ソアラ編 第四十八章 ブライトヒーリングの繰り返し⑥ ソアラの気持ち
沈黙は、思っていたよりも長く続いた。
川の流れる音が、やけに大きく聞こえる。
風が草を揺らし、葉が擦れ合う音が、間を埋めるように重なった。
ソアラは、すぐに首を傾げるでもなく、驚いた声を上げるでもなく、ただ、ルーメンを見つめていた。
「……休む、んですか?」
問い返す声は、静かだった。責める色も、不満も、まだ混じっていない。
「うん」
ルーメンは短く答え、そのまま近くの木に背を預ける。
幹はひんやりとしていて、朝からの緊張を、少しだけ吸い取ってくれる。
「今日は、魔術じゃなくて……」
言葉を選びながら、続けた。
「ゆっくり話でもしよう」
それは、提案というよりも、決意に近い口調だった。
ソアラは、一瞬だけ目を伏せる。
その睫毛が影を落とす仕草すら、これまでと変わらないはずなのに、どこか、意味を持って見えてしまう。
「……何の、話ですか?」
問いは穏やかだ。
だが、その奥に、“想定外”に対する警戒が、わずかに滲んでいる。
ルーメンは、川の方へ視線を向けた。
流れる水は、何度見ても同じだ。
けれど、触れれば、決して同じ形を保ってはいない。
「ソアラのことを、もっと知りたい」
そう言ってから、自分でも驚くほど、胸の奥が静まっていることに気づく。
焦りはない。逃げ場を探す思考もない。
ただ、ここに立って、向き合う覚悟だけがある。
「二人じゃないと、話せないこともあるだろうし」
ソアラは、少しだけ間を置いてから、小さく息を吐いた。
「……そう、ですね」
拒否ではない。肯定とも、言い切れない。
けれど、その場を離れようとはしなかった。
彼女も、近くの石に腰を下ろす。いつもの“練習の配置”とは違う位置。
それだけで、空気が微かに変わる。
教える側と教わる側。指導と実践。その線が、曖昧になる。
川辺に、ただ二人の時間が落ちる。
「……ルーメン君」
ソアラが口を開く。
その声は、いつもより、少しだけ低かった。
魔術も、詠唱もない。発動も、疲労もない。
それでも、この瞬間のほうが、これまでのどんな練習よりも、“張り詰めている”と感じてしまう。
ルーメンは、目を逸らさずに答えた。
「うん」
ここから先は、魔術では解けない。
繰り返される一日の“核”に、言葉で触れる時間が、始まろうとしていた。
ソアラは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、
そして逃げ場を断つように、まっすぐこちらを見た。
「ルーメン君って本当に優しいですよね、こんな貧しいわたしを救ってくれて、」
その言葉が発せられた瞬間、ルーメンの胸の奥で、鈍い音がした。
(……また、その言葉だ)
優しい。救ってくれた。
それは、感謝の言葉のはずなのに、なぜか、肩に重さとして乗る。
(俺は……そんなつもりでやったわけじゃない)
助けたという自覚はある。
だが、「救った」と言われるほどのことをした覚えはない。
それでも、彼女の人生の重さが、その一言に凝縮されていることだけは、否定できなかった。
「私が魔術を教えて欲しいって言っておきながら、私は家事に弟たちの面倒に全然時間さえ作ることが出来ませんでした。」
ソアラ自身への“裁き”の言葉だった。
ルーメンは、思い出す。
朝から晩まで動き続ける彼女の姿。洗濯物。食事。弟たちの世話。
魔術の練習に来るときでさえ、どこか申し訳なさそうにしていた背中。
(時間がなかったんじゃない)
(時間を、生きるために全部使ってただけだ)
彼女は怠けていなかった。ただ、生きることに追われていただけだった。
「それでもルーメン君は諦めずに私の辛い環境から救い出してくれました。」
諦めなかった。
その言葉に、ルーメンはわずかに息を詰める。
(……諦める、って発想すらなかった)
続けるのが当たり前だと思っていた。
できるようになるまで、付き合うのが当然だと。
だが、彼女にとってそれは、「例外」だった。
諦められる側の人生。途中で見放される側の世界。
その中で、「諦められなかった」こと自体が、救済になってしまった。
「本当にルーメン君は優しいんだなって、私の心には1つの明るい希望の光がてらされたんですよ。」
希望。その単語が、この場にはあまりにも重い。ルーメンは、無意識に拳を握っていた。
(俺は……光になったつもりなんて、なかった)
けれど、彼女の世界が暗かったことだけは、否定できない。
暗闇の中に灯った、たった一つの光。
それが自分だったとしたら、消えていい存在では、もうなくなってしまう。
「そして、だめな私をこんなに魔術ができるようにしてくれて、本当に惚れ惚れです。」
“だめな私”。
その言い方に、ルーメンの胸が、わずかに締め付けられる。
(だめなんかじゃない)
才能がないわけでもない。努力を怠ったわけでもない。
だが、彼女自身がそう思い込んで生きてきた時間は、あまりにも長すぎた。
だからこそ、「できるようになった自分」を与えた存在が、特別になってしまう。
それが、“惚れ惚れする”という言葉に、自然につながってしまう理由だった。
「私、今、人生の中で一番幸せな時間を過ごせています。」
その言葉は、静かで、穏やかで、だからこそ、残酷だった。
(……一番、なんだ)
過去も。これからも含めて。
“今”が、彼女の人生の頂点だと言われている。
ルーメンは、それを否定する言葉を、持たなかった。
「ルーメン君とのこんな幸せな日々がずっと終わらなければいいのにって、」
ここで、ルーメンは、はっきりと理解する。
この世界が、終わらない理由。
終わらせたくない、という願い。
ただそれだけで、時間が縛られてしまうほどの想い。
それは、誰かを傷つけるための願いではない。
けれど、世界を止めるには、十分すぎた。
「ルーメン君が私の傍にいてくれたら、私、きっともっと幸せになれると思うんです。」
最後の言葉は、祈りだった。
独占でも、支配でもない。
ただ、「傍にいてほしい」という、あまりにも人間的な願い。
ルーメンは、その願いを、拒絶できなかった。
同時に、受け入れてはいけないことも、もう分かっていた。
ソアラの言葉が、川辺の空気に溶けきるまで、ルーメンはしばらく黙っていた。
川の流れは変わらない。
風も、光も、時間も、何もかもが、いつも通りにそこにある。
けれど、自分の胸の内だけが、はっきりと“分岐点”に立っていることを告げていた。
(……ここで、言わなければ)
逃げることもできた。曖昧に笑って、話を流すこともできた。
だが、それを選べば、この一日は、また繰り返される。
ルーメンは、ゆっくりと息を吸い、感情を押し殺すのではなく、整えるようにしてから、口を開いた。
「ソアラさんの気持ちは……よく分かりました」
その言葉は、嘘ではなかった。
理解しているからこそ、胸が痛む。
「こんなに長い時間、色々一緒にやってきたんだから……そういう気持ちになることも、分かります」
ソアラの肩が、わずかに震えたのが見えた。
肯定された。否定されなかった。
だからこそ、次の言葉が来る。
「でも……」
その一言で、空気が変わる。
ルーメンは、視線を逸らさずに続けた。
「ソアラさんは、学院に行って、ちゃんと学んで、良い職業について……家に、仕送りをしないといけない」
それは、現実だった。
「前を向いて……下を向いててもいいです」
言いながら、“優しい言い方”を選んでいる自分に気づく。
それでも、言葉の刃は、確実に形を持つ。
「とにかく、前に進まないといけないって、思うんです」
ソアラの目に、涙が溜まっていく。
ルーメンは、そこで言葉を止めなかった。
止めてしまえば、自分が逃げたことになる。
「ソアラさんの気持ちは、分かりました」
一度、肯定し。
「でも……お互いに、お互いの未来があるんです」
そこで、わずかに間を置く。
逃げ道を与えないための、静かな間。
「……分かってもらえますか?」
その問いは、お願いの形をしていながら、実質的には“拒絶”だった。
優しさで包み、逃げ場をなくす。
ルーメン自身、それが“刃”であることを、自覚していた。
(……残酷だな、俺)
でも、ここで甘さを残せば、彼女は前に進めない。
いや、この世界そのものが、進めなくなる。
ルーメンは、自分が選んだ言葉の重さを、はっきりと受け止めていた。
そしてこの返答が、ソアラの心を“守る”のではなく、“壊す”方向へ向かうことも、この時点で、もう分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
ここから先は、引き返せない。
次に来るのは、理性では抑えきれない感情の崩壊。
そして、この反復が生まれた、本当の理由。




