第七章 7.1:雨音はフーリエの調べ
7.1
早朝の家事の気配と、朝食の微かなジュワという音で目が覚める。時計の針は静かに刻みを進めていた。カーテンの狭い隙間から差し込む朝の光。ノートは動かされ、わずかに位置がずれている。すでに歯車は前へと回されていたのだ。
ベッドを整え、顔を洗い、テーブルにつく。洗面所に残っていたゼラニウムの香りが、やがてコーヒーとベーコンエッグの芳香へと移り変わっていく。
「特製・本間朝食よ」
彼女が湯気の立つ二皿を木のテーブルに並べる。完璧な円を描く二つの目玉焼きが、カリッと焼かれた曲線のベーコンの上に鎮座し、彩り豊かな付け合わせが脇を固めていた。
「すごいですね」
その光景が朝の気だるさを吹き飛ばし、抑える間もなく笑みがこぼれ落ちる。
「私たちはみんな、頑張ったご褒美に小さな幸せを受け取る権利があるのよ」
窓ガラスの向こうでは、駅でアイドリングする早朝バスの低い唸りが漂っていた。室内にはカトラリーの重なる音と、コーヒーをすする静かな音。穏やかな朝の平穏が戻ってくる。
皿を洗い、丁寧に拭き上げる。部屋着から制服へと着替えを済ませ、出発の準備は完了した。本間先生が俺の背中を軽く叩き、昨日淹れてくれたクラフトティーの袋を手渡してくる。
二人で外階段を降り、湿り気を含んだ朝の空気の中へ。玄関の傘立てに立てかけてあった如月の傘へ手を伸ばそうとしたが、本間先生がそれを先にすくい上げ、脇に抱えたまま京都市役所前駅の方向へと歩き出した。
地下鉄の入り口に差し掛かる。
「雨が本降りになる前に、鴨川を少し散歩してくるわ」
「いってらっしゃい、神崎」
「気をつけてください、先生」
軽く頭を下げる。
彼女はタイルの階段脇に立ち止まったまま、じっと俺を見つめていた。何か用事でも忘れていたかと思わず片方の眉を上げる。彼女はブレない手つきで硬い傘を差し出すと、俺の肩に強い手を添え、駅の改札方向へと向きを変えさせた。
「愛せるうちに、愛しておきなさい」
身を翻して歩き出す彼女。その黒いウインドブレーカーは早朝の人混みへと速やかに馴染み、朝もやの彼方へと消えていく。
雨を止めることはできなくとも、しばらくの間は濡れずに済む。
お読みいただきありがとうございました!
細切れの更新になりますが、少しずつ物語が進んでいきますので、次回もお付き合いいただければ幸いです。




