして、肉体は救われた。けれど、この時点ではまだ、誰も気づいていなかった。
本当に深い傷が、これから表に現れようとしていることを。
父さんが俺を抱え上げ、森を離れて歩き出すと、周囲の音がゆっくりと現実の輪郭を取り戻していった。風の音、草を踏む音、遠ざかる森の気配。危機は去った――少なくとも、外側では。だが、その少し後ろを歩くリリィ先生の足取りだけが、明らかに重かった。
彼女は、何度も同じ言葉を呟いていた。
「……私が、言い出したのに」
声は小さく、誰に聞かせるでもない独白だった。だが、その一言一言が、胸の奥から絞り出されているのが分かる。視線は地面に落ち、いつもの背筋の伸びた姿勢は影を潜め、肩がわずかに内側へと丸まっている。
「実践が必要だなんて……判断が、甘かった……」
俺の身体は、父さんの腕の中で揺れていた。無事だ。今はもう、確かに無事だ。それなのに、リリィ先生は、その事実を自分に許していないようだった。彼女にとって重要なのは結果ではなく、そこに至るまでの“選択”だったのだ。
「ランダルさん……申し訳ありません」
振り返り、深く頭を下げる。その動きは反射的で、ほとんど衝動に近い。父さんは一瞬だけ歩みを止め、低く、しかしはっきりとした声で答えた。
「命は助かった。それでいい。誰の判断でも、想定外は起きる」
それ以上、責める言葉はなかった。だが、リリィ先生は顔を上げなかった。許されたからといって、責任が消えるわけではないと、彼女自身が一番よく分かっているからだ。
「……ルーメン君、ごめんなさい」
今度は、俺に向けての言葉だった。視線は合わない。声が、わずかに震えている。
「師匠として……守るべき立場の私が……」
言葉が続かない。代わりに、息を吸い、吐く。そのたびに、周囲の空気が、ほんの僅かに揺れたように感じた。意識しなければ気づかないほどの変化。
自責、後悔、恐怖。守れなかったという事実。リリィはひどく自責の念に駆られていた。
家が見えてきた頃、リリィ先生は立ち止まった。父さんが俺を連れて先に進むと、彼女はその背中を見送り、もう一度、小さく頭を下げた。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
それだけを言って、踵を返す。去っていく背中は、いつもより小さく見え、丸まった肩が、彼女の心の重さをそのまま映しているようだった。視線は落ち、歩幅は狭く、足取りには迷いが滲んでいた。
父さんと俺の姿が完全に見えなくなると、リリィ先生はその場に立ち尽くした。
背中を向けたまま、しばらく動かない。
風が吹き、草が揺れ、遠くで鳥が羽ばたく。
それらすべてが、まるで自分だけを置き去りにして進んでいくように感じられた。
「……私は」
喉の奥で、声にならない音が震える。
師として。
研究者として。
大人として。
どれもが、中途半端だったのではないか。
教える力はあっても、守る覚悟が足りなかったのではないか。
「……強くさせたい、なんて」
自分の理想を、あの子に押し付けただけではなかったか。
憧れに応えたいという純粋な気持ちと、師としての冷静さが、どこかですり替わっていたのではないか。
視線が、無意識に自分の手へと落ちる。
その指先が、かすかに震えていることに、ようやく気づいた。
(……怖かった)
失うところだった。
未来を。
才能を。
そして……自分が教えた、あの子を。
その事実が、胸の奥に、重く沈殿する。
リリィは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
何度も、何度も。
彼女は顔を上げ、もう一度だけ、森の奥を振り返る。
そこには、もう誰もいない。
「……次は」
次は、絶対に。
守る側として、立ち続ける。
そう心に誓いながらも、その決意が、後に別の形で歪んでいくことを、この時のリリィは、まだ知らなかった。
そして彼女は、ゆっくりと歩き出す。
背中に、見えない重荷を背負ったまま……。




