第六章:素因数分解
6.1
柔らかな布団に腰掛け、ノートパッドを取り出す。読書灯の角度を慎重に微調整した。漏れた光が本間先生の眠りを侵さないように。鋭い光条は俺の膝の上だけに孤立し、布団の海に完全な円形の境界線を引いていた。
「寒くない? 替えの毛布ならまだあるからね」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「はいよ。おやすみ」
「おやすみなさい、本間先生」
俺は意識を再び、ログブックという名のデータセットへと戻した。
#2 卒業生の星野先輩が、特待生枠の少女を一人連れてきた。今朝、その子と話をした。名前は雪村由希子。整数論に強い関心を示している。彼女は、私が思考を走らせる手元をじっと見つめていた。
#3 彼女は素因数分解の段階で足踏みしていた。お腹の虫が鳴ったので、私のお弁当を分けてあげた。
#5 今日は難解なプロブレムをいくつか並べて、二人で解いた。彼女は完全に迷子になっていたけれど、それでも思考を止めようとはしなかった。いつか、数学オリンピックの代表チームに入りたいのだという。
#7 今日、由希子は計算を誤った。彼女はそれを笑い飛ばしたけれど、私が背後から静かに修正した。
#11 またお弁当を分ける。由希子は納豆が大好物だと言った。けれど、昨日は触ろうともしなかったはずだ。私の記憶違いだろうか。
#13 今日、由希子が私の万年筆に触れた。インクの持つ特有の重みが気に入ったらしい。まるで極薄のガラス細工でも扱うような手つきで、ペンを保持していた。
#17 非ユークリッド幾何学の概念を教えた。彼女は、二つの平行な人生であっても、その間の空間が十分に歪んでいれば、いつか交わることはあるのだろうかと訊ねてきた。
#19 海を見たことがない、と彼女は言った。
#23 今日の由希子の昼食は、パンの耳だけだった。私はまたお弁当を差し出した。彼女は声を押し殺して泣き出した。
#29 彼女は夜遅くまで部室に居残っていた。この部屋の灯りは、自分の家のそれよりもずっと明るいのだという。「影女」が出るかもしれない、とも。そんな怪異は存在しないと私は告げた。
#31 夏がすぐそこまで迫っているというのに、由希子はまだ長袖のアンダーシャツを着込んでいる。
#37 上級生たちが、特待生という身分の由希子を蔑んだ。私がその小さな手を握り締めると、彼らは口を噤んだ。
#41 由希子が、頬に白い絆創膏を貼って現れた。
#43 共同執筆者。あかりちゃんが私に向かってただ微笑んだ。彼女はどこへ行くにも、あのノートを肌身離さず持ち歩いている。
#47 夏祭り。打ち上げ花火は、マグネシウムと光が描く均整の取れた放物線だった。ほんの一瞬、夜空は完璧な座標平面へと変貌した。
#51 休憩時間、一本のラムネを二人で分け合った。彼女がラムネを口にするのはこれが初めてらしい。彼女の家族には、この事実を隠匿しなければ。この夏が、永遠に終わりを迎えなければいいのに。
#53 弘樹先輩が、部室のなかで一日中あかりちゃんを凝視している。
#59 由希子が一日中上の空だ。集中しろ、由希子。リフォーカス。
#61 星野先生が訪ねてきた。実践的な問題解決へのアプローチを、数多く教授してくれた。
#67 星野先生は悲しげで、酷く摩耗しているように見えた。
#71 由希子が学園の寄宿舎へと移った。
#73 あかりちゃんが再び数学オリンピックに招聘される。星野先生も同行する。
#79 みんな
#83 どこに
#89 いるの zzz…
#97 弘樹先輩が個別指導を施してくれた。
#101 雪が降っている。
#103 星野先生が帰還した。今や誰もが彼女を「博士」と呼称する。
#107 中学の課程が始まる。あかりちゃんはもうノートをどこにも連れて歩かなくなった。
#109 星野先生から、今後は「先生」と呼ぶようにと規定された。合宿は楽しい思い出だ。部室には新しいメンバーが増えている
#113 あかりちゃんと完全に同一のスコアを記録した。
#127 由希子が選考試験をクリアした。
#131 大会で勝利を収めた。
#139 再び勝利。
#149 何人かの上級生が、部活動というシステムから離脱した。
#151 あかりちゃんと私は、JMOの予選を通過した。弘樹先輩が祝辞を述べにきた。
#157 あかりちゃんから贈られた新しい万年筆で記述している。最初の友人からの贈り物。星野先生が、寮の食堂の食券を束でくれた。
#163 構成員が大幅に増えた。後輩の佐原愛生はコンピューターの扱いに極めて長けている。ブログへ頻繁にログを投稿するのが彼女のルーティンらしい。
#167 星野先生が私たちの成果を賞賛した。現時点で、数学コンテストのスコアボードは私たちが独占している。今年こそ、あかりちゃんと共にIMOへ行けるかもしれない。
#173 研修合宿が終了。次のフェーズへ移行する。
#179 星野先生とあかりの生年月日が近似しているため、合同の祝賀会を催すことにした。高校の課程が始まる。浩輝先輩は姿を現さなかった。
#181 新しい万年筆のインクが今日、底を突いた。以前よりも、より鮮明な「赤」を充填する。
#191 弘樹先輩が深夜まで残り、愛生ちゃんとコンピューターについての対話を続けていた。
#193 屋上へと足を運んだが、雲の密度が高く、視界は遮断されていた。由希子が呟いた。素数は、それ以上分解できないから孤独なのだろうか。それとも、他者を一切必要としないからこそ、誇り高いのだろうか、と。
#197 仮にAとBが完全な同調状態にあり、その上でAという変数が消滅した時、果たしてBは厳密に存在すると言えるのだろうか? それとも、Bは単なる、割り切れない世界の「余り」に過ぎないのか。
#199
ページを繰りながら、俺は彼女たちが残した数式と証明の軌跡を追尾した。 如月のアプローチは一貫してブレない。それは彼女の指紋のような数学哲学であり、氷結晶のごとき明晰さと、恐怖すら抱かせる冷徹な優雅さによって構築されていた。俺が数学を志した原初的な動機――脳髄を強打するような、あの畏怖の感覚を強制的に思い出させる代物。
対して、雪村の証明は初期段階においては極めて歪で、不格好だった。しかしその進化の傾きは、短期間のうちに異常な速度で一点へと収束していく。手書きの筆跡が緩やかに同一化していくだけでなく、解法における基本アーキテクチャそのものが相似形を帯びていくのだ。 まるで、二つの独立した振動子が至近距離にあるという純粋な物理的条件だけで、単一の周波数へと引きずり込まれるメトロノームの同期現象、「蔵本モデル」そのものだった。
雪村の名前は、ペン先が紙を突き破らんばかりの質量で、執拗に削り取られていた。その荒れ狂う筆圧の痕跡は、後続の数ページにまで裏写りして滲んでいる。数枚の頁にいたっては、根元から完全に引き千切られていた。
読書灯の光下で、俺はログブックの角度を傾ける。深く穿たれた圧痕が、長く、鋭角な影を紙面上に落とした。俺は自分のノートから、音を立てぬよう細心の注意を払って頁を一枚引き剥がす。その白紙を傷跡の上に重ねると、鉛筆の腹を寝かせて静かに擦った。消去された情報の、潜在像を検出するための原始的なアプローチ。だが、何も出なかった。そこにあるのは、混沌とした抹消線と、紙を引っ掻いた無数のメッシュだけだった。
俺はログブックを閉じた。そして、金の箔押しで刻まれた「幽玄学園」のロゴに視線を落とし、眼を休めた。 突如として落雷が静寂を破断し、続いてガラス窓を叩く激しい雨の、重くリズミカルなドラムの音が室内に侵入した。俺は立ち上がって部屋を横切り、手慣れた手つきでカチリと窓を密閉した。本間先生の睡眠を阻害しないように。彼女は昏々と眠り続けていたが、毛布が滑り落ちており、肩と足が冷気に晒されている。俺は布地を整え、それを静かに収まるべき場所へと戻してやった。
再び腰を下ろした瞬間、一つの「欠落した変数」が脳裏に浮上した。俺自身のデータセットにおける、致命的なブラインドスポット。
「英才」という血統=に異常なまでに執着するこの学園において、その初期パラメーターを設定している人間が、背後に必ず存在する。
一体どこのどいつだ。現在の数学科主任は。
夏も近づいてきて、仕事も忙しくなってきたし、いよいよIMOも迫ってきましたね。みんな、無理せずボチボチいきましょう。




