ソアラ編 第五十一章 セリナの旅立ち② 感謝の言葉
セリナは、最初にエレナのほうを見た。
まだ小さな体。椅子にちょこんと座り、姉の顔を見上げている。
何か大事な話が始まることだけは、雰囲気で分かっているらしく、エレナは背筋を伸ばして、真剣な表情をしていた。
その姿を見て、セリナは一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(……やっぱり、心配だな)
剣術を教えた。魔術も、ルーメンから学ばせてもらっている。
分かっている。エレナは、もう「守られるだけの子」ではない。
それでも、姉としての気持ちは、簡単には割り切れなかった。
セリナは、ゆっくりと言葉を選びながら、口を開く。
「エレナ」
名前を呼ばれて、エレナは少しだけ緊張したように肩をすくめる。
「まだ、五歳だね」
その一言で、場の空気が少しだけ柔らぐ。
「お姉ちゃんとしては……正直、とても心配です」
セリナは、正直に言った。取り繕わない。強がらない。
「でも、剣術は、私が教えたし」
エレナは、少し誇らしそうに胸を張る。
「ルーメンに魔術も教わって、相当、強くなってるはずだから」
ルーメンのほうを見ると、彼は少し照れたように視線を逸らした。
「お姉ちゃんと、お兄ちゃんの良いところを取って」
セリナの声は、優しく、けれどはっきりしている。
「エレナが、いちばん強くなれることを、願ってるわ」
エレナの目が、少し潤む。
「でもね、困ったら、父さんや母さん、
それから、ルーメンを、必ず頼ってね」
その言葉に、エレナは大きく頷いた。
「エレナ」
最後に、セリナは、柔らかく微笑む。
「大好きよ」
その一言で、エレナは堪えきれなくなったように立ち上がり、椅子から身を乗り出して叫ぶ。
「お姉ちゃん、大好き!」
その声に、食卓の空気が、一気に温かくなる。
セリナは笑いながら、それでも、心の奥で静かに思った。
(……守ってあげられなくなる時間も、増える)
けれど、それは「離れる」ことじゃない。
信じて、託して、それぞれが前へ進む、その第一歩だ。
セリナは、次にルーメンのほうを向いた。
さっきまでの柔らかな空気が、ほんの少しだけ、引き締まる。
家族の中で、一番年が近くて、一番多くの時間を共有してきた存在。
そして、エレナと自分を、何度も支えてくれた人。
セリナは、息をひとつ整えてから、はっきりと言った。
「ルーメン」
名前を呼ばれ、ルーメンは背筋を伸ばす。
セリナは、真正面から彼を見る。
「私とエレナを助けてくれて、ありがとう」
その言葉は、迷いなく、まっすぐだった。
「ルーメンは、優しいし、しっかりしてるから……」
少しだけ微笑んでから、続ける。
「あんまり心配してないけど」
そこで、声の調子が変わる。
「……でもね」
ルーメンは、その変化を聞き逃さなかった。
「無理しそうだから、そういう所が、ちょっと心配よ」
セリナは、分かっている。誰よりも、彼の癖を。
「絶対に、無理しないで」
言い聞かせるように、はっきりと。
「ルーメンには、魔術の道があるから、それはそれでいいけど」
そこで、少しだけ指を立てる。
「学べるだけ、父さんに剣術を学んでおいた方がいいわよ」
ランダルのほうを見ると、父は黙って、静かに頷いた。
「あと、二年したら、ルーメンも進学ね」
その言葉に、ルーメンの胸の奥が、わずかに震えた。
「学院で、待ってるわ」
未来の話を、当たり前のように、そこに置く。
そして、最後に。
「ルーメン」
少し照れたように、けれど、はっきりと。
「大好きよ」
その瞬間、ルーメンは言葉を失った。
胸の奥に、温かいものが、じわりと広がる。
(……参ったな)
そう思いながら、それでも、彼は目を逸らさずに答えた。
「……ありがとう、セリナ姉」
短い言葉だったが、そこに込められた想いは、十分すぎるほどだった。
セリナは、その返事に満足そうに頷く。
(……大丈夫)
離れても、この家族は、ちゃんと繋がっている。
セリナは、ゆっくりと視線を移した。
まず向いたのは、食卓の向こう側に座る母だった。
いつもと同じ場所。いつもと同じ優しい眼差し。
けれど今夜だけは、その目が、少しだけ潤んでいる。
セリナは、小さく息を吸い、母のほうへ一歩踏み出した。
「母さん」
その呼び方は、幼い頃から変わらない。
「私を、いつも見守ってくれて……」
言葉にした途端、胸の奥に積もっていた記憶が、一気に溢れ出しそうになる。
「美味しいご飯も、たくさん食べさせてくれて」
台所に立つ背中。掃除をする手。忙しい朝。
「家のことを色々して……私を、大切に育ててくれて、ありがとう」
母は、何も言わずに聞いている。ただ、微笑みながら。
「剣術で怪我をした時は、いつも母さんに、癒し魔術をかけてもらって……」
包み込むような光。触れる手の温かさ。
「ありがとう」
セリナは、少しだけ俯いた。
「怪我ばっかりで……心配かけて、ごめんなさい」
母の肩が、ほんのわずかに揺れた。
セリナは、顔を上げる。
「でもね、私は、母さんを泣かせるような、危険なことは、絶対にしないから」
それは、約束だった。
「安心して」
そして、まっすぐに。
「母さん……大好きよ」
母は、ついに堪えきれず、目元を押さえながら、何度も頷いた。
次に、セリナは父のほうを向いた。
ランダルは、背筋を伸ばし、剣士としての厳しさを崩さないまま、娘を見ている。
「父さん」
「父さんが、私に剣術を教えてくれたから……今の私があるわ」
稽古場での声。何度も地面に叩きつけられた日々。それでも、決して手を抜かなかった指導。
「剣術の師範として、心から、尊敬してるし……感謝してる」
ランダルの拳が、膝の上で強く握られた。
「そして……」
セリナは、少しだけ言葉を選ぶ。
「私を育てるために、働いて……不自由なく生活させてくれて、ありがとう」
剣ではなく、生活を守るために振るわれた力。
「全部、父さんのおかげよ」
最後に、静かに、しかし確かに言った。
「ありがとう。父さん……大好きよ」
その言葉に、ランダルは一瞬、視線を逸らした。
そして、低く、短く。
「ああ」
それだけで、十分すぎる返事だった。
食卓には、もう、誰も言葉を発しなかった。
けれどそこには、確かな想いが、静かに満ちていた。




