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数学研究部は問題なんて朝飯前:擬素数  作者: 数式舞
数学研究部は問題なんて朝飯前 :擬素数
4/15

第三章:記憶の螺旋

3.1


また、漂っていた。


広大な星の海。そこでは数学と現実が星座のように複雑に絡み合い、暗い天を背景に無言の模様を織りなしている。


目の前に広がっていたのは、三次元の空間に滑らかな軌跡を描くオイラーの螺旋だ。


  e^(iϕ)=cosϕ+isinϕ


実軸に沿って安定した波を描くコサイン関数と、それに対して直交する虚軸の上を規則正しく上下するサイン関数。二つの波は、永遠の運動の中に閉じられたまま踊り続ける。直交しつつも、決して交わらない。


やがて視界の端から一隻の帆船が現れた。風を孕み、淡い絹のように優美に膨らむ帆。その甲板の端に、如月あかりが立っていた。冷たい月明かりが彼女の青白い横顔を照らし出す。怯えはない。ただ、はるか遠くの水平線を見つめていた。呼びかける間もなく、彼女の身体はふっと傾き、夜の海へと飛び降りた。


「如月──!」


身を乗り出したが、黒い波は一瞬で彼女の細い輪郭を飲み込み、手は空を切る。残された船体は、狂おしいほど緻密な流体力学の偏微分方程式に従って、ただ静かに水面で浮き沈みを繰り返していた。船底が水を押し下げ、水は全く同じ力で船体を押し返す。流体の圧力差がもたらす冷徹な調和。


その力学を脳内で必死になぞり、全てのピースが噛み合わさりかけたその瞬間──目覚まし時計の鋭い電子音が、無慈悲にその平衡を打ち砕いた。弾かれたように飛び起きる。心臓が肋骨の裏を不快なリズムで叩いていた。夢の最後の断片が、まだ網膜の裏で白く渦巻いている。


洗面所で顔を洗う。蛇口から出た冷たい水が感覚を強制的に研ぎ澄まし、寮の障子を透かして差し込む、淡い朝の光の中に引き戻した。


部屋に戻り、無意識にマーカーを手に取ってホワイトボードの前に立つ。しかし、何も書けない。キャップを嵌めたままのマーカーを握り、彼女が漆黒の海へと落ちていく映像を、ただ呆然とリプレイしていた。


首を大きく振り、雑音を払う。夢の断片が、脳内で数字や数式へと結晶化していく。ゆっくりと、注意深く、俺はホワイトボードにマーカーを走らせ始めた。


船体が押しのける水の体積、帆が発生させる揚力のベクトル、表面全体で不均一に変化する圧力の偏微分方程式。オイラーの公式と近代船舶工学の融合。それはまさに、18世紀の科学が到達した、合理的で最も美しい頂点の一つだった。


ホワイトボードの上に構築された完璧な物理世界を後にし、手早く制服に着替え、予定表を確認すると、カバンを掴んで食堂へと向かう。


3.2


食堂は、朝の喧騒でざわざわと不規則に脈打っていた。見知らない生徒たちの顔、トレイがカチャカチャと擦れ合う硬質な音、幾重にも重なる話し声。そして、それらの雑音を切り裂くような味噌汁の鋭い香りが空気に混ざる。人混みが本質的に苦手だ。騒がしさと慌ただしさが、まるで心の静寂を乱す嵐のように、じわじわと神経をすり減らしていく。温かい朝食がドアの向こうに届けられ、静かな孤独の中でそれを味わうことができたら、どれほど救われるだろう。現実のシステムにはそんな贅沢な例外処理は用意されていない。


人混みの隙間を縫うように進む。トレイを両手で持ちながらも、心はまだあの夢の感触に引っかかっていた。星野先生のからかうような声、黒板に描かれたあのループする曲線。しかし、やはり如月のあの冷たいイメージが、意識を重く地面に繋ぎとめていた。最も経済的な和食の組み合わせを選び、食堂から繋がる屋外のオープンスペースへと出た。


春の名残の花々がピンクと白のグラデーションで小道を溢れかえらせ、陽光を反射する池の静水が、古い木造校舎の壁を綺麗に反転させている。鳥のさえずりと、頭上で重なり合う優しい葉擦れの音。庭園の小道を歩きながら、その静けさを味わっていると、かすかな違和感に気づいた。重なり合う葉擦れの音の奥から、軽やかで、極めて慎重な足音がしばらく後ろをつけてきている。


高めの周波数。軽い足取り。短く一定に整えられた歩幅は、後ろの人物がスカートを穿いているか、あるいは身体の重心移動を完璧にコントロールできる優雅な作法を身につけていることを示唆していた。歩行のリズムや接地音を最小限に抑える、磨き上げられた洗練された所作。


「朝食前にストーキングするのは、あまり良い趣味だとは思えないんだけど」


確信を持って声をかけ、振り返る。そこにいたのは、如月あかりだった。


陶器のように滑らかな白い肌が、艶のある黒髪と深い瞳に鮮やかなコントラストを描いている。その佇まいは、現実の光の中にいながら、どこかそこだけ空気の密度が違っているかのような錯覚を覚えさせた。


「……あら。偶然ね、神崎くん。こんなところで会うなんて……」


予想外の指摘に慌てたようで、如月は大きな目を泳がせ、不自然に視線を逸らした。あからさまな動揺だった。そっとため息をつく。


「いや、完璧なタイミングだ。実は、俺もあなたを探していたんだ。昨日の部室でのことで、少し謝りたくて──」


「どうか、謝らないでください、神崎くん」


俺の言葉を遮るように言い、それから一歩下がって深々とお辞儀をした。


「私の方こそ、あなたを探していました......昨日の部室での、私のあまりに無礼な行動と、過剰な拒絶反応をお詫びしなければなりません」


驚いた。これほど真っ直ぐに、自分の非を認めて責任を取ろうとする人間がこの学園にいるのだろうか。

他人から真摯な謝罪を受けることに致命的に慣れていない俺は、無意識に左手が動き、首元をきまり悪そうにかいた。それでも、少しの勇気を振り絞って言葉を繋ぐ。


「……もしよかったら、一緒に朝食をとらない?」


如月は、ほとんど聞き取れないほどの小さな呼吸を漏らし、きれいに切り揃えられた髪の一房を耳の後ろへとかけた。かすかに揺れる黒髪。彼女の唇の端に、警戒を解いた微かな微笑みがちらりと浮かび、ほとんど気づかれないほど小さく、だが確実な頷きが返ってきた。




3.3


庭園の端にある、陽に晒されて風化した木製のテーブルに席を占めた。如月の視線は、頑なに卓上の一点へと落ちている。細い指がぎゅっと複雑に組み合わされ、指先が白くなるほど強く結ばれていた。それから、まるで脳内のスイッチを切り替えるように、彼女は表情をいつもの静かな、何者も侵入させない鉄壁の静けさへと整えた。


「おはようございます、神崎くん」


声は、驚くほど落ち着いていた。


彼女は、予想していたよりもずっと近くに座っている。その身体が放つ微かな温もりの存在感と、衣服から漂う繊細な香りが空気に混ざり合う。昨夜、車内で触れた星野先生の肉感的でスパイスの効いた香水とは、明らかに違う、どこか禁欲的な香り。


「おはよう……」俺は自分の声をできるだけ平坦に保とうとしながら言った。「如月さんは、もう朝食は食べたの?」


「ええ……家で済ませてきました」

 どこか形式的な小さな微笑みを浮かべて答える。


「ちなみに、何を食べたの?」


「いつものです。抹茶あんぱん、ソフトミルクブレッド、ゆず茶碗蒸し、鮭ごはん、それからお漬物を少し。あとはゆずとベリーのフルーツサラダに、ヨーグルト。毎日同じメニューなので、もう味も気にしていません。ただの……私のシステムとしての朝食ですから」


俺は危うく、手に持った箸を落としそうになった。ちっとも退屈なメニューじゃない。どこかの最高級ホテルのブランチみたいな贅沢なラインナップだ。一方の俺は、手元の質素なトレイを見つめ、これが「まともな食事」の定義に含まれるかどうか、日々脳内で不毛な神学論争を繰り広げているというのに。


「料理は好きなの?」


パックの納豆をかき混ぜながら、粘り気のある白い糸が何重にも伸びていくのを見つめる。

如月は、少しだけ疲れたような影のある微笑みを浮かべた。


「……いいえ。我が家の専属シェフが用意してくれます。お皿の上では完璧な温度と色彩に整えられているのですが、いつも、ほんの少しだけ冷めているんです」


「俺の朝食なら、温もりだけはたっぷりあるよ」

少し熱心に豆を混ぜすぎた自嘲を込めながら、パックを差し出した。


「もっとも、この発酵豆を大人しくさせようとする、箸との摩擦熱のせいかもしれないけど。よかったら、一口試してみる?」


彼女は俺の手元と、規則的に繰り返される混ぜる動きをじっと目で追いながら、制服の袖の端を折ったり広げたりと、そわそわと動かしていた。それから、ふっと視線が真っ直ぐに交わる。


「食事の内容そのものには、本来大きな意味はないのかもしれません。席を共にする人間の存在が、その味覚の変数を決定する。適切な非対称性が存在すれば、どんなに質素な料理であっても、格別の味わいに変わるものです」


ピタリと手を止める。納豆の長い、粘り気のある半透明の糸が、器と空気の境界線で危うい平衡を保ったまま伸びている。


「……それは、確かにそうだね。でも、少なくとも消化のためには、食事中に物理の極端な単純化のジョークを嬉々として説明したがるような奴とは、丁重に席を辞退させていただきたいところだけど」

 彼女の口元から、ふっと小さなくすくす笑いが漏れた。


「でも、気をつけて、神崎くん。論理を詰め込みすぎると、すぐにロンリーになってしまうわよ」


「まあ、数学科の人間なんて大抵は社会から隔離されてるからね」


実体験としての実感を込めて言う。あの世界的なパンデミックの隔離期間中、俺は生活のリズムも内面も全くの通常運転だった。自分というシステムは、外部の環境に左右されないほど最初から冷え切っている。


「神崎くんはどうですか? 学食のメニューは、ちゃんと満足できるものですか? あなたの……そのしっかりとした体格からすると、もう少し高カロリーな燃料が必要な気がしますけれど」

彼女は俺の安価なトレイの上に視線を走らせ、瞳の奥に好奇心を小さくちらつかせながら尋ねた。


「ええと……驚くかもしれないけど、ちょっと金銭的に厳しいんだ」

自嘲気味に笑って白状する。


「奨学金のおかげで、なんとかこの幽玄学園に滑り込めたようなものでね。これも星野先生の推薦と、あとはバイト中に出会った、かなり胡散臭い卒業生の紹介のおかげなんだ」


味噌汁を一口すすり、温かい液体が胃に落ちるのを感じながら、話の核心へ進むための糸口を慎重に探る。


驚きと、どこか遠い懐かしさのような光が彼女の顔を一瞬だけよぎり、すぐにいつもの冷徹な仮面の下へと消えた。


「素晴らしいわ。幽玄で特待奨学金を維持するのは、並大抵のことではありません」

柔らかく、しかしどこか含みを持たせて言った。視線を落すと、一筋の黒髪が彼女の白い頬に細い影を落とす。


「もし……よろしければ、いつか私と一緒に朝食を召し上がりませんか? 我が家のトレイには、いつも私一人では持て余すほどの量が用意されていますから。それに、食事をしながら、一緒に数学の問題を解いたり……その、お互いの研究を少しだけ共有できたら、と」

彼女の指先が、言葉の終わり際にそっと震えた。本物のファイブスター・ブレックファストの提案。


「本当に? それは願ってもない誘いだけど……俺なんかで、如月の迷惑にならない?」


「いいえ、全然。むしろ、私の方からお願いしたいくらいです」


今度は隠さずに綺麗な微笑みを浮かべた。ふいに気まずい視線の交錯があり、短い沈黙が訪れる。朝の穏やかな空気の、低い環境音だけが周囲を満たしていった。


「昨日のあなたの黒板での解法、あのガンマ関数の変形は、とても示唆に富んでいました。どうして、あんなに簡単そうに解線を描けるのですか?」


「ただの、当たり前の手続きを積み重ねてきただけですから」

俺が納豆ご飯と卵焼きを綺麗に平らげたのを見計らって、彼女が言った。


「それに、数学者にはそれぞれ、世界を切り取る独自のフィルターがあるものなのでしょう?」彼女が静かに首を傾げると、俺の瞳孔がわずかに開き、膝の上の指が再び微妙にそわそわと動き始めた。


「経験、ですか。……ところで、如月は数学の専門的なトレーニングを、どれくらい続けているのですか?」

トレイを片付けるために立ち上がりながら、何気なく尋ねた。


「三歳から、始めました」

どこか遠くを見るような寂しげな微笑みを浮かべて答える。


「練習に代わるものは存在しません。五歳の頃には大学レベルの抽象数学のテキストを扱い、専門書を読んでいました。競技数学としての専門的な訓練を強制されたのは、九歳頃です。……神崎くんは?」


「俺は、十三歳になるまで、本当の意味での視点を持っていなかったんだ。星野先生に出会って、数学という言語に対する、そして世界に対する考え方が根本から書き換えられた。あなたが昨日、部室で言ったように──ただ漫然と公式を適用して解くのではなく、問題の背後にある隠された論理や、出題者がそこに歪みを持ち込んだ理由を、ようやく理解し始めたんだ」

 小さくくすくすと笑う。


「数学の合宿で何度か如月の姿を見かけていたけど、今まで実際に言葉を交わしたことはなかったね。本当に数学が好きなんだな」


「あら……? 私、合宿でのあなたのことを、まったく覚えていません」

 申し訳なそうに苦笑した。


「大丈夫、慣れてるから」


「実は、あの頃は周囲のノイズを完全に遮断して、トレーニングだけに没頭しすぎていたのです。周りの人間に気を配るだけの容量(リソース)が残っていなかった……ごめんなさい」

 それから、彼女は一瞬だけ、完全に焦点の合わない虚ろな目で遠くの空間を見つめた。


「数学と思考の中にいるときだけが、私が本当に自由だと感じられる唯一の空間なのです」


「それこそが如月の圧倒的な才能だよ。そこまで一本の線に集中できるリソースは、誰にでも与えられるものじゃない。見習わなきゃな……俺の思考は、すぐに退屈してあちこちへ飛び回ってしまうから」


「とんでもない。それは決して、良い性質ではないのです……私……」

 彼女は言葉を途中で飲み込んだ。さっきまで衣服の裾をそわそわと弄んでいた指が、張り詰めたようにピタリと静止する。


「私は──」

 その時、朝の予鈴の鋭いチャイムが、庭園の静けさを無慈悲に切り裂いた。


「如月、この話の続きはまた放課後にでも。楽しい朝食だったよ。あと……昨日は、許可なく書庫のログブックに触ってしまって悪かった」


「どうか……気にしないでください。あなたの問題ではありません。どうぞ自由に、あの部室の書庫や資料をお使いください」


彼女は柔らかく言い、優雅な所作で立ち上がると、細い指でスカートの裾の皺をそっと整えた。


「じゃあ、トレイを返して、ちょっと身支度してくる。また後で、教室で」

 慌てて荷物をまとめ、彼女に軽く手を振ってその場を離れる。


 トレイを返却口へ運ぶ途中、彼女の後ろ姿を視界の端で見送った。凛とした優雅なシルエットが、建物の間に続く回廊へとゆっくり消えていく。周囲を歩く何人かの生徒たちが、好奇の目を彼女に向けては、すぐにこっそりと視線を逸らしていた。彼女が通り過ぎるルートだけ、人混みが不自然に広い間隔を開けて避けていく。その歩調が、周囲の空間の幾何学を静かに歪めていくかのようだった。


もっと早く如月と話す勇気があれば、俺の数学の地平ももう少し広がっていたかもな……まあいい、今さら過去の関数を悔やんでも仕方がない


トレイを返し、身支度を整えて、第一講義室へと向かう。キャンパスは活気に満ち溢れていた。小道を縫うように歩く生徒たちの群れ、無数の会話で満たされた空気、古いレンガの壁や掲示板にびっしりと貼られた、今後のイベントや学術コンテストのポスター。


近くでは、風紀委員の鋭い声が騒音を切り裂いている。「シャツの裾を入れなさい! 姿勢を正して歩く!」


パニックになった一年生の小集団が、慌てて俺の脇を通り過ぎていった。


「おい、田中先生の小テストの範囲ノート、見たか?」一人が絶望的な声を漏らす。


「絶対に酷いことになる」別の生徒が重いため息をつく。「あの人、僕たちを人間だと思ってないからな」


さらに進むと、並木道の陰で二人の男子生徒が声を潜めて囁き合っていた。


「工学棟の、あの古い地下研究室の怪談、知ってるか? 日が暮れてからあの前を通ると、換気口から、風の流れとは完全に逆の方向に動く、凍りつくような冷気が吹き出してくるんだって……まるで見えない手が、肌をかすめていくみたいに」


「やばいな。俺、昨夜遅くに換気シャフトの近くを通りかかった時、中から何かをゆっくりと一定の間隔で叩くような、不意味な音が聞こえた気がするんだ」


この学園には、様々な歪みを抱えた天才たちがいる──如月あかりがその筆頭であるように、その輝きは予測不可能さと同義だ。少し先では、三人の学生が図書館の外のテラス席に突っ伏していた。目は完全に充血し、冷めた缶コーヒーをがぶ飲みしながら、自己の存在を忘れかけている。対照的に、その横の広い道からは、洗練された衣服をまとった華やかなグループが歩いてきた。一人はスマホで市場分析の高度なチャートをチェックし、別の者は外資系トップ投資会社でのサマーインターンシップの枠をいかにして確保したかを、何気ない調子で自慢し合っている。起業家志望の群れは「既存のプロダクトのバックエンドを完全に置換すれば、来月にはシード期の資金調達を確実にクローズできる」と目をぎらつかせ、量子コンピューティングのプロジェクトを語る技術伝道者たちは「現在我々が生きているこの空間シミュレーションそのものをハッキングする」と、オカルトめいた理論を大真面目に唱えながら俺を追い抜いていった。自分たちが現実のレイヤーを書き換える決定的な一手を握っていると、本気で確信しているのだろう。


講義室へと近づくにつれ、それらの耳障りな騒音は次第に減衰し、キャンパスの最奥に位置する、どこか静謐な静けさに取って代わられた。


ここは通称「アイ・ハウス」──「内向聖域(アイ・ハウス)」。


世間一般の「実利的な就職活動」から最も遠いとされる、純粋学問科目の本拠地だ。抽象数学、宇宙論、素粒子物理学、多段階有機合成、神経情報学、それらの研究室はすべて、あの数学研究会の部室がある古い建物の近くに、世間から隠されるようにひっそりと佇んでいる。


どこかのリクルーターは「エントリーレベルの初級職であっても、最低5年の実務経験を要求する」と吐き捨てていたが、最初のステップでその経験をどう錬成しろと言うのか。初職がそれを要求するなら、それはただの論理的な矛盾か、さもなくば無給の奴隷経験を暗に強要しているだけではないか。


今日の選択科目は、「高度実解析」の最初のセッションだ。部屋に入る前から、そこにいる顔ぶれは容易に想像がついた。


入り口の重厚な掲示板で、講義室の番号とクラスリストを確認する。受講生は、わずか計5名。

担当講師:星野映奈博士。見慣れた名前だ。短い学生リストの中に、如月あかり、そして俺自身の名前が並んでいた。これじゃ、ただの数学研究会の出張サークルじゃないか


重厚な木製のドアを押し開けると、古い年輪の木材と磨き上げられたオークの豊かな香りが迎えた。その部屋が持つ独特の静かな気品が、足元から感覚を落ち着かせてくれる。階段状に組まれた講義室に足を踏み入れると、案の定、見慣れた顔が俺を待っていた。


室内には、知的な期待感を含んだ柔らかな囁きが満ちている。座席は、星野先生が立つ教壇の周囲を、緩やかな同心円状の曲線で囲むように配置されていた。高い位置にあるステンドグラス風の窓から柔らかな自然光が差し込み、部屋全体に穏やかな陰影のグラデーションを落っことしながら、背後に控える広大な黒板を厳かに照らし出している。


最前列の、教壇のチョークの粉が届く位置が俺のいつもの定位置だ。如月がすでにそこに座っているのを見つけ、静かに歩み寄ってその隣の席を確保した。


「見てみろよ。安定したキャリアとまともな社会生活を綺麗にドブに捨てて、純粋な抽象数学という茨の道を選んだ物好きたちの集まりだ」


文房具を卓上に広げながら、小声で言う。


「これこそが、私たちの硬質な心が現実の摩擦から解放されて、真に自由に羽ばたける唯一の空間であり時間です。極めて素晴らしい選択です、神崎くん」


如月が、前を向いたまま澄んだ声で応じた。


他のわずかな学生たちがぞろぞろと入ってくるが、一人だけ、明確に席が空いたままの者がいた。星野先生は事前に、一部の学生は研究室からの遠隔(リモート)でこの講義を視聴すると言っていた。教壇に現れた星野先生は、俺の姿を捉えると、唇の端で含み笑いを作るような微かなウインクを投げてから、チョークを手に取った。


「高度実解析の講義へようこそ。このクラスでは、皆さんがすでに知っていると思い込んでいる全ての普遍的な事象を、一から厳密に証明していきます。……そして、そのさらに先へ。もし講義の途中で、自分が今生きている現実に疑問を感じ始めても、どうか心配しないでください。それは単に、数学という名の真理が、あなたたちの脳に直接語りかけているだけですから」


狭い講義室の中に、小さなくすくす笑いが広がる。


「この講義の終わりまでに、皆さんは解析学の基本定理を厳密に証明・応用する能力、関数空間に関する極めて複雑な積分問題を解く技術、確実に純粋数学の最前線へと進むための、揺るぎない基礎を身につけることになります」


星野先生の圧倒的な講義のペースに没頭し、猛然とノートを取り続けた。しかし、その途中で、予期せず隣に座る如月のさりげない存在感に、どうしても注意を引かれてしまう。彼女の周囲から漂うあの繊細な香りが、ほんの一瞬だけ思考のフォーカスを乱す。興味をそそられて彼女のノートを視界の端で盗み見ると──ひとつひとつの数式や文字が、まるで幾何学的に配置されたかのように整然としており、その筆跡は完璧な一貫性を保っていた。


 集中力は、黒板の上を踊る星野先生のチョークと、如月の静かな一連の動作の間を、まるで振り子のように交互に行き来した。彼女が難解な概念の局面でわずかに眉をひそめ、上体を少しだけ前のめりにし、人差し指の背で鼻筋をそっとこする。そのすべてのディテールが、妙に鮮明に網膜に焼き付いていた。前面の二つの巨大な黒板は、またたく間に白い方程式と記号で埋め尽くされ、星野先生はその速度を緩める気配を一切見せない。講義の終了間際、先生はチョークの先端を黒板に強く押し当て、一つの問題を書き残した。

 

A をバナッハ環(Banach algebra)とする。任意の x ∈ A と φ ∈ A∗ に対して、関数 f(λ) = φ((λ − x)^(−1)) が、領域 Ω = C − σ(x) 上の解析関数であることを詳細に証明せよ。

 

如月は、俺が問題の構造を咀嚼するよりも早く、手元でペンを走らせ始めた。この問題に取り組むルートは、大きく分けて二つ存在する。一つは、初等的な微分積分学の定義と作用素の連続性に依拠し、レゾルベント写像の直接微分、およびバナッハ環における乗法と逆演算の連続性を丁寧に展開していく方法。

もう一つは、より構成的なアプローチ──定点 λ0 の周りでレゾルベント(λ − x)^(−1) をノルム収束する冪級数へと明示的に展開し、その解析性をダイレクトに示す方法。すなわち、古典的なノイマン級数によるアプローチだ。


俺は後者のノイマン級数を選択し、できる限り最速のロジックで書き進めたが、如月はそれよりもさらに早く、ペンを机に置いて思考を完了させていた。解答を比較するのが、待ちきれなかった。ノイマン級数による収束半径の証明を書き終えたところで、ふと隣を見ると、如月がそっと目を閉じ、青白い額に微かな汗を浮かべているのに気づいた。少し呼吸が浅い。


「……俺はf(λ) = φ((λ − x)^(−1))の解析性をノイマン級数を使って、より明示的な形で展開してみたんだけど。如月さんの意見を聞かせてもらえる?」

彼女の意識をこちらに繋ぎ止めたくて、自分のノートを少しだけ彼女の側へと滑らせた。


「あら……面白いアプローチですね。ノイマン級数を用いることで、レゾルベント集合上での挙動が非常に具体的、かつ視覚的に明示されますものね」


数学の対話が引き金になったのか、彼女は目を開けると、それまでの疲労を吹き飛ばしたかのような知的な光を瞳に宿して答えた。


「できるだけ展開を具体的に構築したかったんだ。冪級数の収束半径が自然な形で現れる様子を示せば、とても実践的な手触りが残ると思って。ただ、少し泥臭すぎたかもしれない。気になるんだけど、如月はどんなアプローチを取ったの?」


少し気恥ずかしさを覚えて頭をかくと、彼女は柔らかな熱意と、どこか謙虚な響きを声に混ぜて言った。

「私は、正則汎関数計算の視点からこの構造を探求しました。少し抽象度が高くなりますが、レゾルベントをバナッハ環における根本的な解析的対象として定義し、スペクトル理論のより深い階層へと直接結びつけることができます」


「なるほど、それは完全に俺の想定を超えているよ」


 素直に脱帽した。


「正直に言うと、汎関数計算については専門書で目にしたことがある程度で、それが実際にどう機能するのか、具体的な解線への落とし込み方はよく分かっていなかったんだ。その視点から、どうやって解析性を導き出すの?」


「基本的には」

彼女は、まるで複雑なパズルを解き明かす子供のような純粋さで説明を始めた。


「その計算空間を導入することで、要素xの正則関数を極めて厳密に取り扱うことが可能になります。レゾルベント写像 f(λ) = φ((λ − x)^(−1)) は、定義上、レゾルベント集合上で定義された A値の解析関数です。作用素 φ は連続線形写像ですから、それをレゾルベントと合成すれば、複素平面上のスカラー値としての解析関数が自動的に、かつエレガントに導き出されるのです」


「つまり……レゾルベントを単に展開可能な一つの関数として見るのではなく、もっと巨大な、包括的な解析的構造のパーツとして最初から扱っている、ということか」


「まさにその通りです。より概念的な、高次の視点と言えます。でも、神崎くんのアプローチは驚くほど明確で美しいわ。抽象的な理論を、目に見える明示的な級数展開として定着させている。美しいと思っています 」


「いや、そんなことはない。俺の解答は、ただの初等的な力技だよ」

 本物の天才の視点を前にして、胸に純粋な謙虚さが満ちていく。


「如月、その正則汎関数計算のアプローチは、一体どこで学んだんだ? 息をのむほどエレガントだ」

 彼女は、そっと、はにかむように微笑んだ。


「いくつかの、古典的な専門書からです。──ダンフォードとシュワルツの『線形作用素』、ボンサルとダンカンの『完備ノルム環』、それから……加藤敏夫先生の『摂動理論』。星野先生の講義は、私の頭の中でバラバラだったそれらの点と点を、完璧な線で結びつける補助線になってくれました」


「星野先生の講義は、本当に底が知れないよね。どんなに複雑で歪んだ話題であっても、まるで手品みたいに簡単に紐解いてしまうから、気づけば一時間が一瞬で溶けていく」


「ええ。深い理論の海を、正確かつ圧倒的な速度で織り上げていくあの構成力は、まるで魔法のようです。彼女のような先達から直接学べる私たちは、本当に幸運だと思います」


「よし、放課後にでも図書館か、丸善京都書店に行ってみる」


「それならわざわざ遠出をしなくても、数学研究会の書庫にすべて揃っていますよ」


未知の真理を発見した時の、言葉にできない純粋な興奮。そして、お互いの思考に対する確かなリスペクトが、二人の間の空間を心地よく満たしていく。二つの全く異なるルートが、最終的に同じ解答へ辿り着く。ただそれだけのことが、奇妙に心地よかった 。


ふと前方へと視線を戻すと、教壇の星野先生が、こちらのやり取りを満足そうに見守りながら、小さく頷いているのが見えた。星野先生、ほしいの?


選択科目の時間が終わり、次は全員共通のホームルームだ。俺たちは並んで一般教室へと歩いた。

教室に入ると、いつもの元気で騒がしい内田の輝きが、奇妙に消え失せているのが目に入った。彼女は静かに席に座り、目を伏せたまま、人差し指で机の木目に沿ってぼんやりと意味のないパターンをなぞり続けている。


遠くの空間を見つめたまま、深い思考の底に沈んでいるようだった。


「ねえ、内田、どうしたの? 選択科目の内容が退屈すぎて、脳のニューロンが停止した?」

声をかけると、彼女はハッと我に返った。


「あっ、あかりちゃん、神崎くん。……ううん、別に何でもないの。ただ、さっきの講義の内容が、私のキャパをちょっと超えてて……」


「内田さんは、何の科目を取ったのですか?」如月が尋ねる。


「ミクロ経済学……。でも、グラフの線がどっちに動くのか全然分かんなくて、もう科目を変更しようかなって思ってるところ。二人は何を取ったの?」


「俺たちは同じクラス。星野先生の高度実解析だよ」


「うわ、やっぱりね……うらやましいな。でも、三人ともホームルームが同じなのは、やっぱり落ち着くよ。……あ、そういえばさ、工学棟の研究室の変な噂、二人は聞いた?」


「ううん、全然知りませんけれど」如月が首を傾げた。


「誰かがさっき、建物の構造の異常について廊下で話しているのが聞こえちゃって」

 内田は少し身を乗り出し、声を潜める。


「友達の莉香ちゃんが工学系の部活に入ってるんだけど、三週間後に大きな科学コンテストがあるんだって。でも、プロジェクトの数値がどうしても噛み合わなくて、しかも『あの建物には幽霊が出る』って怯えてて……。二人とも、そういう超常現象って、本当に存在すると思う?」


「あるよ。今朝も雪女にストーキングされたし」


「えっ、なにそれ」


 俺が平然と言うと、隣から如月の、物理的な圧力を伴うような冷淡な視線が突き刺さるのを感じた。


「まあ、幽霊って壊れた囁きみたいなものだよ」


「そうなのかな……」内田は再び指を動かし、何か深い考えに囚われたように呟いた。

 ホームルームの鐘が鳴り、担任の教師が教室に入ってくるまで、俺たちはとりとめもない世間話で、ただ時間を埋め続けた。



 3.4


金曜日。今週の最後の授業は、いつもより早く終わりを告げた。

本館にある「グランドアーカイブ」へと足を向ける。午後の遅い斜光が、建物の巨大なガラスファサードに反射し、石畳の道に幾何学的な光の破片を散らしていた。優しいそよ風が、庭園に咲き誇る紫陽花の微かな香りを運んでくる。


グランドアーカイブは、時間の流れから完全に隔絶されたような空間だった。伝統的な京都の木造職人技の柱と、床から天井まで届くモダンなガラスパネルが見事に融合し、内部に温かく厳かな自然光を均一に注ぎ込んでいる。透明な壁の向こうには、青々とした苔と石灯籠が配置された手入れの行き届いた日本庭園が広がり、その空間全体を、確かな自然と伝統の歴史に根ざしたものにしていた。


部会が始まるまで、まだ十分な時間がある。星野先生から提示された宿題──この学園の書庫に眠る、過去の歪みを調べるための時間だ。


受付カウンターに近づく。静寂の中に響いた、微かで満足げな「カチッ」という小さな音が耳を捉えた。

そこにいたのは、端正な顔立ちをした司書だった。カウンターに整然と積み上げられた返却本の影に半分身体を隠すようにして、自分の唇のケアに集中している。口紅のアプリケーターが、滑らかな動作で静かに滑る。それは他者に見せるための誇示ではなく、彼女自身のプライベートな寛ぎのためのルーティンだった。リップの艶が、唇の表面にある微かな乾燥の痕跡をすべて消し去っていく。


足音に気づいた瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。瞬時に、リップポーチが視界から滑り落ちるように隠され、彼女は何事もなかったかのようにプロフェッショナルとしての態度を回復する。


磨き上げられた木製カウンター越しに視線が交差した。彼女は、訓練された営業用の微笑みで俺を迎える。しかし、頭上の照明の光が奇妙な角度で彼女の唇を捉え、本来の柔らかな輝きではなく、どこか人工的で鋭いきらめきを反射させていた。


「本日はいかがなさいましたか?」


カウンターの端に、図書委員のシフト表が置かれていた。その最下段の小さな余白に、『植竹』とだけ印字されている


「グランドアーカイブの奥に入って、学園の年代記に関する古い歴史資料を閲覧したいのですが」


「あら……それは珍しいですね。普通、あちらの書庫に入られる生徒さんは滅多にいないのですけれど。……でも、なぜかしらね。最近、あそこだけ奇妙に利用者が多いのですよ」


「そうなんですか? 具体的に、あそこには他にどういった資料が保管されているのですか?」


「学園の年代記のオリジナルログ、過去の改築設計図、学園建築の施工ログ、各種定期刊行物、それから古い財務ログなどですね。閲覧の記録を残す必要がありますので、こちらの用紙にサインをお願いします」


「分かりました、ありがとうございます」

 

手渡されたバインダーのサイン帳に目を落とした俺は、内心で小さく息を呑んだ。植竹さんの言葉通り、直近のページに、頻繁にその場所を訪れている見慣れた名前が残されている。

 ──藍原晴人。あの男も、ここを掘り返している。


「恐れ入りますが、アーカイブ棟の内部では、スマートフォンを含むすべての電子機器の使用が禁止されております。こちらの専用ボックスにお預けください。退館時まで、安全にお預かりいたします」


「はい、どうぞ」


スマホを預ける手続きを済ませる間に、カウンターの奥にある彼女の私物ポーチの配置と、彼女のシフト表の記載を注意深く網膜に記録した。


「お待たせいたしました。それでは、こちらへついてきてください。書庫の入り口までご案内いたします」


ガラスパネルで区切られた長い回廊を通り、グランドアーカイブの最奥へと近づくにつれ、古い和紙とインクが発する独特の、重厚な匂いが濃くなっていった。彼女の後ろを静かに歩いていると、図書館全体の穏やかな紙の香りに全く調和しない、妙に鋭い、冷却感のあるトップノートが鼻腔をかすめる。それは均一で、彼女が着ている羊毛のベストの繊維に、しつこい残留物のようにまとわりついている成分だった。


「アーカイブは毎日19時に完全閉館となります。年代記の資料は1階と2階の左側の棚に、年代の昇順で並んでいます。あちらの専用端末からデジタルデータにアクセスことも可能です」


「助かります、植竹さん」


彼女は驚いたように細い眉を跳ね上げた。


「あら……私の名前を? ──いいえ、もし何かお困りのことがありましたら、館内にある内線電話でいつでもお呼び出しください」


「分かりました。ありがとう」


彼女は小さく微笑み、背を向けて受付へと戻っていった。その拍子に、爽やかなミントの微かな香りが、もう一度だけ空間に取り残される。


そびえ立つ巨大な書棚の列と、静かに発光するコンピューター画面に囲まれて座っていると、グランドーカイブの圧倒的な静寂が、まるで重い毛布のように優しく身体を包み込んだ。しかし、古いファイルをめくり始めた目は、すぐにその静けさを忘れることになる。如月あかりの名前は、記録のほぼ全てのページから、まるで飛び出してくるかのように強烈な存在感を放っていた。


ある国際大会から、また別の国際数学オリンピックへの連続する金メダル。表彰台の最上段に立つ、彼女のいくつかの写真。そのすべての写真の中で、彼女は現在の部室で見せるのと同じ、完全に感情を削ぎ落とした、読解不可能な無表情を貫いていた。報告書の数々は、彼女を過剰なまでの修飾語で称賛している。


さらに古いページへと指を動かす。一年半前のチーム成績が収められた、分厚いレザーのファイル。そこにも、当然のように彼女の名前があった。──雪村由希子。桜井弘樹。佐原愛生。


彼女の名前の横に、その三人の名前が並んでいた。チームの集合写真には、四人の若き天才たちが真面目な顔でカメラを真っ直ぐに見つめ、その肩は、お互いに触れ合うほど近くに位置している。国内大会、国際大会ともに、彼らの成績欄は「優勝」の二文字だけで埋め尽くされていた。彼らは文字通り、当時の競技数学界を完全に支配していたのだ。


思ったよりも多くのコアメンバーがいた。……桜井弘樹。この名前に、脳の古い記憶がかすかに反応する。S.H──あの部室の机の引き出しに刻まれていたイニシャル。


コンテストの記録からさらに深い階層へと進むと、星野先生と如月が共同で行っていた研究に関する、より分厚いフォルダーへと行き着いた。東京のトップ大学や海外の名門機関との共同論文、国際セミナーへの招待状、巨額の研究助成金の承認書類。あるフォルダーには、マサチューセッツ工科大学の高名な教授が、当時まだ中学生だった彼女の研究成果を「極めて有望である」と太字で絶賛した、印刷された電子メールのやり取りまで残されている。その実績の総量は、ただの高校生の領域を遥かに凌駕し、見る者を威圧するほどの質量を持っていた。


しかし、時系列に沿ってページをめくり続けるうちに、その完璧なグリッドパターンが、ある一点で不自然に崩壊していることに気づく。


完璧な記録の連続の中に埋め込まれた、たった一つの、しかし致命的な矛盾。

九か月前に開催された、ある主要な国際大会を境にして、如月あかりの名前だけがエントリーリストにぽつんと単独で取り残されていた。他の三人のメンバーの名前は、それ以降のすべての公式記録から、まるで最初から存在しなかったかのように完全に抹消されている。チームの集合写真もそこにはない。参加記録の行は回を追うごとに目に見えて薄くなり、最終的には不自然な白い空白の行だけが続くようになる。公式の議事録には、「出席率の大幅な低下に伴う処置」という、最も事務的で冷酷な一言だけが記載されており、その背景にある具体的な説明は一切排除されていた。


そして、星野先生に関するファイル──。


その紙面上の変化は、静かな平手打ちのように俺の意識を襲った。

彼女は、持っていた輝かしい肩書を、ある日突然はく奪されていた。数学科長、および学園の才能教育統括コーディネーター。たった一行の短い通知によって、彼女は現在の「一介の顧問・講師」へと降格処分を受けていた。数ヶ月に及ぶ謎の停職期間。日付は明記されているものの、その理由の欄は完全に白紙のままだった。ただの紙の上に定着した、無機質な事務インク。


数学研究部という組織自体も、かろうじて息をしているだけの状態だった。廃部処分を回避するための、過去二回にわたる必死の異議申し立て書がファイルに挟まれていたが、どちらも法的な曖昧表現で煙に巻かれ、ステータスは「却下」または「永久審査中」のスタンプが押されている。明らかに、誰かがこの部を存続させるために、権力のシステムと孤独な戦いを繰り広げていたのだ。


ファイルの最下部に、極めて小さなフォントで書かれた静かな注記が、目を捉えた。

『前会長・桜井弘樹の退学に伴い、如月あかりが新会長に就任する』日付は、ほんの数ヶ月前──。


さらに、直近の財務報告書が、この部の抱える致命的な困窮を裏付けていた。予算は年を追うごとに指数関数的に削減され、添付されたメモには「部員数の著しい減少」および「学園運営上の重大な懸念」とだけ記載されている。しかし、その“懸念”の具体的な中身が何であるのかは、紙面のどこにも書かれていなかった。


幽玄学園数学研究会の物語は、あまりにも眩い栄光のピークを迎えた直後、長く不気味な沈黙の深淵へと叩き落されていたのだ。重いバインダーをそっと閉じる。


先ほどまで棚に並んでいた磨き上げられた栄光の実績は、今や、誰もあえて触れようとしない巨大な疑問の薄いベールの下に、かろうじて隠されているだけのように思えた。


最初にこの席に座った時には、時間の流れを超越した聖域のように感じられたグランドアーカイブが、今は全く異なる、どす黒い質量を持って肩に押し寄せてくる。静けさが、皮膚を刺すように鋭くなった。埃と古い紙の匂いの中で、自分の心臓の鼓動の音が、妙に大きく響きすぎていた。


もう少し個人的で詳細なデータを掴むため、アーカイブ内の専用端末からデジタルの学生マスターレコードの検索を試みた。星野先生や、消えた部員たちの非公開記録にアクセスできれば──。


アクセス拒否 — レベル4権限が必要です


「くそっ……」

画面を見つめながら、小さく毒づく。

時計に目を落とした。数学研究会の部会が始まるまで、もう二十分も残されていない。

妙に中身の抜けたような虚ろな感覚を抱えたまま、重い本を元の棚へと戻した。その時、脳の裏側に、ある新しい思考が滑り込んでくる。それは少し醜く、純粋な知的好奇心というよりは、生存のための必要性に縁取られた、極めて現実的な作戦だった。


計画が、脳内で明確なアルゴリズムの形を取り始める。

決して最善の上品な方法とは言えないが、現時点で最も効率的であることは、論理的に間違いなかった。

何食わぬ顔で受付カウンターへと戻る。


植竹さんは、他の数人の司書たちと共に、戻ってきた書籍の仕分け作業に追われていた。軽く、わざとらしい咳払いを一つする。


「アーカイブの資料の閲覧は、お済みになりましたか? お預かりしているお荷物をお返しいたしますね」


「ねえ、植竹さん。実は……あそこの量子物理学の専門書コーナーの棚について、ちょっと分からないことがあって。もしよければ、少しだけナビゲートを手伝ってもらえないかな?」


植竹さんはパチパチと瞬きをした。「量子物理学ですか? 私は理系の専門知識は全く持ち合わせていないのですけれど……。でも、棚の配置くらいなら、いいですよ?」


隣の同僚の司書たちに視線を向けると、彼らは何かを察したように、クスクスと笑いを堪えていた。

「──ちょっと行ってくるわね」


植竹さんはポーチをカウンターの陰に押し込み、俺の後について歩き出した。高くそびえる本棚の迷宮を抜け、目的の量子物理学コーナーへと足を踏み入れる。案の定、この時間、ここには埃の粒子以外には人っ子一人いない。周囲から、完璧な遮音の静寂が押し寄せてくる。


植竹さんは誰もいない周囲をぐるりと見回し、小さく呆れたような笑いを漏らした。


「よし。これで私は正式に、これらの難解な数式を何一つ理解できない並行宇宙に迷い込んだわけね。それで、神崎くん。質問というのは何かしら?」


周囲に誰もいないことをもう一度確認し、ぐっと声を潜める。


「……おとり(デコイ)に使ってしまってすみません、植竹さん。どうしても、他の人の目が届かない、完全に孤立した空間が必要だったんです」


彼女の身体が、一瞬で硬直した。微笑みが消え、警戒の色がその端正な顔に広がる。


「……それ、なんだかすごく不吉な前振りに聞こえるのだけれど。もしかして、ここで私に愛の告白でも始めるつもり?」


「まさか。そんな大それたものじゃないですよ」俺は首を振った。


「数年前の数学研究会に関する非公開の記録──当時の部員の詳細な参加ログや、コンテストの内部履歴について、あなたの権限で少しだけ閲覧の手助けをしてほしいんです。通常の一般検索システムでは、完全にアクセスがブロックされている種類のデータを」


植竹さんは、俺を射抜くようにじっと凝視した。先ほどまで彼女の目に浮かんでいた、年下の生徒をからかうような遊び心のきらめきが、急速に冷え切っていく。彼女は胸の前で厳しく腕を組んだ。


「……あなた、自分が何を言っているのか分かっているの? 許可のない一般の生徒に、学園の制限資料を横流しすることなんて、絶対にできないわ。規律違反よ」


さらに上体を少しだけ寄せ、声を限界まで落とした。


「リスクがあるのは重々承知しています。でも、この巨大な図書館のシステム構造を真に理解し、バックエンドの例外処理を走らせることができる数少ない優秀な人物は、この学園であなただけだ。他の凡百の司書たちでは、どこからデータベースの糸口を探せばいいかさえ分からない」


「ふん」彼女は短く、からっとした冷たい笑いを漏らした。「お世辞なら他でやって。残念だけれど、その程度の甘言で私がルールを破ると思ったら大間違いよ、神崎くん。さあ、カウンターに戻りましょう」


引き返しようとする彼女の前に、静かに一歩を踏み出し、声をどこまでも落ち着かせて言った。


「──本当に、そう言い切れますか?」


 彼女の目が、細められた。瞳の奥の遊び心は完全に消え去り、本物の鋭い警戒心がそこを占拠する。


「……どういう意味?」


「背理法(Proof by contradiction)でいきましょう」

淡々と論理を展開し始める。


「まず、植竹さんが館内に一切の禁制品の残渣を持ち込んでいない、という命題を仮定します。その仮定が真であるならば、あなたのウールベストの繊維からこれほど鮮明なメントールの勾配(グラディエント)が検出されるはずがない。あなたが屋外の喫煙所で吸っているとしても、アーカイブに戻ってくるたびに、その微細な化学的残渣をこの空間に持ち込んでいる。さらに、先ほどあなたが唇に施していたあの艶は、化粧品ではなく、加熱式タバコによる特有の乾燥から粘膜を保護するための薬用リップケアだ。そして、問題のデバイス本体については──」


非常に意図的に、視線だけを彼女の羊毛ベストの左ポケットの、わずかな膨らみへと落とした。

「どうして──」


彼女の呼吸が、一瞬だけ止まった。しかし、並の生徒のように取り乱したり、ひるんだりはしない。ただ、明確な冷たい怒りを湛えた瞳で、俺をじっと睨み据え続けた。


「何を根拠に、そんなデタラメを言っているの?」


「観測されなければ、ペナルティも存在しない。お互いの利益のための、互恵的な取り決めと考えたいだけです。俺は何も見ていないし、何も嗅いでいない」


逃げ道を塞ぐように慎重に言葉の網を畳みかけた。植竹さんの両手が、衣服の脇で強く握りしめられた。彼女は氷のように鋭い二つの点となった瞳で、俺の顔をじっと見つめ、値踏みするように長い沈黙を維持した。おそらく、その優秀な頭脳で、この状況から導き出されるすべての不利益な結果と、確率の計算を弾いていたのだろう。


「……なるほどね。私を完璧に論理の檻に追い詰めておいて、それを『互恵的な取り決め』という綺麗な言葉でカモフラージュしようっていうわけ? なんて寛大で、傲慢な優しさなのかしら、神崎くん……」


彼女は鼻から鋭く息を吐き出すと、静かにその唇を尖らせてみせた。


「ただの、背理法による証明ですよ」


「それを世間ではね、脅迫による証明(Proof by intimidation)って呼ぶのよ」

 

正直なところ、彼女のデバイスがベストのポケットにあるかポーチにあるかは、ただの観察に基づく精度の高い当て推量に過ぎなかったのだが、どうやら見事にターゲットの核心を射抜いていたらしい。


「信じられない……。分かったわよ、一回だけ。あんたの欲しいデータをシステムから引っこ抜いてあげる。でもね、もしこのことについて外部に一言でも漏らしてみなさい。これからあなたが卒業するまで何年間も、毎朝、数学研究会の全員を、日の出の時刻に体育館の裏に強制的に呼び出してあげるから。全員でラジオ体操よ、神崎。分かった?」


「分かりました。……本当に、恩に切ります」

彼女は周囲の静寂に怯えるように、さらに声を潜めて言った。


「それだけじゃないわ。さらに二つの絶対条件を上乗せさせてもらうからね。一つ、あなたが私の、あの忌々しい大学レベルの微積分の宿題をすべて手伝うこと。本当に単位が死にそうなのよ。二つ、あなたが今から企んでいるその小細工のせいで、私たち二人とも揃ってこの学園を退学処分にならないこと」


「了解です。数学研究会の扉は、いつでもあなたのために開いていますよ。ちなみに、現在の会長は如月さんです」


植竹さんは、心底あきれ果てたというように首を大きく振った。


「如月あかり……。あなたたち数学の人間は、本当にどいつもこいつも頭が狂っているわ。……私とは全く違う別の並行宇宙の住人ね。」


「そうだ、植竹さん、無臭の酵素スプレーを使うことをお勧めするよ。メントールの有機化合物を隠すだけでなく分解してくれる」


「そうなの? ……覚えておくわ。ところで、データはいつまでに必要なの?」


「できれば、次の月曜日の朝までに」


「……分かったわよ。さあ、もう私の視界から今すぐ消えなさい」


俺は彼女に対して、今度は最大級の敬意を込めて深くお辞儀をした。

黙って受付カウンターへと戻り、自分のカバンをまとめて片付けていると、彼女は周囲に見事なポーカーフェイスを維持したまま、指先から折り畳まれた小さな紙のメモを、俺の手元へと滑り込ませてきた。

グランドアーカイブの重いガラス扉を出て、エントランスの廊下に向かいながら、俺はそのメモをそっと開いて内容を確認した。


書かれていた文字を目にした瞬間、思わず、吹き出しそうになる笑いを必死に噛み殺した。


お読みいただきありがとうございます。ここまでお楽しみいただけていれば幸いです。LaTeXで数式を入力するのは難しく、英語からの翻訳もとても大変です。日本文学は本当に奥深いですね。


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