ソアラ編 第四十八章 ブライトヒーリングの繰り返し① 消えた疲労感
第四十八章 ブライトヒーリングの繰り返し
朝の光は、いつも通りだった。
窓の隙間から差し込む淡い白が、部屋の木目を柔らかく照らして、昨日の疲れがまだ身体の奥に残っているような、そんな鈍い感覚を薄く溶かしていく。
だからこそ。ルーメンは、目を閉じたまま「もう少しだけ」と思ってしまった。
けれど、次の瞬間。
「ルーメン、そろそろ起きてきなさい」
母の声が、扉越しに届く。
いつもの、少しだけ呆れた声音。けれど、起こし方は優しい。責めるでもなく、急かすでもなく、ただ“朝が来た”ことを知らせるだけの声。
「……はーい」
返事をしながら起き上がると、身体は思ったより軽かった。
昨日までのあの不可解な疲労感は、どこにもない。胸の内側に澱のように残っていた重さも、肩にぶら下がっていた鉛も、今朝は不思議なくらい薄い。
(治ってる……?)
それは安堵だった。
同時に、“あれは何だったんだ”という問いが、言葉になる前に胸の奥に沈む。
下へ降りると、台所の匂いがする。
焼きたてのパンの香ばしさ。温かいスープの湯気。卵の匂い。そして、ほんの少しだけ、油と肉の香りが混じっていた。
食卓に並べられた朝食は、いつもより少しだけ豪華だった。
パン、サラダ、スープ、卵。そこまでは、見慣れた朝。
だが皿の端に。
ピゲトンのソーセージが、三本。
「珍しいね」
思わず口に出たのは、それが“ご馳走”に近いものだからだ。
貴族ほどではないが、毎日食べられるような品でもない。香りだけで、少し気分が上がる。
母は「たまたま手に入ったのよ」と軽く言った。
その言い方もいつも通りで、ルーメンは深く考えずに頷いた。
ソーセージは、噛むと皮がぱちんと弾けて、脂の旨味が舌に広がった。
温かいスープがそれを追いかけ、卵の柔らかさが口の中を整える。
普通の朝。何もおかしくない朝。
食べ終えた頃、廊下側から足音がして、セリナ姉が顔を出した。
稽古帰りではない。髪がまだ整い切っていない。片手で髪を押さえ、もう片手で何かを探す仕草をしながら、少し焦ったように言った。
「ルーメン、私の髪どめ見てない?」
家の中では、こういう“探し物”はよくある。剣帯だったり、手袋だったり、授業のノートだったり。
「見てないよ」
ルーメンはそう答え、いつも通りに肩をすくめた。
セリナ姉は「そう……」と短く返して、また別の部屋へ向かった。
その背中を見送りながら、ルーメンは次の予定を思い出す。
今日は川辺。
そして、今日は、エアリスもミリィも来ない日。
ソアラと、二人きり。
家を出ると、朝の空気はひんやりとしていて、肺の奥まで澄んだ冷たさが流れ込んできた。
寝坊したとはいえ、陽はまだ高くなりきっていない。通学路を外れ、川辺へ向かう小道には、人影も少ない。
(今日は……二人だけ、だったな)
歩きながら、自然とそのことを考えていた。
川のせせらぎが聞こえてくる頃、視界が開ける。
いつもの場所。大きな木。その根元にできた、少しだけ踏み固められた土。
そこに、ソアラはもう来ていた。
「おはようございます、ルーメン君」
こちらに気づくと、彼女は小さく手を振った。
その仕草は、いつもと同じ。声の高さも、表情も、何も変わらない。
「おはよう。今日は早いね」
「ええ。せっかくなので、少し早めに」
二人の間に流れる空気は、穏やかだった。
川の流れと同じ速さで、ゆっくりと進む時間。
ルーメンは、無意識のうちに自分の身体の状態を確かめていた。
呼吸は浅くない。頭は冴えている。胸の奥に、あの“削られるような疲れ”はない。
(……今日は、平気だな)
目が合っても、何も起きない。会話をしても、あの重さは来ない。
それだけで、少しだけ安心してしまう自分がいた。
「今日は、どの魔術を教えてもらえるんですか?」
ソアラが、いつもの調子で尋ねてくる。
その問いは、ここ最近の“始まりの合図”のようなものだった。
「そうだね……」
ルーメンは川面を一度見てから、彼女に向き直った。
「ここからは、どれも簡単じゃない。おすすめは、ブライトヒーリングか、フレイムバーンかな」
少し間を置いて、付け加える。
「エアリスはブライトヒーリングはできるけど、フレイムバーンは、二人ともまだだ」
ソアラは一瞬考え込むように視線を落とし、それから顔を上げた。
「……じゃあ、ブライトヒーリングをお願いします」
二人だけの練習。静かな川辺。今日のルーメンには、疲労の兆しはない。
川辺の空気は、先ほどよりもわずかに温みを帯びていた。
朝の冷たさが引き、代わりに水面から立ち上る湿り気が、肌にまとわりつく。
「まずは、僕がやるね」
ルーメンはそう言って、ソアラの前に立った。
距離は、いつも通り。近すぎず、遠すぎない。
教える側と教わる側が、同じ景色を共有できる距離。
「ブライトヒーリングは、キュアヒーリングの延長だけど……精度と“深さ”が、まるで違う」
そう前置きしてから、ゆっくりと息を整える。
魔力を集める感覚は、もう身体に染みついている。
焦らず、無理をせず、自然に。
「大いなる神の力よ、魂の癒しを与え、聖なる加護をこの御霊に授けたまえ……ブライトヒーリング」
淡い光が生まれ、それが一段階、はっきりとした輝きへと変わる。
キュアヒーリングよりも大きく、けれど荒々しさはない。
“治す”という意志が、確かな形を持った光。
そして、ルーメンは自分の内側を確かめる。胸の奥は静かだった。
あの、引き抜かれるような疲労は、どこにもない。
「……今のが、基準だよ」
ルーメンはそう言って、ソアラを見る。
「じゃあ、やってみよう」
ソアラは一度、深く息を吸った。
指先が、ほんのわずかに震えている。
緊張ではあるが、恐れではない。
「大いなる神の力よ、魂の癒しを与え、聖なる加護をこの御霊に授けたまえ……ブライトヒーリング」
光は生まれた。だが、少し、薄い。
ルーメンは、その光を見つめながら、同時に自分の感覚を探る。やはり、来ない。あの、身体の芯を削られるような疲労が。
「今のは、悪くない」
すぐに否定はしない。けれど、言葉を続ける。
「ただ、まだ“届いてない”」
「……届いて、ない?」
「うん。キュアヒーリングよりは確かに上だけど、“大きな傷を包み切る”ところまでは、いってない」
ソアラは唇を噛みしめ、小さく頷いた。
二回目。三回目。
光は少しずつ、安定していく。
そのたびに、ルーメンは内心で息を詰めるが。
(……来ない)
魔術が発動するたびに起きていた、あの違和感がない。胸の奥は、凪いだ水面のように静かだった。
四回目。五回目。
集中が深まり、額にうっすらと汗が滲む。詠唱は途切れず、魔力の流れも乱れていない。
ルーメンは、五回目の光が消えるのを見届けてから、そっと肩を回した。軽い。信じられないほど、いつも通りだ。
六回目。七回目。
「……難しいですね」
ぽつりと漏れたその言葉には、弱音よりも戸惑いがあった。
「上位になると、こんなに……」
「うん。だから、ここからが本番だ」
ルーメンは静かに答えながら、また自分の内側を探る。
(……本当に、疲れない)
八回目。九回目。
光は確実に変わってきている。けれど、“あと一歩”が、どうしても越えられない。
ルーメンは、九回目の発動が終わった瞬間、思わず小さく息を吐いた。やはり、何も起きない。あれほど繰り返してきた“疲労”が、今日は存在しない。
そして十回目。
詠唱を終えた瞬間、ソアラの肩が大きく上下した。光は生まれたが、すぐに揺らぎ、ほどけていく。魔力が、限界に近づいているのが分かる。
だが、ルーメンの身体には、依然として異変はない。
十回。それは、単なる回数ではない。
上位魔術においては、一回一回が、身体と心を削る重さを持っている。
削られているのは、今はソアラだけだ。
「……今日は、ここまでかな」
ルーメンがそう言うと、ソアラは少し悔しそうにしながらも、素直に頷いた。
「はい……でも、思っていたより、ずっと難しいですね」
その表情に、諦めはない。あるのは、“届きたい”という意志だけだった。
ルーメンは、その目を見て思う。
才能は、確かにある。ただ、上位は“感覚”だけでは越えられない。
そして、もう一つ。
今日に限って、自分に“何も起きていない”ことが、不自然なほど、はっきりしている。
この壁を越えるには、もう一段、踏み込んだ理解が必要になる。




