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ソアラ編 第四十八章 ブライトヒーリングの繰り返し⓻ 感情の崩壊

ルーメンの言葉が、川辺に落ちてから、ほんの数秒、ソアラは、何も言わなかった。

ただ、その場に立ち尽くし、唇をわずかに開いたまま、まるで言葉の意味を一つずつ拾い集めているかのように、視線を彷徨わせていた。


次の瞬間。ぽろり、と。涙が一粒、頬を伝った。

それを皮切りに、堰を切ったように感情が溢れ出す。

喉が鳴り、声にならない息が漏れる。

肩が震え、指先が力を失ったように垂れ下がる。


「……だって……」

かすれた声が、ようやく形になる。


「だって……ルーメン君は……」

言葉は続かない。続けられない。

代わりに、涙だけが増えていく。

ソアラは、両手で顔を覆った。

指の隙間から、零れ落ちる雫が止まらない。


「……こんな……」

声が、震えながら、砕ける。


「こんな私のために……」

呼吸が乱れ、言葉と一緒に、嗚咽が混じる。


「……一生懸命に、なってくれて……」

「母や……弟たちのことも……」

「全部……解決してくれて……」

ソアラは、首を振った。

否定するように。現実を振り払うように。


「魔術も……一生懸命、教えてくれて……」

その言葉の端々に、

これまで積み重なってきた時間が滲む。


「……こんなに……」

「こんなに、されたら……!」

顔を上げる。涙に濡れた瞳が、まっすぐにルーメンを捉える。逃げ場のない視線。


「……好きに、ならずには……」

「……いられないじゃないですか……!」

それは、取り繕うことをやめた叫びだった。

理屈も、未来も、全部振り払った、むき出しの感情。

ソアラの胸の内に溜まり続けていたものが、一気に外へ溢れ出していく。

涙は止まらない。嗚咽も止まらない。


「……っ、……っ……」

言葉にならない声が、川の音にかき消されながらも、確かにそこに存在していた。

ルーメンは、動けなかった。

慰めることも、抱きしめることも、否定することもできない。

目の前で崩れていく感情が、あまりにも真剣で、あまりにも必死だったからだ。


(……これは)

(ただの告白じゃない)

ソアラは、“失うこと”そのものを、拒絶している。

幸せだった時間。救われた現実。初めて手に入れた希望。

それらすべてを、未来という言葉で切り捨てられることに、耐えられなかった。

そして、その拒絶こそが、この世界を、同じ一日に縛りつけている。

まだ、ソアラは縋りついていない。

だが、感情はすでに、その一歩手前まで来ていた。



ソアラの呼吸は、すでに整っていなかった。吸うたびに喉が鳴り、吐くたびに声が震える。

涙に濡れた視界のまま、それでも彼女は、ルーメンから目を逸らさなかった。

逃げてしまえば、この言葉は、二度と口にできないと知っているかのように。


「……嫌です……」

はっきりとした拒絶だった。

けれど、その声は強くない。

むしろ、壊れそうなほど弱い。


「……ルーメン君と一緒に過ごして……」

言葉の途中で、喉が詰まる。

一度、息を吸い直し、

それでも涙は止まらない。


「……楽しい日々が……」

声が、震えながら、上ずる。


「……送りたいんです……」

それは願いだった。

要求でも、脅しでもない。


ただ、“そうであってほしい”という、

切実な祈り。

ソアラは、両手を胸の前で握りしめる。

指先が白くなるほど、力を込めて。


「……こんな……不遇な私に……」

言葉が、次第に早くなる。


「……ちょっとぐらい……」

涙を拭うこともせず、

顔を歪めたまま、叫ぶように言った。


「……楽しくて……」

声が割れる。


「……幸せな夢を……!」

胸の奥に溜まっていたものが、一気に外へ溢れ出す。


「……見させてくれても……!」

息が詰まり、それでも言葉は止まらない。


「……いいじゃないですか……!」

感情が、完全に制御を失っていた。


「……こんなに……」

過去が、言葉に混じる。


「……窮屈な生活を……」

母の顔。弟たちの背中。終わりの見えない責任。


「……強いられてきたんだから……!」

声は、もはや泣き叫びに近い。


「……ちょっとぐらい……!」

喉が裂けそうになる。


「……いいじゃないですか……!」

最後の言葉は、ほとんど嗚咽だった。


川の音が、遠くに引いていく。

世界が、二人の周囲だけを切り取ったかのように、静まり返る。


ソアラは、ついに一歩踏み出した。

距離が、詰まる。

もう、言葉では足りなかった。

理屈も、未来も、すべてが意味を失っている。


「……お願い……」

声は小さく、だが、はっきりと耳に届いた。


「……行かないで……」

縋るような視線。縋るような声。

それは、ルーメン個人に向けられたもののはずだった。

だが、その奥にある感情は、もっと深く、もっと危うい。


(……違う)

ルーメンの胸に、はっきりとした警鐘が鳴る。


(これは……“想い”じゃない)

“失う恐怖”だ。“終わること”そのものへの拒絶。

この一日が、この時間が、ここで止まってしまえばいいという、無意識の願望。

それが形を持ち始めている。

ソアラは、泣き崩れながらも、それでも、立っていた。

折れていない。壊れていない。

ただ、縋りつく場所を、必死に探している。


次に交わされる言葉が、この世界の行方を決める。

ルーメンは、その重さを、はっきりと感じていた。

ここで間違えれば、もう戻れない。

川の流れが、不自然なほど静かに聞こえた。

時間が、張りつめた糸のように、今にも切れそうに伸びている。

この先に待つのは、救済か、それとも、閉塞か。

それを選ぶ瞬間が、すぐそこまで来ていた。



泣き崩れたままのソアラを前に、ルーメンは、すぐには言葉を返せなかった。

胸の奥で、いくつもの思考が衝突している。彼女の事情。彼女の想い。

そして、この世界が繰り返されているという、動かしようのない事実。


(……落ち着かせないと)

今、必要なのは拒絶でも説得でもない。

“暴走”している感情を、元の流れへ戻すこと。

ルーメンは、深く息を吸い、声の調子を意識的に落とした。


「……ソアラさん」

名前を呼ぶだけで、彼女の肩が、びくりと震える。


「気持ちは、ちゃんと伝わった」

否定しない。遮らない。


「こんなに長い時間、一緒にやってきたんだ。そういう気持ちになるのも……無理はない」

その言葉に、ソアラは顔を上げた。

期待と不安が入り混じった視線。


「でも、ソアラさんには、ソアラさんの未来がある。学校を出て、働いて、家に仕送りをして……前を向いて、進んでいかなきゃいけない」

一つ一つ、丁寧に。

刃物のようにならないように、

それでも、誤魔化さないように。


「下を向いてもいい。立ち止まってもいい。でも……前に進まなきゃいけない」

ソアラの表情が、ゆっくりと崩れていく。

涙が、また溢れ出す。


「……分かりました……」

声は、かすれていた。


「……ルーメン君の気持ちは……」

一度、言葉を切り、震える息を整える。


「……分かりました」

その言い方が、あまりにも静かで、逆に不安を掻き立てた。

ソアラは、涙を拭いもせず、それでも、ぎこちなく笑おうとした。


「じゃあ……」

ゆっくりと、一歩、前に出る。


「良き友達として……」

その言葉に、ルーメンの意識が研ぎ澄まされる。


「……握手、してください」

差し出された右手。

その仕草は、礼儀正しく、あまりにも“普通”だった。


このタイミングだ。今しかない、握手と同時にハーモニック・リコンストラクションをかけよう、おそらく魔力暴走状態になっている。

今ここで、鎮めなければならない。

そう思いながら、ルーメンは、同じように手を差し出す。

すぐに魔力の流れしこんで、ミリィの魔力に沿わせて調律する。

もう、大丈夫だ。そう思い。


指先が触れた瞬間、一気に世界が、反転した。


身体の奥底から、何かが引き抜かれる感覚。

血が逆流するような、内側から崩れるような感覚。

「――っ!」

声にならない声が、喉で潰れる。


魔力が、流れているのではない。

奪われている。

しかも、抵抗する余地もなく、

“根こそぎ”。

(……まさ、か……)


思考が、そこで途切れた。

足元が揺れ、視界が暗転する。

川の音も、風の気配も、すべてが遠ざかっていく。

最後に見えたのは、ソアラの、顔。泣いていなかった。

そこにあったのは、悲しみでも、混乱でもない。

静かで、確信に満ちた、“決断”の表情。

(……完全に……意表を……)


そこまで考えたところで、意識は、闇に沈んだ。

ルーメンの身体は、その場に崩れ落ちる。

草の上に、力なく倒れ伏す。

握られた手だけが、まだ、離れていなかった。


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