ソアラ編 第四十九章 夢と救い② 崩壊の兆し
最初は、気のせいだと思った。
家の中は静かで、暖かく、何ひとつ乱れていない。
床に落ちる影も、壁の色も、すべてが整っている。
それでも、空気だけが、わずかに動いた。
(……風?)
食卓の上の湯気が、ほんの一瞬だけ揺れた。
揺れた気がした、という曖昧な感覚。
けれど、その違和感は、確かに残る。
ルーメンは無意識に、窓のほうを見た。
閉まっている。鍵も、掛かっている。
カーテンも、ぴたりと動いていない。
(……おかしい)
頭の奥が、また脈打つ。
今度の痛みは、はっきりしていた。
幸福の底から、突き上げるような痛み。
「どうしたの?」
ソアラの声が、すぐ横から届く。
心配そうで、けれど少しだけ――焦りを含んだ声音。
「……いや、今、風が」
そう言いかけた瞬間、ソアラは、穏やかに首を振った。
「風なんて、吹いてないわ」
その声は、迷いがない。
確認する必要もない、というように。
「見て?」
そう言って、彼女は部屋をぐるりと示す。
椅子も、皿も、何も揺れていない。
確かに、目に見える異変はどこにもない。
「ね? 何も変じゃないでしょう」
微笑みながら、そう言う。
(……確かに)
視覚は、そう告げている。
理屈も、そうだと言っている。
それでも、胸の奥で、否定しきれない感覚が、静かに残っていた。
風は、あった。
目に見えなくても、音も立てなくても、“外側から”何かが触れた感触。
その直後だった。
今度は、はっきりと。
ふわり。空気が、撫でるように動いた。肌に触れる、冷たい感覚。
(……今のは)
ソアラの表情が、一瞬だけ強張る。
だが、それはすぐに消え、優しい笑顔が貼りつく。
「疲れてるのよ、ルーメン」
ゆっくりと、諭すように。
「無理に考えなくていいの。ここは安全だし、誰も邪魔しない」
その言葉は、“考えること”そのものを、手放させるための言葉だった。
「ベッドで少し休みましょう」
彼女は立ち上がり、自然な動作で、こちらに手を差し出す。
(……休めば)
(また、楽になる)
そう思った瞬間、頭痛が、すっと弱まった。
幸福が、再び濃くなる。
だが、その幸福の奥で、風は、確かに強くなっていた。
見えないはずの風が、この夢の“外側”から、何度も、何度も、叩いている。
ベッドへ向かう途中、ルーメンの足取りは、わずかに遅れた。
理由は分からない。ただ、胸の奥が、ざわついている。
幸福は、まだそこにある。
ソアラの声も、手の温もりも、優しい。
それなのに。
(……何か、聞こえた気がする)
最初は、幻聴だと思った。
風の音に紛れた、ただの錯覚。
けれど。
……「ルーメン」
微かに。本当に、遠くから。
名前を呼ぶ声。
(……今のは)
立ち止まった瞬間、頭痛が、鋭く走った。
「どうしたの?」
ソアラが、振り返る。
さっきよりも、少しだけ距離が近い。
「……今、誰か……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
ソアラは、困ったように微笑んだ。
「声なんて、聞こえないわ。ね? 静かでしょう」
彼女は耳元に手を当て、何もないことを示す仕草をする。
確かに、家の中は、静まり返っている。
食器の音もない。床板の軋みもない。
(……でも)
今度は、はっきりと聞こえた。
……「ルーメン、起きて」
声は、少し近い。
空気が、揺れる。カーテンが、かすかに波打った。
思わず、視線が窓へ向かう。
閉まっている。やはり、開いていない。
「ルーメン?」
ソアラの声が、低くなる。
「どこを見てるの?」
その言葉には、先ほどまでなかった硬さがあった。
「……風が」
「風なんて、吹いてない」
語気が、わずかに強い。
「見て。何も揺れてないでしょう?」
ソアラは、ルーメンの肩に手を置く。
しっかりと、逃がさないように。
その瞬間、頭の奥で、何かが軋んだ。
幸福が、重くなる。
(……おかしい)
幸せなはずなのに、楽なはずなのに。
「きっと、疲れてるのよ」
優しい声に戻り、ソアラは囁く。
「今日はゆっくり休みましょう。
あなたは、もう頑張らなくていい」
その言葉は、“外を見なくていい”という命令にも聞こえた。
……「ルーメン!」
今度は、はっきりと。
声は、近い。焦りを帯びている。
(……エアリス?)
名前が浮かんだ瞬間、頭痛が、激しくなった。
視界が、わずかに歪む。
床が揺れたように見え、壁の輪郭が、ほんの一瞬だけ崩れた。
「……違う」
ソアラの声が、強く響く。
「そんな声、聞こえない。ここには、私たちしかいないの」
彼女は、両手でルーメンの顔を包む。
逃がさない。視線を、固定する。
「ね? 大丈夫でしょう」
その目は、必死だった。
(……壊れかけてる)
ルーメンは、ぼんやりと理解する。
この夢は、完璧ではない。
外から、誰かが、叩いている。
そして、それを必死に否定している存在が、目の前にいる。
ソアラに導かれるまま、ベッドへ向かう。
その途中、空気が、さらに強く流れた。
夢の輪郭が、軋む音を立てる。




