ソアラ編 第五十章 謝罪とエアリス③ 握手
ルーメンは、エアリスとソアラの間に立つようにして、ゆっくりと息を整えた。
怒りに火がついたエアリスの感情も、頭を下げ続けるソアラの後悔も、どちらも、痛いほど分かる。
だからこそ、ここで言葉を選ばなければならなかった。
「エアリス、落ち着いて」
その声は、強くもなく、弱くもなく、ただ、まっすぐだった。
エアリスは、はっとしたようにルーメンを見る。
だが、怒りはまだ、瞳の奥で燃えている。
ルーメンは続けた。
「エアリスも、分かると思うけど……あれは、魔力暴走状態だったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ソアラの肩が、わずかに震えた。
(……言われる)
自分でも、薄々気づいていた。けれど、それを口に出されるのが、怖かった。
ルーメンは視線を逸らさず、続ける。
「ソアラ自身が、悪いわけじゃない」
エアリスの眉が、きゅっと寄る。
「……でも」
言い返そうとするエアリスに、ルーメンは静かに言葉を重ねた。
「エアリス、覚えてるでしょ」
その一言で、エアリスの呼吸が、一瞬止まった。
「エアリスが……消えかけた時があったよね」
川辺の空気が、すっと冷える。
エアリスの脳裏に、あの日の感覚が蘇る。
自分の意思とは関係なく、存在が薄れていった、あの感覚。
「……あの時、エアリスは」
ルーメンは、ゆっくりと言葉を置く。
「エアリス自身で、どうすることもできなかったでしょ」
エアリスの拳が、ゆっくりとほどけていく。
「今回も、それと同じなんだ」
ルーメンの声には、責めがなかった。
ただ、事実を並べているだけだ。
「ソアラも、自分に起きていることは理解していた」
その言葉に、ソアラは小さく息を呑む。
(……見抜かれてた)
「でも、ソアラ自身では、どうすることもできなかった」
ルーメンは、最後にこう言った。
「意図的にやったわけじゃない。魔力の暴走が、そうさせたんだよ」
「……分かってもらえるかな、エアリス」
沈黙が落ちる。
エアリスは、視線を地面に落とし、しばらく何も言わなかった。
怒りが、ゆっくりと、別の感情に変わっていく。
(……私も、そうだった)
自分の意思ではなかった。どうしようもなかった。
エアリスは、静かに息を吐いた。
「……そうだね」
声のトーンが、はっきりと変わる。
「あの時は、私の意思とは関係なく、消えかけちゃったもんね」
エアリスは顔を上げる。
「魔力の暴走って……本当に、色々あるんだね」
一瞬、ソアラを見る。
そして、もう一度ルーメンに視線を戻し、はっきりと言った。
「ルーメンが、そこまで言うなら……分かったよ」
その一言に、ソアラの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「……水に流してあげる」
完全に許したわけじゃない。でも、拒絶でもない。
それが、エアリスなりの精一杯だった。
ソアラは、深く、深く頭を下げる。
「……分かってもらえて、本当にありがとうございます」
そして、もう一度。
「……本当に、ごめんなさい」
二度目の謝罪は、最初のそれとは、重さが違っていた。
許されるための言葉ではない。
責めから逃れるための言葉でもない。
(……もう、言い訳はできない)
ソアラ自身が、それを一番よく分かっていた。
頭を下げたままの視界に、川辺の草と、自分の影が映る。
(全部……壊しかけた)
ルーメンとの時間。エアリスとの関係。ようやく手に入れかけた、居場所。
それらを、自分の手で踏みにじりかけた。
だからこそ、この「水に流してあげる」という言葉が、
どれほど重いか、痛いほど分かる。
エアリスは、腕を組んだまま、少しだけ視線を逸らしていた。
完全に納得したわけじゃない。忘れたわけでもない。
(……でも)
ルーメンの言葉を思い出す。
自分が、どうすることもできなかった、あの日のこと。
(あの時の私も、誰かに救われた)
エアリスは、ふうっと息を吐く。
「……謝罪は、ちゃんと受け取ったから」
ぶっきらぼうな言い方だったが、それが、彼女なりの誠実さだった。
ソアラの肩が、ほんの少しだけ下がる。
「ありがとうございます……」
その声は、泣きそうで、けれど、泣かなかった。
ルーメンは、二人の様子を見つめながら、胸の奥で、静かに息を吐く。
(……よかった)
完全な解決ではない。でも、壊れずに済んだ。
それだけで、今は十分だった。
ここで無理に前へ進めば、また誰かを傷つけてしまう。
沈黙の中で、ルーメンはゆっくりと口を開く。
「……謝罪は、もう十分だよ。ありがとう」
その言葉に、ソアラの背中が小さく揺れた。
「こちらこそ……気づいてあげられなくて、ごめんね」
ルーメン自身の胸にも、かすかな痛みが残っていた。
(もっと早く、違和感に気づいていれば)
そうすれば、ここまで追い詰めることはなかったかもしれない。
「これで、お互い様だ」
俺は「謝罪はもう十分だよ、ありがとう。それよりさ、友達にならない?」
エアリスは「えっ、ルーメン正気?」
即座に返ってきたその声には、驚きと戸惑い、そしてほんの少しの怒りが混じっていた。
無理もない。エアリスは、ソアラの暴走を間近で見ている。ルーメン自身の命が危険に晒されたことも、誰よりも理解している。
俺は視線を逸らさず、落ち着いて言葉を選んだ。
「ソアラの家庭環境を知っているだろう」
エアリスの表情が、わずかに揺れる。
「魔力暴走状態を引き起こさないためにも、頼れる人が必要なんだよ」
これは同情ではない。経験から来る、現実的な判断だった。
「僕がエアリスを助けたあと、エアリスと僕は、お互いを助け合う友達になったじゃないか」
あの時を思い出す。
消えかけていたエアリスの手を必死に掴み、魔力を流し込み、ただ助けたい一心で動いた、あの瞬間。
「それと同じなんだよ」
言葉を区切り、エアリスの目を見る。
「エアリスなら、分かってくれるよね」
さらに続ける。
「それに、こんなに長い間、色々なことを築き上げてきた」
魔術の訓練、日々の積み重ね、少しずつ形になってきた人間関係。
それらを、恐怖だけで切り捨ててしまうのは、あまりにも惜しい。
「それを無駄になんて、したくないんだ」
しばらくの沈黙のあと、エアリスは小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……そうだね、ルーメン」
その声は、もう怒りを帯びていなかった。
「ルーメンの言う通りだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ソアラの表情が一変した。
驚き、戸惑い、そして、抑えきれない喜び。
「本当ですか?」
声が、少し震えている。
「こんな私と友達になってもらえるなんて、夢みたいです」
何度も、何度も頷きながら、ソアラは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、顔を上げ、覚悟を決めたように続ける。
「じゃあ、友達として、よろしくお願いします」
そう言って、ソアラは俺に向かって右手を差し出してきた。
その瞬間、脳裏に、ひとつの言葉がよぎる。
……マナドレイン。
反射的に、身体が強張った。
かつての経験が、無意識に警鐘を鳴らす。
だが、俺はゆっくりと息を整え、差し出された手を見る。
怯えも、企みもない。ただ、まっすぐな視線。
俺は躊躇いながらも、ゆっくりと右手を伸ばし、握手を交わした。
普通の握手だった。
指先から伝わってくる魔力に、異常はない。流れは穏やかで、引き込まれる感覚もない。
(……大丈夫だ)
魔力は正常。暴走状態にはない。
そう判断した、その時だった。
横から、鋭い声が飛んでくる。
「ちょっと、握手長いんじゃない」
エアリスだった。
思わず我に返り、慌てて手を離す。
「あ、ああ、ごめん」
ソアラも少し慌てた様子で手を引っ込めた。
そのあと、エアリスとも軽く握手を交わす。
ぎこちないが、確かにそこには「友達としての始まり」があった。
川辺の空気は、まだ完全に澄んではいない。
それでも、確かに一歩だけ、前に進んだ、そんな感触が残っていた。
ソアラは顔を上げ、今度ははっきりとした声で続ける。
「ルーメン君、エアリスちゃん、ミリィちゃんのおかげで……」
その言葉に、ルーメンの胸がわずかに熱くなる。
「私は、家事と弟の面倒をみる、貧しい家庭環境の中で……」
言葉を紡ぐたび、これまでの時間が、一つずつ整理されていく。
「自由な時間もなく生きてきたことから、救い出してもらえました」
それは感謝であり、区切りだった。
「そして、こんな私に……親切に、丁寧に、魔術を教えてくれて、ありがとう」
ソアラの声は、ここで少しだけ揺れた。
(……もう、届かなくなるんだ)
そう思ってしまう自分を、彼女は必死に押さえ込んでいる。
「ルーメン君とエアリスちゃんには、迷惑かけちゃって……ごめんなさい」
その言葉は、もう謝罪というより、別れの挨拶に近かった。
「私は……学院に進学します」
はっきりと、前を見る声。
「みんなも、進学してきてね」
未来の話を、“一緒の時間”として語らない選択。
「そしたら、その時は……色々と、学院のことを教えてあげられるから」
ルーメンは、その言葉に静かに頷く。
(……ちゃんと、前を向いてる)
エアリスも、その横顔を見ていた。
ソアラは一瞬、言葉を探すように間を置く。
「ルーメン君」
名前を呼ぶ声は、柔らかい。
「エアリスちゃんのことを……大切にしてあげてね」
その一言に、空気が、そっと温度を変えた。
エアリスは一瞬、言葉を失う。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
ルーメンは、少し照れたように笑いながら答えた。
「もちろんだよ」
その声は、迷いのないものだった。
「これからも、よろしくね」
ソアラは、その言葉を胸の奥にしまい込む。
(……これでいい)
そう、自分に言い聞かせるように。
三人は、ゆっくりと川辺を離れた。
背中合わせの別れではない。
同じ方向を向いて、少しずつ距離ができる別れ。
それは、痛みを伴いながらも、確かな“前進”だった。




