ソアラ編 第四十九章 夢と救い① 精神の殻
第四十九章 夢と救い
知らない家、満たされた日常
目を開けた瞬間、ルーメンは「家」だと思った。
天井は低く、木目は柔らかく、差し込む光は朝のそれに近い。知らないはずの場所なのに、違和感は薄く、胸の奥に落ち着いた温度だけが広がっていく。
「起きた?」
台所のほうから、声がした。
振り向くと、ソアラが立っている。エプロン姿で、髪は軽くまとめられ、朝の支度をしていたかのような自然さがある。
「あなた、仕事で疲れたの? よく寝てたみたいね。起こしても起きなかったから」
“あなた”。その呼び方が、耳にすっと馴染んだことに、ルーメンは小さく戸惑った。
「お腹空いたでしょ。今日は、あなたの好きなメニューよ。一緒に食べましょう」
微笑みながら言われ、ルーメンは立ち上がろうとして、額の奥に鋭い痛みを感じた。
ずきり、と、はっきりした痛み。だが、身体は動く。
(……頭が、痛い?)
理由を考える前に、足は食卓へ向かっていた。
まるで、そこに行くのが当然であるかのように。
テーブルには温かい料理が並んでいる。見覚えのある味、好みの香り。
ソアラは楽しげに話し続け、ルーメンは笑顔で相槌を打っていた。言葉の内容がすべて頭に残っているわけではない。それでも、不思議と心地いい。
(……ここは、どこだ?)
疑問は浮かぶ。だが、その疑問は、すぐに溶けていく。
暖かい。満たされている。守られている。
ソアラの声が、空間そのものを包み込む。彼女は今日あった些細な出来事を話し、家族のことを語り、未来の話へと自然に話題を移していく。
「母にね、そろそろ孫の顔が見たいって言われてるの」
照れたように笑いながら、けれどどこか真剣な目で続ける。
「あなたも、だいぶ仕事が落ち着いてきたでしょう? そろそろ家族を作ること、考えていきましょう」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温まる。
頭の痛みは、まだ消えない。だが、それすらも遠く感じられた。
「あなたには、ずっとお世話になりっぱなしだから。今度は、私があなたを幸せにしてあげたいの」
ソアラは迷いなく言う。
「私は小さい頃から、家事も育児もしてきたから。安心して。ずっと、あなたを支えていくわ」
その瞬間、ルーメンの中で何かがほどけた。考える必要はない。疑う理由もない。
……ああ、ここに、いたい。ここに、いればいい。
頭の奥で、まだ小さく、鋭い痛みが残っている。
それは、何かを訴えるように、何度も脈打っている。
けれど、その痛みさえ、幸福の輪郭の中へ、ゆっくりと溶け込んでいった。
……なんて、幸せなんだ。そう思った瞬間、夢は、より深く、静かに、ルーメンを包み込んだ。
食卓での時間は、ゆっくりと流れていた。
会話は途切れず、沈黙さえも心地いい。
笑えば笑顔が返り、何気ない一言に、ささやかな幸せが積み重なっていく。
ソアラはよく動いた。
皿を片付け、湯気の立つ飲み物を差し出し、こちらの様子を気遣う。
そのすべてが自然で、長年一緒に暮らしてきたかのような距離感だった。
「無理しなくていいのよ」
そう言って、ルーメンの前に椅子を引く仕草も、肩に触れる指先の温度も、どこにも引っかかりがない。
(……本当に)
(ずっと、こうだった気がする)
記憶を辿ろうとすると、なぜか曖昧になる。
昨日はどうだったのか。その前は。ここに来る前は。
考えようとした瞬間、頭の奥で、また鋭い痛みが走った。
ずきり、と。
今度は、先ほどよりもはっきりと。
「……いたっ」
思わず眉をひそめると、ソアラがすぐに気づいた。
「大丈夫?」
心配そうな声。不安ではなく、確信のある優しさ。
「疲れが残ってるのよ。最近、頑張りすぎたんでしょう」
そう言って、何も疑わずに理由を与えてくる。
その言葉は、痛みの原因を“説明”し、疑問を閉じる。
(……そうか)
(疲れてただけ、か)
そう思った瞬間、痛みは、少しだけ遠のいた。
代わりに、胸の奥に広がるものがある。
安心感。満足感。そして、抗いがたい幸福。
ソアラの声が、空間に満ちる。
未来の話。穏やかな日々。変わらない毎日。
「ここにいればいいのよ」
その言葉は、命令ではない。願いでもなく、強制でもない。事実のように、語られる。
(……そうだ)
(ここにいれば)
(もう、何も考えなくていい)
思考が、ゆっくりと丸くなっていく。
尖った疑問や、違和感は、角を失って溶けていく。
頭痛だけが、最後まで残っていた。
それは、幸福の底で、必死に何かを伝えようとしているような痛みだった。
だが、その声は、あまりにも小さい。
幸福は、甘く、温かく、そして、中毒性があった。
(……もう、いいか)
(受け入れてしまっても)
そう思いかけた、その時。
部屋の空気が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。カーテンも、食器も、何も動いていないのに、確かに“揺らいだ”感覚だけが残る。
ルーメンは顔を上げた。
(……今のは?)
だが、ソアラは気づいた様子もなく、
穏やかな笑みを浮かべたまま、話を続けている。幸福は、まだ壊れていない。




