ソアラ編 第四十八章 ブライトヒーリングの繰り返し② 疲労感のない魔術特訓
川のせせらぎが、一定の間隔で耳に届く。
水面は穏やかで、先ほどまで何度も生まれては消えていった癒しの光の余韻を、まだ薄く抱え込んでいるようだった。
十回目の発動を終えたあと、ソアラはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
肩で息をしながら、両手を胸の前で軽く握りしめている。
悔しさと、諦めきれなさと、そして「まだ届いていない」という自覚。
それらが混ざり合った沈黙だった。
やがて、ソアラは顔を上げる。
その視線は、迷いながらもまっすぐにルーメンへ向けられていた。
「……上位になると、こんなに難しいんですね」
声は静かだった。だが、投げ出す響きはない。むしろ、答えを求める音だった。
「足りないところとか……発動のときの魔力の流れで、何か感じたことがあったら、教えてください」
その言葉を聞いた瞬間、ルーメンは一拍だけ間を置いた。
この問いは、軽くない。
「上位魔術が難しい」という感想ではない。
「できなかった理由を知りたい」という、踏み込んだ問いだ。
ルーメンは、ソアラのこれまでを思い返す。貧しさ。家事。弟たちの世話。時間すら削られながら、それでも積み上げてきた魔術の感覚。
だからこそ、言葉を選ぶ。
「……そうだね」
穏やかに、けれど誤魔化さず。
「まず一つ。魔力の流れ自体は、もうかなり正確だ」
それは事実だった。
詠唱は安定し、流れも乱れていない。
キュアヒーリングの延長としては、すでに合格点に近い。
ソアラの表情が、わずかに明るくなる。
「でも」
その一言で、再び引き締まる。
「上位になると、そこだけじゃ足りない」
ルーメンは、指先で自分の胸元を軽く示した。
「ブライトヒーリングはね、“傷を治す魔術”じゃない」
ソアラが、瞬きをする。
「……え?」
「正確には、“相手を包み込んで、癒し切る魔術”だ」
言葉を、ゆっくり置く。
「キュアヒーリングは、傷に触れて塞ぐ。でも、ブライトヒーリングは違う。相手の中にある“痛みそのもの”を、丸ごと受け止める」
ルーメンは、十回の発動を一つずつ思い返す。
「今のソアラは、“治そう”とはしてるけど、“思いやろう”とするところが、まだ浅い」
ソアラは、はっとしたように息を呑んだ。
「……思いやる」
「うん。大きな傷を負った人が、どんな気持ちでいるか。どれくらい不安で、どれくらい痛くて、どれくらい“誰かに頼りたい”と思っているか」
ルーメンは、静かに続ける。
「そこまで想像して、その全部を包むイメージを持たないと、ブライトヒーリングの光は、最後まで安定しない」
川の音が、少しだけ大きく聞こえた。
「それともう一つ」
ソアラは、食い入るように見ている。
「発動後の魔力の流れ。今は、光を出したところで意識が切れてる」
「……はい」
「光を出して終わりじゃない。出したあとも、魔力は“流れ続ける”」
ルーメンは、手のひらをゆっくり開いた。
「もっと強くて、もっと安定した流れを保つ意識が必要だ」
言い切ると、少しだけ柔らかく続けた。
「でもね」
ソアラの肩が、びくりと揺れる。
「ここまで来てるのは、事実だよ」
その言葉に、ソアラの表情が揺れた。悔しさの奥に、確かな希望が灯る。
「……ありがとうございます」
小さく、けれど深く頭を下げる。
ルーメンは、その姿を見ながら、胸の内を確かめる。
話している間も。指導している今も。
やはり、あの疲労は来ない。
魔術が発動していない今は当然としても、直前まで十回も上位魔術を見届けていたというのに、身体は驚くほど静かだった。
(……やっぱり、今日は“起きない”)
その事実は、まだ違和感になりきらない。
ただの「調子がいい日」として、受け取れてしまう程度のものだった。
指導の言葉を受け取ったあと、ソアラはしばらく川面を見つめていた。
流れる水は変わらず、光の残滓もすでに消えている。それでも、彼女の中では、確かに何かが整理されつつあった。
「……もう一度、やってみてもいいですか」
その声には、先ほどまでの焦りはなかった。
むしろ、理解しようとする落ち着きがある。
「うん。無理はしないで」
ルーメンはそう答え、少しだけ距離を取る。
見守る位置。手を出さず、流れだけを感じ取れる場所。
この距離なら、何か起きても、すぐ分かる。
ソアラは目を閉じ、深く息を吸った。
先ほどよりも長く、静かな呼吸。
大きな傷。包み込む。
自分が投げた言葉を、ソアラが噛みしめるように整えているのが分かる。
「大いなる神の力よ、魂の癒しを与え、聖なる加護をこの御霊に授けたまえ……ブライトヒーリング」
淡い光が、再び生まれた。
その瞬間、ルーメンは無意識に、自分の内側へと意識を向ける。
……来ない。
胸の奥に、あの重さはない。魔力を引き剥がされるような感覚も、呼吸が一瞬詰まるような違和感も。
(やっぱり……今日は、疲れが来ない)
視線を戻すと、光はこれまでとは違っていた。強さそのものは、劇的に増したわけではない。だが、揺れが少ない。
光が、一定の厚みを保ったまま、ゆっくりと広がる。
ルーメンは、黙って見ていた。
魔力の流れは、確かに前より安定している。発動後も、意識が途切れていない。
そして同時に、自分の身体にも、何の異常も起きていない。
(見ているだけなのに……本当に、何も来ないな)
それでも、上位として“完成”と言うには、まだ届かない。
ソアラは数秒で詠唱を終え、ふっと肩の力を抜いた。
その瞬間、膝がわずかに揺れる。
「あ……」
自分でも分かるほど、魔力が空になりかけている。
それを無理に隠すこともなく、彼女は苦笑した。
「……もう、限界みたいです」
「うん」
ルーメンは、すぐに頷いた。同時に、もう一度、自分の内側を確かめる。
……疲労、なし。……魔力の減衰、なし。
(本当に……今日は、全部ソアラだけの消耗だ)
「今日は、ここまでにしよう」
ソアラはその場に座り込み、草の上に手をついた。
額には汗。呼吸は浅いが、乱れてはいない。
魔力切れ。けれど、無理をした消耗ではなく、“ちゃんと使い切った”感覚に近い。
「……でも」
ソアラは顔を上げ、少し照れたように笑った。
「前より、何か掴めた気がします」
その言葉に、ルーメンは小さく微笑んだ。
「それなら、十分だよ」
川辺に、短い沈黙が落ちる。風が草を揺らし、水面がきらりと光を返す。
ソアラは、ふっと息を吐いてから、ぽつりと言った。
「二人で魔術の練習するのも……新鮮で、いいものですね」
その声は、軽い雑談のようでいて、どこか余韻を含んでいた。
「エアリスちゃんたちがいると、賑やかで楽しいですけど……今日は、ちゃんと集中できた気がします」
ルーメンは、その言葉を受け止めながら、もう一度だけ、自分の状態を確認する。
……やっぱり、疲れは来ていない。
魔術を何度も見届け、集中し続けていたはずなのに、あの嫌な重さは、影も形もない。
胸の奥は、静かで、澄んでいる。
(……やっぱり今日は、大丈夫なんだな)
その安心感は、疑念を深く考える余地を与えないほど、確かなものだった。
ソアラは立ち上がり、服についた草を払う。
「ルーメン君、今日もありがとうございました」
一瞬、言葉を探すように視線を逸らし、
それから、柔らかく続ける。
「また明日、ルーメン君と練習するのを、楽しみにしてますね」
「じゃあ、また明日。楽しみにししておくよ」
川辺を離れると、踏み慣れた土の感触。草の匂い。夕方に向かい始めた陽の傾き。
特別なことは、何もない。いつもと同じ帰り道だ。
ルーメンは歩きながら、無意識に自分の呼吸を数えていた。
一歩、二歩、三歩。
肺に入る空気は澄んでいて、胸の奥で引っかかる感じもない。
(……やっぱり、減ってない)
それは、はっきりとした実感だった。
魔術を教え、発動を見届け、集中し続けたあとの感覚としては、
あまりにも“軽すぎる”。
以前なら、胸の奥がじんわりと重くなり、肩に薄く疲れが乗り、歩くたびに「今日は少し使いすぎたな」と思う程度の消耗が残っていた。
だが今日は、それがない。
(ソアラは、あれだけ使い切ったのに)
川辺で見た、彼女の息遣い。
座り込んだ時の、わずかな膝の震え。
あれは確かに、魔力切れの兆候だった。
対して自分は、
(……むしろ、普段より楽なくらいだ)
魔力の流れを内側で探る。
枯渇している箇所も、引き攣る感覚もない。
満ちている、というより、「減っていない」。
それは異常ではあるはずなのに、“良いこと”として受け止められてしまう程度には、自然だった。
(昨日までの疲れが、溜まってただけか)
そう結論づけると、胸の奥が静かになる。
理由が分かれば、安心できる。
理由が“それっぽければ”、疑う必要はなくなる。
家の屋根が見えてきた頃、ふと、ソアラの言葉が脳裏をよぎった。
……「二人で魔術の練習するのも、新鮮でいいものですね」
ただの感想。特別な意味を持たない、軽い一言。
(……確かに、今日は集中できたな)
エアリスもミリィもいない分、余計な気配がなく、魔術そのものに向き合えた感覚があった。
それが、“疲れなかった理由”だと思えば、筋は通る。
(明日はまた、四人だ)
そう考えると、少しだけ気持ちが切り替わる。
ミリィにもブライトヒーリングを見せたい。
エアリスの視点も、参考になるだろう。
今日は、たまたま。
そう自分に言い聞かせて、ルーメンは家の戸を開けた。
その背中には、まだ疑念も、不安も、影を落としていない。
ただ一つだけ、“減っていない”という感覚が、静かに、胸の奥に残っていただけだった。




