ソアラ編 第四十九章 夢と救い④ 覚醒
「……エアリス……?」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
喉が乾いている。身体が、重い。
けれど、意識は、はっきりしていた。
視界の中心にあるのは、心配そうにこちらを覗き込む、エアリスの顔。
「ルーメン……本当に、よかった……」
その声は震えていて、泣きそうなのを必死にこらえているのが分かる。
「……僕……」
言葉を探そうとして、頭の奥に、鈍い痛みが走った。
ズキリ、と。まるで、何かが最後の抵抗をしているみたいに。
「……いたっ」
「無理しないで」
エアリスはすぐにそう言って、そっとルーメンの肩を支える。
その手から伝わってくる感覚で、ようやく気づく。
魔力だ。自分の内側に、エアリスの魔力が、ゆっくりと流れ込んでいる。
冷たくない。荒くもない。風属性特有の、澄んだ感触。
それが、乾き切った器に水を注ぐように、少しずつ、少しずつ満たされていく。
(……だから、目が覚めたのか)
「……ソアラは……?」
ようやく口にできた問い。
エアリスは、一瞬だけ視線を逸らし、それから、静かに答えた。
「……いなくなった」
「逃げた、って言ったほうが近いかな」
その言葉で、頭の中に、断片が浮かび上がる。
知らない家。温かい食卓。幸せだと感じていた自分。
そして、魔力が、凄い勢いで引き抜かれていく感覚。
(……あれは……)
喉の奥が、ひりついた。
エアリスは、続ける。
「ルーメン、体調悪そうだったから……心配で、様子を見に来たんだ」
「そしたら……」
言葉を選ぶように、一度息を吸う。
「ルーメン、ソアラの膝枕で寝てた」
その一言で、胸の奥が、きゅっと縮む。
「起きなかった」
「声をかけても、揺すっても」
「それで……おかしいと思った」
エアリスは、ルーメンの胸元に、そっと手を当てる。
「……魔力が、ほとんど感じられなかったから」
その瞬間、全てが一本の線で繋がった。
(……だから、疲れなかった)
(……だから、違和感が消えてた)
魔力が、外に流れ続けていた。
自分でも気づかないうちに。
拒否する余地もないまま。
「それで……ソアラから、すごく強い魔力を感じた」
エアリスの声に、怒りが滲む。
「流れを見れば、分かる」
「ルーメンの魔力が、全部……あの人に流れ込んでた」
ルーメンは、ゆっくりと目を閉じた。
夢の中で感じた、あの異様な幸福感。
頭痛と引き換えに、思考が溶けていく感覚。
(……あれは……)
答えは、もう、はっきりしている。
「……吸われてたんだ……僕の魔力……」
言葉にした瞬間、エアリスは、強く頷いた。
「うん」
「……マナドレインだな」
その単語が、静かに、しかし確実に落ちた。
(……だから……)
(……夢の中に、閉じ込められてた……)
理解した途端、背筋が、冷えた。
「……助けてくれて、ありがとう」
ルーメンの言葉に、エアリスは、少しだけ困ったように笑う。
「……当たり前でしょ」
その声は、優しい。
けれど、その奥には、“失うかもしれなかった”恐怖が、まだ残っていた。
風は、もう吹いていない。
だが、この出来事は、終わっていない。
エアリスの魔力が、ゆっくりと、しかし確実に体内を巡っていく。
空っぽだったはずの内側に、風が通り抜けるような感覚。
冷たさはない。ただ、澄んでいて、まっすぐだ。
「……まだ、全部は戻ってない」
エアリスは、そう言って眉を寄せた。
「でも、これ以上流したら逆に危ない」
「今は……目を覚ましてくれただけで、十分」
ルーメンは、静かに頷いた。
身体は重い。魔力の感覚も、いつもの半分以下だ。
けれど“自分”は、ここに戻ってきている。
それだけで、胸の奥に、確かな実感があった。
「……エアリス」
名前を呼ぶと、彼女はすぐに顔を上げた。
「……ありがとう」
たったそれだけの言葉。
けれど、エアリスは一瞬、目を丸くしてから、少しだけ視線を逸らした。
「……うん」
「それでいい」
その声は、泣きそうなのを、もう隠していなかった。
少しの沈黙のあと、エアリスは、ぽつりと続ける。
「……本当は、すごく怖かった」
「このまま……ルーメンが起きなかったら、って」
風属性の魔術師として、常に冷静でいようとする彼女が、ここまで感情を見せるのは、珍しい。
「だから……勝手に、身体が動いた」
「考えるより先に、魔術をぶつけてた」
ウインドカッター。何度も、何度も。
自分を守るためじゃない。
“取り戻すため”の魔術。
ルーメンは、ゆっくりと上体を起こす。
「……ソアラは……」
問いかけると、エアリスは少しだけ間を置いて答えた。
「……逃げた」
「でも、あの状態じゃ……長くはもたないと思う」
魔力を強引に吸い上げた反動。
調律を失った魔力の流れ。
それが何を意味するかは、二人とも理解していた。
「……家まで、送っていく?」
エアリスのその言葉に、ルーメンは首を横に振った。
「……今日は、帰ろう、家に」
今は、それ以上の選択をする余裕がなかった。
エアリスは、黙って頷き、そっと肩を貸してくれる。
帰り道の風景は、いつもと同じはずなのに、やけに現実味があった。
石の感触。草の匂い。空の色。夢じゃない。
家に着くと、家族はすぐに異変に気づいた。
「顔色が悪いわよ」
「大丈夫なの?」
心配の声に、ルーメンは曖昧に笑って答える。
「……ちょっと、疲れただけ」
その日は、何も考えず、ただ、眠った。
深く。何も見ない眠り。




