ソアラ編 第四十八章 ブライトヒーリングの繰り返し③ 翌朝
眠りの底から引き上げられる感覚は、昨日とよく似ていた。
「ルーメン、そろそろ起きてきなさい」
扉越しに聞こえる母の声。
また寝坊してしまった。
「今、行く」
身体を起こすと、疲労は感じられなかった。
むしろ、よく眠れた朝の感覚に近い。
(昨日は……確か、疲れなかったんだよな)
ソアラと二人きりで練習した日。
あの不可解な消耗が、今日は一切なかった。
階段を下りると、台所から漂ってくる匂いが鼻をくすぐった。焼いた肉の香ばしさ。油の匂い。
食卓に並べられていた朝食は、昨日とほとんど同じだった。
パン、サラダ、スープ、卵。
そして――皿の端に、きちんと並んだ三本のソーセージ。
ピゲトンのソーセージ三本。
「……まだあったんだな」
思わず、小さく呟く。
珍しいからこそ、記憶に残っている。
昨日は「たまたま手に入った」と母が言っていた。
市場でまとめて買ったのかもしれないし、保存が効くものでもある。
だが、朝の光の中で、それはやけに鮮明だった。
「どうしたの?」
母が、気づいたように声をかける。
「……いや、なんでもない」
ルーメンはそう答えて席につき、フォークを手に取った。
ソーセージを切ると、皮が弾ける。口に運ぶと、肉の甘みが広がる。
朝食を終え、皿を流しに運ぼうと立ち上がった、その時だった。
背後から、少し焦った声が聞こえる。
振り返ると、セリナが部屋の入口に立っていた。
片手で髪を押さえ、もう片方の手で棚や机の上を探る仕草。
その様子は、妙に見覚えがあった。
「ルーメン、私の髪どめ見てない?」
その言葉を聞いた瞬間、ルーメンの口は、考えるよりも先に動いていた。
「え? セリナ姉、昨日も髪どめ探してたよね」
言ってから、気づく。
台所の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
セリナは、きょとんとした顔でルーメンを見る。驚きよりも、困惑に近い表情。
「……何言ってるの、ルーメン」
首を傾げ、少し眉を寄せて続ける。
「昨日はちゃんとあったわよ。無くなったのは、今朝よ?」
その言葉が、静かに落ちた。
(――え?)
胸の奥で、何かがはっきりと音を立てた。
昨日、確かに、セリナは同じ言葉を口にしていた。同じ場所で。同じ声の調子で。
(いや、待て。本当に……昨日、だったか?)
夢にしては、細部が整いすぎている。
「……あ、いや」
ルーメンは慌てて言葉を濁した。
「俺の勘違いかも。ごめん」
セリナは一瞬だけルーメンを見つめ、
それ以上は追及せず、「そう」と短く返して、再び探し物に戻った。
その背中を見送りながら、ルーメンは、自分の胸に手を当てる。
心臓が、わずかに早い。
(……ズレてる)
ここで、はっきりとした“ズレ”が生じた。
偶然では片付けにくい違和感。
自分の記憶と、相手の現実が、噛み合っていない。
それでも、この時点では、まだ、ルーメンは、無理やり理由を探す。
(夢だ。きっと、夢の内容と現実が混ざってる)
そう思い込もうとする。
だが、心のどこかで、“説明しきれない何か”が、静かに根を張り始めていた。
家を出て、川辺へ向かう道は、いつもと同じだった。朝露に濡れた草の匂い。小石を踏む足音。
(……今朝のこと、考えすぎだ)
そう思いながらも、ルーメンの歩調はわずかに早くなっていた。
川辺に着くと、いつもの場所に、ソアラが、立っていた。
エアリスの姿はない。ミリィの姿もない。
二人が揃っていないこと自体は、珍しくない。
用事がある日もあるし、体調を崩すこともある。
「おはようございます、ルーメン君」
ソアラは、いつもと変わらない笑顔で挨拶をする。
「エアリスとミリィは?」
ほんの確認のつもりだった。昨日の流れをなぞるような、軽い問い。
ソアラは、少しも迷わず答えた。
「何言ってるんですか、ルーメン君。今日は来られないって言ってましたよ」
その言い方は、あまりにも自然だった。
「用事があるって。昨日、ちゃんと話してました」
(……昨日?)
また、胸の奥がざわつく。
「そう、なんだ」
ルーメンは、それ以上を聞かなかった。
聞けなかった、と言った方が近い。
ソアラの言葉には、引っかかりがない。
嘘をついている様子も、戸惑いも、一切ない。
……“本当に、そうだった”
そう言われれば、納得してしまいそうなほど。
(でも……)
記憶を探ると、エアリスやミリィと、そんな話をしたのは一昨日のことだ。昨日じゃない、一昨日だ、やっぱりおかしい。
ソアラは、そんなルーメンの内心など知らないまま、川の方へ視線を向け、いつもの位置に立った。
「今日は、どんな魔術を教えてもらえるんですか?」
その声は、弾んでいる。期待と信頼が、当たり前のように混ざった声。
その台詞が、耳に届いた瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。
(……この流れ)
昨日、いや、“昨日だと思っている日”にも、まったく同じ問いを、同じ場所で、聞いた。
一拍、遅れて、ルーメンは答えた。
「昨日の続きで……ブライトヒーリングを」
そう言った直後、ソアラは、はっきりと首を振った。
「昨日は、ウォータースライスを習得したばかりですよ」
声音は穏やかだが、内容はきっぱりしている。
「寝ぼけてるんですか?」
冗談めかした言い方。
だが、そこに迷いはない。
「今日は、どの魔術を?」
……記憶が、噛み合わない。
ルーメンの中にある「昨日」と、ソアラが示す「昨日」が、明確に食い違っている。
(……おかしい)
だが、説明のつかない感覚を、この場で言葉にすることはできなかった。
「……じゃあ、エアリスが習得できている、ブライトヒーリングにしよう」
自分でも驚くほど、その判断は“すんなり”口から出た。
まるで、その選択肢しか残されていないかのように。
「はい」
ソアラは、にこりと微笑んだ。
「お願いします」
その返事を聞いた瞬間、ルーメンの胸に、言葉にならない感覚が広がる。
会話は、成立している。
噛み合っているようにも見える。
それなのに、どこか、大切な前提だけが、静かにずれている。
(夢……なのか?)
そう考えようとして、川の音、風の冷たさ、足元の石の感触に気づく。
あまりにも、現実だ。
違和感は、まだ“確信”には至らない。
だが、この瞬間、はっきりと、同じ台詞が、同じ形で、二度目を迎えた。
その事実だけが、重く、確かに、ルーメンの中に残った。




