ソアラ編 第五十章 謝罪とエアリス⑤ ソアラの胸の内
家へ戻る道は、川辺から続く細い道だった。
夕暮れの空は赤く、昼の名残をほんの少しだけ残している。
ソアラは、足を止めることなく歩きながら、それでも、心の中では、何度も立ち止まっていた。
(……ルーメン君)
名前を思い浮かべるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
思い出されるのは、魔術を教えてもらっていた日々。
家事と弟たちの世話に追われ、自分のための時間など、一度も与えられなかった生活。
朝から晩まで、やるべきことだけが積み重なり、「楽しい」という感情を、どこかに置き忘れてしまっていた日々。
そんな中で、ルーメンは現れた。
(……あの人は)
ソアラの環境を知って、憐れんだり、同情したりはしなかった。
ただ、「できるようになろう」と言ってくれた。
魔術を教える時も、声を荒げることはなかった。
失敗しても、魔力が乱れても、必ず理由を一緒に考えてくれた。
「焦らなくていいよ」
「今は、それで十分だ」
その言葉が、どれほど救いだったか。
魔術を学ぶ時間は、ソアラにとって初めて“自分のために使える時間”だった。
詠唱に集中している間だけは、貧しさも、責任も、一瞬、忘れることができた。
(……幸せだった)
気づけば、ルーメンと過ごす時間が、一日の中で一番楽しみになっていた。
それは、「憧れ」や「尊敬」という言葉ではもう収まらない感情だった。
そして、あの夢。
ルーメンが意識を失った時に見ていた夢を、ソアラも、同じように見ていた。
正確には、ソアラの願望を、ルーメンに“見せていた”。
知らない家。夫婦のような日常。並んで食事をして、何気ない会話を交わす時間。
(……あんな日が、本当に来たら)
そう、ほんの少しだけ願った。
それは、誰にも言えない、小さくて、儚い願いだった。
ルーメンに肩を持たれて、魔力を流し込まれた、夢が壊れると思ってマナドレインをした時、ソアラは、ルーメンの魔力を奪っていた。
けれど、途中から、それができなくなった。
理由は、はっきりしている。
ルーメンが肩に手を置き、魔力を流し込んできた瞬間。
その魔力は、とても、優しかった。
荒々しさはなく、押し付けるような力もない。
ただ、包み込むように、静かに、温かく。
まるで、「大丈夫だよ」と語りかけてくるような感覚。
(……心地いい)
身体の奥に刻み込まれるように、その魔力は、ソアラを満たしていった。
だから、魔力を吸えなかった。
奪ってしまえば、この温かさは消えてしまう。
それが、本能的に分かってしまった。
(……浸っていたかった)
ただ、それだけだった。奪いたくなかった。傷つけたくなかった。
それが、恋だと気づく前から、心は答えを知っていた。
そして、理解していた。
ルーメン君の隣にいるのは、きっと、エアリスちゃんだ。
自分より強く、自分よりまっすぐで、ルーメンと同じ高さで歩ける人。
自分は、まだそこまで届かない。
貧しい家庭。重すぎる責任。未熟な心。
この恋心は、今は、伝えられない。
学校生活での、初めての楽しくて幸せな思い出。
そして、初めて芽生えた恋心。
それは、ソアラの人生の中で、確かに大切なものだった。
だからこそ、誇れる自分になるまでは。
この気持ちは、胸の奥に、そっと伏せておく。
(……いつか)
そう、小さく願いながら。
ソアラは、家へと続く道を、一歩一歩、前へ進んでいった。
その背中には、過去を振り切る強さと、未来を見つめる静かな決意が、確かに宿っていた。




