ソアラ編 第五十一章 セリナの旅立ち③ セリナの旅立ち
誰かが、最初に泣いたわけではなかった。
ただ、気づけば、誰かの目が赤くなり、それを見て、また別の誰かが笑って、そして、また涙が溢れた。
食卓の上には、母が心を込めて作った料理が並んでいる。
誕生日でも、祝祭日でもない。けれど、それ以上に特別な夜。
セリナの門出を祝うための、家族だけの時間だった。
「そういえばさ」
ふいに、エレナが無邪気に言った。
「セリナ姉ちゃん、昔、剣を振り回して、椅子壊したよね?」
セリナが顔を赤くして叫ぶ。
「ちょ、ちょっとエレナ!?それは言わない約束でしょ!」
「えー?でも父さん、あの時すごく怒ってたよ?」
ランダルは、咳払いを一つ。
「……剣は、家具に振るうものではない」
その言い方が、あまりにも真面目で、全員が一斉に吹き出した。
「父さん、それ、今言う!?」
「はははっ」
母も、目元を拭いながら笑う。
「本当に……賑やかな家だったわね」
ルーメンは、少し離れた位置から、その光景を静かに見ていた。
(……行っちゃうんだな)
頭では分かっている。学院へ進むのは、前向きな一歩だ。
それでも、この家の“当たり前”が一つ減ることに、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
セリナは、そんなルーメンの視線に気づき、ふっと笑って言った。
「なに、そんな顔してるのよ」
「別に」
そう返しながらも、視線を逸らすルーメンに、セリナは小さく肩をすくめる。
「大丈夫よ。私はいなくなるわけじゃない」
その声は、姉らしい落ち着きを持っていた。
「ちゃんと、帰ってくるから」
それは、約束というより、当然のことのように。
エレナが、セリナの腕にしがみつく。
「……絶対、帰ってきてね」
「当たり前でしょ」
セリナは、優しく頭を撫でる。
泣いて、笑って、語って。
思い出話は尽きなかった。
夜は、ゆっくりと更けていく。
それでも誰も、「もう寝よう」とは言わなかった。
この時間が、少しでも長く続くように、そんな想いが、全員の胸にあったから。
そしてやがて、食卓の灯りが落ちる頃。
セリナは、家族一人一人の顔を、改めて、目に焼き付けた。
(……行ってくる)
心の中で、静かにそう呟きながら。
朝の空気は、ひんやりとして澄んでいた。まだ陽は高くない。
学校の広場には、学校が用意した馬車が静かに停まっている。
大きな荷物を背負ったセリナは、その前に立ち、深く息を吸った。
いよいよだ。
母は、何度も何度も荷物の紐を確認している。
父は、腕を組んだまま、いつもより少しだけ厳しい顔をしていた。
エレナは、ぎゅっと拳を握りしめて、
必死に泣くのをこらえている。
ルーメンは、少し後ろで、その光景を見ていた。
昨夜、あれほど話したはずなのに、言葉は、まだ足りない気がした。
けれど、別れの時というのは、いつも、そういうものなのかもしれない。
セリナは、くるりと振り返り、家族全員を見渡した。
「父さん、母さん」
真っ先に、そう呼ぶ。
「ルーメン、エレナ」
名前を呼ぶ声は、はっきりとしていて、迷いがなかった。
「私、頑張ってくるわ」
それは、宣言だった。
「たまには帰ってくるから」
その言葉に、母が堪えきれずに微笑みながら頷く。
「ええ。身体だけは、大事にするのよ」
父は、一歩だけ前に出て、低く言った。
「剣を振るう者は、自分の命も剣の一部だ。忘れるな」
「うん」
短い返事。けれど、そこには確かな信頼があった。
エレナが、ついに涙をこぼす。
「……セリナ姉ちゃん……」
セリナは、しゃがみ込み、エレナと視線を合わせた。
「大丈夫」
優しく、力強く。
「エレナは、ちゃんと強くなる」
そして、いつものように、少しだけ意地悪そうに笑う。
「だって、私の妹だもの」
エレナは、泣きながらも、ぎこちなく笑った。
最後に、セリナはルーメンを見る。
一瞬、言葉を探すように間が空く。
けれど、それ以上、何も言わなかった。
言わなくても、伝わっていると、分かっていたから。
「……いってくるわね」
そう言って、セリナは馬車に乗り込む。
御者が合図を出し、馬がゆっくりと歩き出す。
車輪が、音を立てて回り始める。
「父さん、母さん、ルーメン、エレナ!」
少しだけ、身を乗り出して。
「私、頑張ってくるわ!」
その声は、朝の空に、まっすぐに響いた。
家族は、馬車が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。
やがて、道の先に、何も見えなくなっても。
ルーメンは、静かに息を吐く。
(……行ったな)
胸の奥に、寂しさと、誇らしさが、同時に広がっていく。
それはきっと、“旅立ち”というものが持つ、正しい痛みだった。
こうして、セリナの新しい道が、確かに、始まった。




