第四章:沈黙の対立
5月2日:文章構成と詳細描写を大幅にブラッシュアップしました。
午後の遅い日差しが桜の花びらを透かし、淡い桃色の花びらをIハウス近くの苔むした石の上に散らしていた。優しい春のそよ風が、遠くの宇治川のせせらぎと、濡れた草の鋭い土の香りを運んでくる。頭上には暗い雲が立ち込め、雨の予感で重たかった。
俺は数学研究会へ急いでいると、舞い散る花びらの中で何かが俺を立ち止まらせた。一羽のカラスが地面に横たわっていた。片方の翼が埃をかぶった黒い羽の下で不格好にねじれている。つややかな目がゆっくりと開き、疲労で重たそうだった。冷たいものが背筋を走った。先ほど星野先生の言葉がかすかに頭の中でこだました。ゆっくりとしゃがみ込み、手を差し伸べた。
「よしよし……大丈夫だよ」
大きなカラスが最後に一声鋭く鳴き、木の奥へと引き下がった。傷ついた方のカラスはじっとしたまま、警戒した目で俺を見つめた。注意深く手を伸ばす。そのか細い胸が俺の手のひらで上下する、かすかに温かいだけだった。長い間、世界はその小さな信頼の重さだけに狭まっていた。ブレザーを脱ぎ、小さな体を優しく包み込み、傷ついた翼を押さないように気をつけながら、部室へと運んだ。
—
「こんにちは、神崎くん! それ、何持ってるの?!」温かい歓声の合唱が上がった。
「おかえりなさい、神崎くん」
「遅いぞ、神崎!」
「ごめん、みんな。招かれざる客を連れてきちゃった」
雨が窓を打ち始める中、俺は膝をつき、カラスを柔らかい布の上に置いた。呼吸はかすかだが安定していた。
星野先生と如月が素早く動いた。生理食塩水、清潔な布、包帯が現れた。俺は関節近くの浅い傷を清め、汚れとかさぶたを拭い取り、翼を緩く包帯で巻き、近くにあった木の棒で簡単な副子を作って固定した。
明らかに捻れており、関節の近くには浅い生傷があり、土と乾いた血で固まっていた。診療所で働いて学んだ知識を活かし、布を生理食塩水で湿らせた。
「さあ、小さなやつ、きれいにしてあげるよ」
丁寧に汚れと乾いた血を拭い去ると、その下の柔らかい皮膚が現れた。深い裂傷はなかったが、感染を防ぐために処置が必要なほどだった。傷ついた翼を緩く包帯で巻き、近くにあった数本の木の棒で小さな副子を作って固定した。即席の処置だったが、専門的な獣医の手当てを受けるまでの間、これ以上の損傷を防ぐのに十分な安定性はあった。
カラスはじっとしたまま、そのつややかな目は静かな信頼、あるいは単に疲れ果てているだけなのかもしれない。俺は予備の布で慎重に包み、急な動きや夕方の冷気から守った。内田がダンボール箱を持ってきて、如月が柔らかい布でそっとその中を詰めた。
「大丈夫、すぐに生物学科の獣医アドバイザーに連絡するわ」
部屋中に安堵の息が漏れた。
「次にどうすればいいか悩んでたんです、さすが星野様」
ガラスを打つリズミカルな雨音のせいで、先生の声を聞くには皆で身を寄せ合わなければならなかった。如月は窓を見つめ、物思いにふけっていた。
—
星野先生が軽く咳払いをした。彼女は二つの公式な封筒と、薄い結果の書類を机の上に置いた。いつもの遊び心のある輝きは目になかった。
「今回の合宿、皆さんお疲れさまでした。委員会が今朝、最終集計を終えました。合格ラインはここ数年で最も高かったです」
俺の心臓の鼓動が、外の雨音をかき消すほど大きく響いた。こめかみに脂汗がにじむ。
彼女は私たちをまっすぐに見た。「如月さん。神崎くん。お二人ともトップ6に入りました。私の推薦も済ませています。正式な資格と連絡は数日中に届くでしょう。あなたたちは国際舞台で日本を代表することになります」
「つまり……香港に行くんだな」俺は呟いた。
「パスポートの残存有効期間が、来年5月のキャンプ以降も少なくとも6ヶ月以上あるか確認しなさい」星野先生は机の端に体重を預けた。
如月はまばたきすらしなかった。彼女にとってはただの日常なのだろう。俺は冷たい安堵の奔流を感じ、突然の軽やかさで部屋が静かすぎるように思えた。
「先生……内訳は?」
星野先生が俺を手招きした。如月は窓際に寄りかかったまま、雨を見ていた。「自分だけに留めておきなさい」
俺は列を目で追った。
1位 如月あかり
2位 中野まもる
3位 奥村哲也
4位 神崎惺夜
5位 東里樹
6位 桂紅葉
「4位……か、彼らも受かったんだ、いいね」俺は呟いた。
俺の順位を聞いて、如月が近づき、他の候補者の欄を確認した。
「内田さん……あなたの地域大会の成績を確認しました。今年の合格ラインは絶対です。残念ですが」
彼女は内田にフォルダーを手渡した。内田は無言でそれを受け取り、ぎゅっと胸に抱えた。紙が指の下で音を立てた。
長い間、唸るような雨音だけが聞こえていた。
「内田さん、これがあなたにとってどれほど大切だったか、私にはわかっています。この結果が、あなたの素晴らしい才能や努力を否定するものではないと理解してください。あなたには輝かしい未来が待っています。これはあなたの旅の始まりに過ぎません」
星野先生が前に進み出て、内田を静かに抱きしめた。片方の手を彼女の後頭部に軽く置き、指で優しく髪を撫でた。
内田の肩が震え始め、小さく胸を絞めるような嗚咽が漏れた。
「覚えておいて。この部にいるということは、一緒に学び、成長するということ。これからもたくさんチャンスがあるわ。内田さん、私たちはみんな、あなたの可能性を強く信じている」
「あなたがとても頑張ったのは知っているから……」彼女は優しく内田の髪を撫で続けた。その手つきは囁きのように軽やかだった。落ち着いた外見の奥で、微かな輝きが彼女の目に光った。
如月はぎこちなく体を動かし、ためらいがちに一歩近づいた。「う、内田さん……」
俺は内田の震える肩に手を置いた。「そうだよ。俺たちはいつでも味方だ」
一分ほどして、内田の呼吸が落ち着いた。彼女は体を離し、顔を拭き、小さな作り笑いを無理やり浮かべた。
「お、おめでとう……あかりちゃん、神崎くん……二人なら受かると思ってた。私たち……何かお祝いしないと。小さな乾杯をしよう。何か食べ物を注文するね」
私たちは優しく、確信のない笑顔を交わした。如月は特に嬉しそうで、やる気に満ちているように見えた。
リズミカルなノックが部室のドアに響いた。
「ここが数学研究会ですか? 星野先生に来てほしいと言われまして」
「はい、来ていただきありがとうございます。怪我をしたカラスがいるんです。診てください」俺は軽くお辞儀をした。
「いいえ、仕事の一部ですので」
如月が生物学科のアドバイザーをダンボール箱へと案内した。獣医は膝をつき、翼を注意深く調べ、そっと可動域を確かめた。
「素晴らしい。応急処置が完璧ですね。包帯と副子は安定しており、翼が治癒するために必要なサポートを提供できています」彼は満足そうにうなずいた。
「感染を防ぐために注意深く経過を見る必要があります。消毒軟膏を持ってきました。経過によっては抗生物質が必要になるかもしれません」
彼は顔を上げ、私たちに微笑んだ。「この小さな患者を皆さんがとても大切に思っていることがよくわかります。このような献身が、動物の回復の可能性を高めるのです」
「わざわざ来ていただきありがとうございます。あなたが診てくださるまで、できる限りのことをしたかったんです」
「限られた資源でよくこれだけのことをなさいました」
「ただ、数学にアレルギーがなければいいのですが」
内田の方へ向き直る。彼女の目はまだ腫れて疲れていた。「他人の世話をするには忍耐と思いやりが必要です。もう大丈夫です、心配しないで」
内田はかすかな笑顔を見せた。
「カラスを暖かく保ち、邪魔しないようにしてください。腫れや悪臭、極度の無気力など、悪化の兆候が見られたらすぐに連絡してください」彼は鞄から名刺を取り出し、星野先生に手渡した。
獣医アドバイザーが帰ろうとしたとき、別のノックが部屋に響いた。今度はより鋭い。
「お邪魔します……」
—
雨は激しく降り続く。
「莉香ちゃん、どうしたの?」内田の目がそっと逸れた。
「みなみちゃん……どうしたの? 大丈夫?」
「えっと……まあ……うちの部のペットが怪我しちゃって……私、そういうのってダメでさ」
内田が俺に一瞥をくれ、言葉の裏を理解してほしいと訴えた。
「そうそう、あのカラスはずっと前から部で面倒見てたんだ」
「あらまあ……大丈夫なの? みなみちゃん、つらいね……」
如月は実に実用的で、すでにやかんの方へ動いていた。陶器の柔らかな音が、慣れ親しんだ安らぎだった。内田は友達をソファに招き入れた。使い込まれた布地が、目に見える平常心を与えた。
再び誰かがドアをノックした。俺が立ち上がって開けた。
「お待たせしました。特上プレミアムにぎり二つ、プレミアムにぎり一つ、五目いなり寿司十セット、若鳥唐揚げ三つ、内田様ご注文の品でございます」
「わざわざありがとうございます」
「ご利用いただき誠にありがとうございます!」
袋を受け取り、中の寿司の山を見て俺は言った。
「内田……寿司百五十五貫? 夕食抜きのつもりか?」
「えっと……ストレスがたまると食欲がすごいんだよね。それに、あなたたちも無罪じゃないからね。みんなで楽しく食べることを期待してるよ」
如月の普段は穏やかな目が、決意に満ちた期待を宿していた。彼女はやかんから目を離し、唇にほのかな笑みを浮かべた。「頼りにしてますよ、内田さん」
内田は照れくさそうに笑った。「もちろん、もちろん。誰かが見本を見せないとね」
俺は慎重に寿司の箱と箸を茶の間に広げた。寿司飯のかすかな清潔な香りと風味豊かな唐揚げの香り。如月が茶器を整え、私たちに注いでくれた。煎茶のエメラルドグリーンの湯気が、カップの中でほのかに立つ。草の香りが部屋を満たし、波乱の午後からの束の間の休息をもたらした。星野先生はと言えば、すでにいなり寿司をもぐもぐと食べており、顎にほとんど気づかれないほどの米粒がついていた。
ずるいな、星野先生。キツネかい?
「この煎茶はお料理とよく合いますよ」如月が呟いた。長い指でカップの縁をなぞりながら。
内田が一口味わう。「あかりちゃん、これ、おうちの? いい香りだね」
「気に入っていただけて嬉しいです。お持ち帰りください」
「いいね……ここは。部も、人も……」高見の声が途中で途切れた。
私たちの注意が彼女に向いた。「ごめんなさい……変なこと言いました……」
「自己紹介させてください。工学部副部長の高見莉香です」
「私たち、来月東京で開かれるワールドテックエキスポに出展するプロジェクトで、大学や政府と連携しています」
食べ物はほとんど手付かずだった。誰かが気づかないうちにこっそり一つ摘まんだのを除いては。カップから湯気が立ち上る。
「……ごめんなさい、堅苦しくならないで。食べながら話しましょう」高見は震えるような笑い声をあげた。
「あはははは……」
内田の無理に笑う声だったが、それで私たちの肩の力は少し抜けた。
私たちは静かにグラスを掲げた。マグロをひとつまみ、醤油とわさびをほんの少しだけつけて。完璧な旨味の安らぎ。うまみとほのかなコクが美しく残る。如月はいくらを選び、そっと口元を覆いながら寿司を味わい、目にささやかな喜びを輝かせた。星野先生はほたてを選び、内田は唐揚げから始めた。
「それで、それが数学研究会とどういう関係があるんだ?」俺は続けた。
高見は咳払いをした。「そう……たぶん聞いていると思うけど、最近建物の中で起きている不穏な動きや奇妙な現象のこと」
「実験は最初は問題なかったんだけど、最近何週間も、通りかかった学生たちから謎のタッピング音が聞こえると報告があって」
「その辺りに冷たい場所が残っていたり、照明が不規則にちらついたり、廊下で歪んだ囁き声が聞こえたり……機器の測定値がめちゃくちゃに跳ねたり、定期的にエラーが報告されたり、キャリブレーションに失敗したりするの」
「担当教官は実験室や建物を変えたり、機器を再調整したりしてみたけど……結局、同じ結果で……」
「それに……部の中でも、うまくいってなくて……」
如月はその言葉を聞いて震え、手のひらが本能的に縮こまった。
何だこれ、研究所のファントムか?
内田は高見を慰めようと、静かに支えの手を差し伸べた。私たちは食べようとしたが、寿司はやはり手付かずだった。
「ただ噂を広めに来たわけじゃないんだろ? プロジェクトの内容は具体的に何なんだ?」
「違います……如月さんや数学部の能力について伺っていて、その現象や噂の調査をお願いしたくて」
彼女は立ち上がり、深々とお辞儀をした。「プロジェクトは量子マイクロ気候チャンバーで、量子フォトニクス実験の安定性を維持するために設計されています。お願いします……」
星野先生はお茶を飲んでいる途中でむせ、唇からこぼれそうになった。俺はそっと彼女の背中を叩き、如月はナプキンを差し出した。
カラスの休むダンボール箱から柔らかな擦れる音がし、続いてかすかな低い鳴き声がした。外では雨が絶え間なく窓を打っていた。
—
やかんが甲高く細い笛を吹き、部屋を切り裂いた。誰も話さなかった。私たちは皆、如月に目を留め、彼女の手の動き、水の安定したリズミカルな注ぎ方、湯気が彼女の顔を覆う様子を追った。物思いにふけり、彼女は遠くを見ているようで、完璧なお茶を淹れていた。
「部長、どう思いますか……?」
如月はまばたきをし、意識を取り戻した。「ああ……ごめんなさい。あなたのプロジェクトにどれだけお役に立てるかわかりませんが……やってみます……」
「ちょっと待て……本当にいいのか、如月? 詳細も知らないのに……」
「高見さん、プロジェクトのことでそんなにお困りなんですね。でも、まずは担当教官とか指導者に相談したんじゃないですか? 実験室を変える以上のことを提案してくれましたか?」
高見は首を振った。
「大学生の中には、コラボレーションを単なる履歴書の飾りとして捉え、中核的な問題に取り組まずにクレジットを得るためだけに最低限のことをする人もいる。他の人は私たちを『ただの高校生』と一蹴して、私たちの意見を完全に無視する。教員は手一杯でリソースも限られている、私たちに任せる以上のサポートはほとんどないの」
「莉香ちゃん、このプレッシャーの中、みんなはどうやって耐えているの?」内田は高見の手を握り、心配そうに言った。
「正直なところ、雰囲気は緊張している。メンバー同士で責任をなすり合い始めていて、やる気は著しく低下している。建物にまつわる霊の噂も状況を悪化させていて、辞めてしまった人もいる」
如月が注いだお茶は揺れて不規則だった。星野先生が手を伸ばし、優しく彼女の手を包んだ。
高見は静かに続けた。「プロジェクトの性質上、私たちが目にしている異常な現象に対する先行事例や参考資料が不足しています。士気は低く、プライドは高いままで、私たちは行き詰まっています。そしてワールドテックエキスポの発表が迫っている……」
彼女は如月を真剣に見つめた。「私はこの問題の根源を見つけたいのです。だからあなたの助けが必要です」
難しい問題だ。艦長なき船のようだ。明確な命令はなく、上級生たちは権力争いに忙しく、下の者の意見を無視している。クルーは船を捨てる者もいる。それなのに資金は注ぎ込まれ続け、まるでリソースだけで穴を塞げるかのようだ。私たち数学部は別の航海から連れてこられ、根本原因を特定するだけでなく、修理や進路の安定化にも責任を負うことになった。もはや沈みゆく船をただ観察しているだけではいられない。安全な方向へ戻す手助けをするか、少なくとも正しい方向に沈めるのを助けなければならない。
「交渉の条件をいくつか設定してみないか、高見さん?」
「もちろん、できる限りお応えします」
「一つ、これは数学研究会への依頼であり、如月個人への依頼ではありません。調査の結果に関わらず、責任は如月個人ではなく部にあるものとします」
「二つ、このコラボレーションを正式に認めてもらうために、担当教官の承認が必要です。私たちの立場の複雑化は避けたいので」
「三つ、すべての分析と結果は数学部に帰属し、発表とプレゼンテーションの権利は適切に共有されるものとします」
「四つ、部にはプロジェクトと博覧会に必要な機材、ソフトウェア、研究、および移動に必要な適切な資金を要求します」
「五つ、効果的な作業のために、必要なデータ、実験室、人員への完全なアクセス権を要求し、そちらからのタイムリーな情報提供も必要です」
如月の目が見開かれ、瞳孔がわずかに拡大した。星野先生は別のいなり寿司を頬張りながら、何度もうなずいた。
先生が口を挟んだ。「数学部の学業上の責務が尊重されることを信じています。彼らの参加が勉強や目標を損なうものであってはなりません。また、状況が耐え難くなったり、部の理念と衝突したりした場合、部は撤退する権利を留保します」
「これらの条件により、両部は公平で敬意あるパートナーシップを築き、すべての利益を享受できるでしょう」星野先生が話し終えると、俺にウインクをした。俺はニヤリと返した。
私たちは再び如月を見た。彼女は静かな微笑みと優しいうなずきを返し、私たちの茶碗にお茶を注ぎ足した。
「公正な取引だと思わないか? 高見さん」
高見はしばらく考え込み、それから手を差し伸べた。
彼女は少しほっとしたように微笑んだ。「妥当だと思います。これらの点を正式なものにするために、担当教官と話します」
内田が口を挟んだ。「じゃあ、私が取り決めの書類を準備するね。それを担当教官に持って行って、部の印鑑を押してもらって」
「最後にもう一つお願いがある」俺は言った。
「この食べ物を全部食べ終わるのを手伝ってほしい」
彼女は吹き出した。「ぷっ、もちろん……もちろんです。あなたが神崎さんですね?」
俺はうなずいた。
食事に落ち着くと、内田は部のコンピューターで協定書を印刷するのに忙しかった。
彼女は身を寄せて微笑んだ。「さっきはありがとう……」
「まあ、船をうまく前進させるには、すべての力が釣り合わないとな。表面積が増えれば圧力は下がるだろ?」
彼らは皆、俺の方を向き、その表情は驚きから喜びへと変わった。如月の目がわずかに見開かれ、その中で楽しげな輝きがちらついた。高見の微笑みは深まり、感銘を受けたようだった。内田は首をかしげ、まだ俺の言葉を処理しようとしていた。星野先生でさえ、目を輝かせて大きく笑った。
「神崎くん、そんなナンパなセリフ、どこで覚えてきたの?」星野先生が俺の背中を冗談めかして叩いた。
「痛っ……夢で教わったんだ……」
柔らかな笑い声が部室を満たした。長く忘れられていた旋律のように軽やかに。
—
食事を終え、高見が署名済みの書類を持って戻ってくるのを待ちながら、私たちはテーブルを片付けた。結局、すべては食べきれず、内田が残りを持ち帰るために包んだ。
「内田さん、このお茶会を企画してくれてありがとう。食事代は部で負担させてください」
「あかりちゃん、本当にいいのよ。気にしないで」
「お願いします。あなたと神崎くんのために、ちゃんとした数学研究会の歓迎会にしたかったんです。それに……こんなに楽しく食事をしたのは久しぶりで」
「それじゃあ、そういうなら……ありがとう、あかりちゃん。そして先生」
「ごちそうさまでした。お茶も絶品でした。如月さん、星野先生」
「大したことじゃないわ、みんなお腹いっぱいになったなら。このエネルギー、すぐに使い切るでしょうから」先生はカラスをそっと撫でた。
しばらくして、高見が戻り、封印された書類を持ってきた。星野先生は丹念に一つ一つの条項をなぞり、署名を一つ一つ確認した。部屋の中で聞こえるのは、机の上での紙の乾いた擦れる音だけだった。それからようやく彼女は署名を加えた。決定的な一筆だった。
内田は書類を素早く取りまとめ、高見のためにコピーを実に手際よく作成した。
「みんな、ありがとう……じゃあ、工学棟へ行きましょうか」
如月がうなずいた。
「行こう」俺は言った。
「私は数学部で待機しているわ。もし何か質問に来る学生がいたら対応するから。神崎くん、何かあったら電話して」
「アカデミーの予算で全てが賄われるなら、工学部は大学レベルの設備や、業界や政府のラボとの共同プロジェクトにアクセスできるのね」彼女の目が光を捉え、眼鏡の奥で鋭く輝いた。俺にはその意図が読めなかった。
「迷子にならないようにね」
高見は好奇心を込めて私たちを見た。
—
空は降りしきる雨で暗くなり、夕方の訪れとともに薄れゆく光が呑み込まれていった。工学棟に近づくにつれ、学生の喧騒は薄れ、代わりに金属製の格子の下から静かに排気される高効率エアフィルターの安定した唸りが聞こえてきた。
建物自体は高くそびえ、モダンな佇まいで、そのガラスのファサードは暗くなっていく空を映していた。キャンパスに点在する古い木造の校舎とは大きな対照だった。この学部だけで過去10年間に数十億円が投じられたと言われており、それは幽玄学園が最先端技術においてトップ大学や国立研究所に匹敵しようとする野心の証だった。
「そういえば、今夜は18時までには出ないといけないんだ。バイトが19時からで、結構遠くて」
「あら? どこで働いてるの?」内田が好奇心を込めて尋ねた。
「京都市役所前駅の近く」
如月が俺を見た。「雨が続きそうね……よろしければ、後で送っていきますよ。急がなくて済みますから」
「本当? 助かる。ありがとう、如月。また借りを作っちゃった」
「お気遣いなく」
「市役所前までは結構な距離ですね。皆さん、通学は大変ですか?」高見が尋ねた。
「俺は寮に住んでるから、通学時間はないよ」俺は言った。
「奥良山! 私の家、莉香ちゃんのめっちゃ近いんだ」内田が答えると、高見もうなずいた。
私たちは皆、好奇心を込めて如月を見た。
「……南禅寺の近くよ」如月が言った。
「わあ……さすが如月家ですね。それなら神崎くんのバイト先の近くじゃないですか」高見が考え込むように言った。
「ねえ、ずっと気になってたんだけど……低い唸り声みたいなの、聞こえない? それとも気のせいかな?」内田が尋ねた。
如月が同意してうなずいた。「感じます。音というより、深い振動のようなものです」
高見の顔が青ざめ、その視線に不安がちらついた。
「私……何も聞こえない」
俺は集中しようとしたが、聞こえたのは窓を打つ雨の見慣れた滴りの音だけだった。
高見は近づき、その動作はためらいがちだった。私たちはあらゆる音に耳を澄ませながら、工学棟へと慎重に進んだ。非論理的な微かな震動の一つ一つが、私たちがまだ答えを知らない問いを囁いていた。
「入る前に……あの人たちの言うことをあまり気にしないでください。先にお詫びしておきます」高見は深くお辞儀をした。
重い両開きの扉で、高見はIDカードを生体認証リーダーにかざして止まった。低いブザーが彼女の認証を知らせ、扉は静かに開いた。入り口の隣には小さなエアロック室が待っていた。私たちは中に入り、学園の靴を滅菌カバーに履き替え、きれいに掛けられた軽量の白衣を羽織った。ろ過され、湿度管理された冷たい空気が私たちを迎えた。外の春雨の湿気は微塵もなかった。柔らかな白い光が、精密な機器が並ぶ清潔な廊下を照らしていた。
「このエリアは準クリーンルームです」高見がポケットを留めながら囁いた。「本格的なISOクラス6や7のクリーンルームではありませんが、ほこりや電磁妨害をほとんどの実験に支障のないレベルに抑えられます」
制御盤の列を通り過ぎると、私たちよりも少し年上に見える学生たちが、静かに集中して作業しているのが見えた。キャリブレーションノブを調整する者、コンピューターで作業する者。
私たちの部室と比べると? うちは教授の退職金と残りカスみたいなチョークの粉で動いてるようなものだ。でもまあ、俺たちのハガロモチョークの積み上げられた箱にはかなり自信がある。
私たちはラウンジルームへと歩いた。高見と俺が先に入った。如月と内田はその後ろに残った。
「プロジェクトの手助けをしてくれる有能な人たちを連れてきました。もうセキュリティチェックは済んでいます。どうか親切にしてください」高見は断言した。
高見の言葉の後、重い沈黙が訪れた。後ろで議論していた学生たちのグループが静かになり、その視線は疑惑と冷たさを帯びた。工学部のメンバーの何人かは顔を見合わせ、囁きが落ち着かない風のように部屋を駆け巡った。後ろから、大柄な人物が腕を組んで前に出てきた。その目は鋭く、懐疑的だった。
「助っ人、ね……いったい何を手伝えるっていうんだ?」彼の声は低く、慎重だった。
「どうやら助言が溢れかえってるみたいだな。気を散らすものはこれ以上いらない」
後ろから声がした。「あれ、奨学金の奴じゃないか? このプロジェクトは数学の宿題じゃないんだ。帰れ」
高見は静かな決意をもって顎を上げた。「私たちのマイクロ気候チャンバーは誤作動を起こしています。システム全体が不安定です。調査と支援のために専門家を連れてきました」
囁きの合唱が上がった。「専門家、ね? で、この天才たちはいったい誰なんだ?」ある学生が嘲るように言った。
俺は誰かが後ろから動くのを感じた。如月が前に出た。空気が変わったように思えた。会話が途切れ、囁きがたどたどしくなった。
「あれは……如月あかりじゃないか」誰かが俺のすぐ近くで息を呑んだ。
「わあ……本当だ」別の者が囁いた。「もしかしたら希望があるかも」
如月は彼らの目をまっすぐに見つめた。「私たちは皆、問題を解決するためにここにいます。時間を無駄にしたり、懐疑心をあおるために来たのではありません。貢献したいなら、協力してください。邪魔したいなら、どいてください。進歩には協力が必要であり、疑念や妨害ではありません」
静かな静けさが部屋中に広がった。誰もあえて疑問を口にしなかった。
彼女の目は一瞬私たちと合い、またそらされた。部屋の敵意の鋭い刃先が鈍った。
まあ――敵意は主に俺に向けられていたけどな。神崎惺夜、ダメージを受けた。
眼鏡をかけた人物が苦笑いしながら私たちに近づき、最後に如月、内田、そして俺に挨拶した。「すみません、皆さん、自分の仕事に集中していて。ようこそ、工学部のラボへ」
—
指導者は不在のようだった。
「佐藤真一です。東京大学の3年生で、このプロジェクトの主要設計者の一人です。幽玄学園の卒業生でもあります。わざわざ来ていただきありがとうございます。高見さんから簡単な説明は受けていると思います。ええと……これは1立方メートルの密閉チャンバーで、量子フォトニクス実験のための安定した環境を作り出すように設計されています。まだいくつかの部分を調整中で、できるだけ精密にしようとしています」
「ホワイトボードに書きましょう」
彼はチャンバーの模式図を描きながら説明した。
「主な役割は、安定した注意深く制御された環境を作り出し、実験を外部の撹乱から守ることです。空気中のほこり、振動、急な温度変化、電磁ノイズなどですね。これらはすべて、私たちが観測しようとしている量子効果を簡単に壊してしまいます」
「量子フォトニクスは三つの大きな分野で重要な役割を果たしています。量子コンピューティング、セキュア通信、産業応用です」
「私たちの見積もりでは、量子コンピュータの能力が向上するにつれ、現在安全とされているRSA鍵を現実的な時間内で破ることができるようになるでしょう。これは数学研究会の皆さんには非常にお馴染みの話ですよね?」
私たちは一緒にうなずいた。内田は身を寄せ、息が俺の右耳に触れるほど近づいた。「ねえ神崎、RSAって何だっけ?」
如月は静かに体を動かし、私たちの会話を聞き取ろうとした。
俺は佐藤先輩の話を遮らないように注意深く囁いた。「データ送信を安全にする暗号アルゴリズムだよ。君も毎日スマホで使ってる」
内田の目がわずかに見開かれ、囁き返した。「ああ、公開鍵と秘密鍵ってやつね」
如月はさらに身を寄せ、その声は柔らかく、俺の左耳をくすぐった。「RSAが機能するのは、大きな二つの素数を掛け合わせるのは簡単でも、その逆をやるのは難しいからです」
内田は何度もうなずき、唇に小さな笑みを浮かべた。「ああ、そうだった」
如月の目は一瞬柔らかみを帯びてから、彼女は体を戻した。彼女たちの混ざり合った香りが一瞬漂い、静かに消えていった。佐藤先輩は続けた。
「私たちはペルチェマイクロモジュールと埋め込み型マイクロ流体冷却ループを組み合わせることで、±0.05℃というサブ度数制御を実現しています。10秒以内です。より速い変化は、過渡的なオーバーシュートを引き起こし、AIが修正しなければなりません」
「その上で、超音波加湿器と『学習』するスマートセンサーを連携させ、湿度を正確に保っています。これは量子ドットのコヒーレンスを維持するために極めて重要です」
「私たちの換気システムは機械学習によるAIで動作しており、あらゆる環境擾乱をリアルタイムで予測し能動的に打ち消すことができます……まるで決して眠らない番犬のようなものです」
「そしてチャンバーの壁は積層構造になっていて、電磁メタマテリアルメッシュで迷走する無線やマイクロ波のノイズを遮断し、粘弾性の防振材で低周波の機械的振動を吸収しています」
流れに乗って俺は尋ねた。「興味深いですね。熱電層内でペルチェ素子だけを使っているのですか?それともマイクロ流体の対流冷却だけに頼っているのですか?」
佐藤はまばたきをし、高見の方を見た。彼女は承認のうなずきを返した。
佐藤は微笑みながら続けた。「いい質問ですね。主にペルチェモジュールですが、マイクロチャンネル内の流体流量変調によって動的に拡張され、熱応答の遅れを低減しています。MEMS統合マイクロ流体冷却についてご存じですか?」
「ある程度は。マイクロチャンネル内で安定した層流と最小限の音響振動を両立させるのは特に低温域では難しいと聞いています」
如月が柔らかく付け加えた。「メモリスタセンサーは適応フィードバック制御を追加しますが、長期間にわたるセンサーのヒステリシスによる温度ドリフトの可能性は考慮されていますか?センサーの再キャリブレーションが必要になるかもしれません」
佐藤はうなずいた。「我々はAI制御と同期した周期センサーキャリブレーションアルゴリズムを適用しています。しかし、あなたが重要な課題を指摘しました」
俺は続けた。「AIシステムに関してですが、トレーニングデータはどのように収集しているのですか?シミュレーションだけでは、断続的なEMIスパイクのような予測不可能な環境変動を完全に捉えられないのではないでしょうか?」
「ハイブリッド学習を実装しています。シミュレーションデータでの初期トレーニングの後、リアルタイムのセンサー入力を使った強化学習を行っています。システムは継続的に適応しますが、まだ未完成です」
部屋は静まり返った。高見でさえ、新たな敬意を込めて私たちを見た。何人かの学生が囁き合い、その目は私たちの間を行ったり来たりした。
内田が俺に近づき、好奇心を込めて尋ねた。「ねえ神崎くん、ごめん、いったい何が起きてるの? ほとんどついていけないんだけど……」
「大丈夫。簡単に言うと、これは密閉された部屋で、環境を完璧に静かで安定に保つことで、外の世界に邪魔されずに量子実験が動くようにしているんだ」
内田は情報を頭の中で処理しようとした。
「チャンバーを、生きるために絶対的な静寂を必要とする誰かだと思ってみて。彼らは完璧なアパートを作った。防音壁、遮光カーテン、絶対的な隔離状態で22度に固定されたサーモスタット。量子実験はその中に住む人間だ。完全に一人でいる限り、彼らは活き活きとしている。しかし外の世界が突然押し入ってくる――突然の騒音、気温の低下、たまたま飛んでくるラジオ波――彼らはパニックになり、システム全体が崩壊する。チャンバーは基本的に究極の孤独者の理想的な部屋で、中に住む『同居人』が邪魔されずに活躍できるようにすべてを穏やかで安定に保っている。学園は良い投資と研究をしているんだな」
内田は俺を遊び心をもって小突き、柔らかく笑った。「なるほどね……だからあなたがプロジェクトにそんなに熱心なのか。ありがとう」
佐藤がようやく沈黙を破った。「システムの微妙な点に対する理解、素晴らしいですね。数学研究会からの訪問者、特にこんなに深く掘り下げるとは思いませんでした」
「どうやら『数学の宿題』以上のようですね」俺は反丸派の群衆を見つめ返した。佐藤と高見は苦笑した。
如月が優雅に唇を覆ってくすくす笑った。「……複雑な問題には分野を超えた協力が必要です。そして数学はすべての固有言語です」
内田が割り込んだ。決然として。「数学研究会は問題を朝食にいただくのよ!」
俺は彼女にウインクし、親指を立てた。彼女は顔を赤らめたが、誇らしげだった。
いいね、内田。まさに必要な時にチーム全体にバフをかけてくれたな。その小さな魔法のような支援が、私たち全員を奮い立たせた。
神崎惺夜、全回復。
—
短いやり取りで、私たちはプロジェクトのロードマップをより明確に理解できた。野心的な目標にもかかわらず、そのプロジェクトには多くの抜け穴や未解決の問題が露呈していた。それが部内や学園全体の混乱と不安を混ぜ合わせていた。
高見が研究の分析結果や書類を私たちに配布した。分厚い書類の束がラウンジの机の上にあった。私たちはちょうど企業の会議室に入るように席に着いた。俺は如月と内田の間に座り、二人の見慣れた香りが徐々に俺の集中力をそらしていくのを感じた。
如月はすぐに書類に没頭し、指を顎に当てて考え込んだ。
高見は付け加えた。「先ほどお話しした通り、またこれらの書類にある通り、局所センサーは数秒で約3~4℃の急速な振動を報告していますが、チャンバー全体の温度は298K付近で正常値を保っています。圧力は約50~80パスカルの変動を示します。絶対的には小さい値ですが、レーザーのアライメントを乱すには十分な大きさです」
量子実験に必要な精度は限りなく細く、どんな擾乱も破滅を招く。
彼女は続けた。「一方で、建物内の不安を煽るような現象も続いています。換気ダクトを通してメトロノームのようなリズミカルなタッピング音が聞こえ、実験室付近には説明のつかない冷たい場所が残り、正体不明の電磁妨害から照明が予測不可能にちらつき、廊下には歪んだ囁き声が流れ、高まる学業的緊張に結びついた霊の噂を助長しています」
内田は震え、ごくりと息を呑んだ。
「私たちはトラブルシューティングを試み、ハードウェアに焦点を当てましたが、分析の深さが不足していました。教員は手一杯で、多忙で圧倒されています……」
部屋は静かな緊張で張り詰めた。エンジニアたちが視線を交わし、その欲求不満が慎重な言葉の下に徐々に現れ始めた。
一人の若い工学部の学生が落ち着かずに体を動かし、ついに声を上げた。声は低いが確かだった。「もしかすると、センサーが根本的な問題じゃないのかもしれない。もし機械的共振がシステムに存在するなら、AIでフィルタリングしても十分じゃない。物理的にこれらの振動を絶縁することに集中すべきだ」
別の者が慎重だが断固として口を挟んだ。「同意する。防振は完璧じゃない。ダクトは微圧変化を運び、近くで重量機器が作動すると、その影響を悪化させる可能性が高い」
佐藤の目がわずかに細められた。その口調は穏やかだが鋭かった。「だとしたら、なぜ誤動作はそれほど混沌としていて予測不可能に見えるんだ? 物理的な共振には通常、一貫性があるはずだ」
高見は考え込むようにうなずいた。「断続的な機械的結合が突然のスパイクを説明できるかもしれない。しかし、冷たい場所やちらつく照明は? それらは機械的なパターンには見えないけど……」
内田が声を上げた。「メタマテリアルの遮蔽コーティングに微小なひび割れが生じ、電磁シールド性が損なわれている可能性は?」
ある技術者が慎重に答えた。敬意と確信のバランスをとりながら。「遮蔽の設計仕様は通常の環境ノイズを上回っています。ちらつきや冷たい場所が本当なら、代わりにソフトウェアエラーやセンサーの誤測定に直面しているのかもしれません」
如月が身を乗り出し、声は柔らかだが確信を持っていた。「ランダムなセンサーノイズは混沌とし、相関のないデータを生み出します。しかしこれらの異常は、温度や気圧といった環境変数と強く相関しています。これは機器の故障ではなく、非線形の動的干渉を示唆しています」
佐藤は息を吐き、姿勢を正した。「そうだ……非線形力学は単純なモデリングには従わない。私たちのAIは本質的に非線形な擾乱に対して線形補正を適用し続けている」
如月は続けた。「チャンバーはまるでダフィング方程式のようなものに支配された非線形発振器のように振る舞っています。そのようなシステムはカオス的アトラクターに滑り込む可能性があります。そこではわずかな摂動が大きく異なる結果を生み出します」
彼女は書類に印刷された位相ポートレートを軽く叩いた。「この奇妙なアトラクターが見えますか? 方程式は完全に決定論的ですが、長期的な予測は事実上不可能です。それがAIが失敗し続ける理由です。カオスを線形的な絆創膏で鎮めようとしているんです」
彼女は本当に頭の中で三次のカオスシステムをダフィング近似まで落とし込んだのか?
私たちの残りが緩んだネジや擦り切れたケーブルを探している間に、彼女は頭の中でチャンバー全体を三次元位相空間上の奇妙なアトラクターにマッピングしていたのだ。
部屋は静まり返った。懐疑的な上級生でさえ、視線を交わした。
「その通りだ、如月さん」佐藤が呟いた。
彼ら全員が同意した。「そうだ、如月さんの言う通りだ」
つまり、こういうことだ。もし優しく定期的に押せば、ブランコはスムーズで予測可能な前後運動をする。数回押した後にどこにあるか正確にわかる。しかし時々、異なる強さや異なるタイミングで押すと、ブランコは非常に奇妙な動きを始め、不意に飛び回ることがある。予期しない方向に行くかもしれない。これはまさに実験チャンバーの中で起こっていることに似ている。機械やコンピューターは物事を安定で穏やかに保とうとする――ブランコをスムーズに動かそうとするようなものだ。しかし温度や気圧など多くのものが奇妙な方法で変化し続けるため、システムは「カオス的な」振る舞いを始める。次に何が起こるかを予測することが非常に難しくなる。ブランコの動きが制御不能になるように。
「如月さん、そして数学研究会の皆さん。これまでのご意見、誠にありがとうございます。少し休憩にして、まず情報を整理し、頭の中を整理しませんか?」
「ありがたいです、佐藤先輩。ありがとうございます」俺が言い、彼はうなずいた。
研究室のエアフィルターの唸りが沈黙を満たす中、私たちはチャンバーの洗練されたシルエットから離れた静かな隅に集まった。俺は深く息を吸った。
「さて、これらの誤動作の原因を独立して突き止める必要がある。まずはチャンバーのログとデータを調べて、パターンや異常がないか確認しよう」
如月の目が近くのコンピューター端末に向いた。「データ分析を担当します。そのロギングソフトウェアには慣れています」その落ち着いた態度の奥に、研ぎ澄まされた集中力が隠されていた。
内田はかかとで弾み、飛び込みたがっていた。「私も手伝う」
「よし、その間にチャンバー自体を調べてみよう。特定できるハードウェアの問題があるかもしれない」
佐藤が介入し、眼鏡を直した。「チャンバーの構成部品を案内し、必要なことを説明できますよ」
「それは大いに助かる。それから後で工学部のメンバーにも話を聞いてみよう。何か変なことに気づいていないか、手がかりになるかもしれない」
近くに立っていた高見は腕を組み、決意の表情を浮かべた。「チームを集めて、インタビューの準備をするわ。彼らが持っている情報は全部入手する」
「よし、一時間後にここで何がわかったか報告しよう」
うなずきを交わし合い、私たちは散った。
俺は如月を一目見た。彼女の穏やかな表情は決意に満ちて柔らかく、端末へと向かっていた。内田の活力に満ちた足音が廊下に柔らかくこだました。高見は再び俺を見て、微笑みをくれた。
如月は時計をちらりと見て、それから俺の目を捉えた。一瞬、眉を上げて合図を交わし、時間を気にするよう静かに思い出させ合った。その瞬間、落ち着いているが言葉にできない何かが空中に漂った。まるでどちらもまだ認める準備ができていない静かな誘いのように。




