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数学研究部は問題なんて朝飯前:擬素数  作者: 数式舞
数学研究部は問題なんて朝飯前 :擬素数
3/17

第二章 : 隠された変数

2.1

夜の冷気がブレザー越しに肌を刺す。幽玄館の重厚な正面扉を背にすると、鼻腔の奥にこびりついていたチョークの匂いは、夜風の一吹きであっけなく吹き飛んだ。中庭の向こう、遠くの窓から漏れる吹奏楽部のくぐもった音色。グラウンドの方角からは、闇を切り裂く金属バットの鈍い打球音が断続的にこだましていた。

駐車場へと続く小径を進むにつれ、キャンパスの喧騒は遠のき、足元でカサリと鳴る落ち葉の乾いた音だけが残る。ほんの数分前の光景が瞼の裏で明滅していた。如月の無駄のない鮮やかな板書、そして星野先生の含みを持たせた去り際の言葉。

一週目にしてサービス残業を強要された新卒社員のような気分である。

まとまりのない思考を断ち切るように、低くリズムを刻む排気音が静寂を破った。白いグランドツアラーが滑り込んでくる。洗練されたミニマルなボディワークが、校内灯の光を鈍く照り返していた。車がゆるやかに停車し、助手席のウィンドウが静かな音を立てて下がっていく。星野先生がセンターコンソール越しに身を乗り出し、開口部から俺と視線を合わせた。

「神崎、乗りなさい」

助手席のドアを開けると、上質なレザーの香りに彼女の微かな香水の残り香が混ざり合う空間が俺を迎えた。指先にダイヤキルトの立体的な感触を覚えながらシートベルトを引き寄せる。カチリと硬質な機械音を立てて、ベルトフィーダーが静かに格納された。

「星野先生、放課後に生徒と二人きりで校外の食事なんて……世間的にはスキャンダルですよ」

「そうかしらね?」

ミラーを一度も見ることなく、星野先生はセレクトレバーを操作した。車が夜の街へと滑り出すと、流れていく街灯の光がバックミラーの中で砕けた宝石の破片のように散る。現代工学の技術を結集したサスペンションに守られながら、俺たちは古い木造建築と街路樹が交互に現れる京都市街の波打つ道路を進んでいった。

「最後の最後まで、このお誘いをお断りしようかずっと計算していたんですけれど」

星野先生はハンドルを握る指先で、かすかにリズムを刻んだ。

「リラックスしなさい。京都のいけずな社交辞令にも、随分と早く順応したようじゃない」

「中学の修学旅行で、なかなか手痛い洗礼を受けましたから。一生忘れられそうにありません」

「おもてなしに擬態したトラウマ体験?」

「概ねそんなところです。友人と茶屋で昼食を済ませたあと、そのまま長居してお喋りをしていたんです。そうしたら女将さんが、この世で最も完璧な笑顔で近づいてきて、『お茶のおかわり、いかがどすか?』って」

「ほう? で、素直にいただいたの?」

「いえ、もっと悲惨でした。連れが『カルピスありますか?』って空気の読めない発言をしたんです」

鈴を転がすような笑い声が、静かな車内に響いた。

「女将さんは眉一つ動かさず、『お若いお二人の無邪気な甘さ、ほんまに微笑ましいわぁ』とおっしゃいました。遠回しに追い出されていると気づいた時には、格子戸の外に立たされていましたよ」

「でも、私相手にそんな遠回しな探り合いは不要よ。無駄に複雑にするつもりはないわ」

星野先生がセンターコンソールを操作すると、柔らかなクラシックの旋律が空間を満たした。しばらくの間、エンジンの心地よい唸りと静かな音楽だけが、俺の思考をどこか遠くへと運んでいく。

「ところで神崎。今日、部室でのあなたを見ていて、少し気になったことがあったの」

窓の外では、街の灯りが速度の尾を引いて滲んでいく。肺の最も深い隅々まで吐き出すような溜め息とともに、俺は静かに呟いた。

「……俺の泥臭い試行錯誤が、皆の期待するようなエレガントな解に届くのかどうか。あの部屋にあるトロフィーの重みを見ていると、ふと考えてしまうんです」

「なるほどね」

星野先生はバックミラーに視線を走らせ、カーブを曲がりながら目元を少し柔らかくした。

「あなたは自分を『完成された証明』と比較して測っているのよ、神崎。重要なのは『導出過程』だというのに」

「それに、あなたはあの過酷な合宿を生き延びたじゃない。十分やれているわ」

車は完全に学園の敷地境界線を越え、速度を上げた。排気音の低音領域が車内に心地よく共鳴し、滑らかな加速感が俺の身体をシートへと押し付ける。ガラスの向こうで後方へと吹き飛んでいく街路樹の黒いシルエットを見つめながら、俺はまだ全容を把握しきれていないこの環境の急速な奔流に思いを馳せた。

「星野先生、わざわざ旧市街を避けて走っていませんか? 第二京阪ですか?」

高架の料金所を見上げながら尋ねると、彼女はヘッドライトに照らされたアスファルトから目を離さずに答えた。

「この時間帯の最適ルートよ」

「ズルをしている気分ですね」俺は呟いた。「渋滞したネットワークに挿入された、ローコストなエッジだ。何世紀もの歴史の上に作られた狭い生活道路をすべて迂回して、静かな南部地区から京都の心臓部へ直接接続する。古い平面グラフに、誰かが強引に新しいエッジを付け足したみたいだ」

「その通り。誰かが意図して作ったものだからね」星野先生は短く笑う。

「歴史ある街路はコストが重すぎるのよ。狭く、予測不可能。夕方の混雑、季節の祭り、突然の雨。重みが分単位で変動するから、最適ルートの検索は時間依存の最短経路問題になるわ」

「祇園の路地のようなものですね。重複なしで全街路を網羅しようとしても、次数が奇数の頂点が多すぎる。完全なオイラー路はおそらく存在しない」

「正解。すべての経路を網羅したければ、中国郵政問題(Route Inspection Problem)に帰着せざるを得ない」彼女はハンドルを安定させたまま続ける。「同じ道を二度通ることを受け入れるしかないの。京都という街自体が、何世紀もの試行錯誤と不完全さを経て調和へと至った、生きているグラフなのよ」

先生は一拍置き、瞳に微かな悪戯っぽい光を宿した。

「もっとも、土木工学の技術者たちに言わせれば、そんなロマンチックな表現には反対するでしょうけれど。彼らは空間シミュレーションデータを信奉しているし、そもそも便利だからという理由で円周率をちょうど『3』として扱うような人たちだもの」

「円周率を3? 完全な反・円周率主義者ですね、先生」

俺の口元が微かに緩んだ。会話が途切れると、快適な静寂が戻り、オーディオからのクラシック音楽がダッシュボードの陰影の中に溶けていく。

やがて車は滑らかに減速し、駐車スペースを備えた狭い路地の前で静かに停車した。

「神崎。来なさい、歩くわよ」

車外へ踏み出すと、祇園の冷たい夜気が肌を刺した。八坂通りの石畳は、打ち水の名残でまだ湿り気を含んで黒く光っている。乾ききっていない石畳は、淡い闇の鏡を作り出し、頭上に下がる赤と白の提灯の光をかすかに映し出していた。さらに狭い路地へと折れると、大通りの喧騒は完全に遮断される。

星野先生は俺の隣を歩いていた。路面の浅い水たまりを避ける様子もなく、彼女はそのまま足を踏み入れ、波紋を広げていく。無意識に水を避けて歩いていた自分に気づき、俺は一瞬足を止めた。彼女は最初から、境界線が歪むことなど全く意に介していないようだった。


2.2

路地の角を曲がると、柔らかい琥珀色の光に包まれた品格のある佇まいの建物の前に出た。地面を照らす小さな石灯籠の後ろに、控えめな彫刻が施された木製の格子戸が立っている。『銀蝶』と書かれた看板。それは学園の建築と呼応するような、静かな気品を漂わせていた。

先生の後をついて、手入れの行き届いた中庭を臨む短い小径を渡ると、きちんとした和装の仲居が深く頭を下げた。

「お越しやす、星野様。お待ち申しておりました」

空間を満たす柔らかい光が、星野先生の横顔のラインをなぞる。仲居は俺たちの靴とコートを受け取り、手際よく奥へと下げた。星野先生は履物を脱ぐと、かがんで用意していた新しく真っ白な足袋へと履き替える。その一連の動作、衣服が描く曲線のシルエット。

黄金比だ、と思った。胸の奥が、計算外の跳ね方をした。短い息を吐き出し、俺は冷たい畳の感触を足の裏に感じながら奥へと進んだ。


俺たちが通されたのは個室だった。座卓につくと、渡されたおしぼりの温もりが緊張でこわばった手のひらに心地よく染み込んでくる。俺は先生の自然で手慣れた所作を注意深く模倣した。

言葉を探すより先に、炭火と上質な脂が焦げる芳しい香りが漂ってきた。料理が運ばれてくる。ミニマルで、どこか傲慢なまでにシンプルだった。季節の小鉢を従えた最高級の松阪牛。先生は手慣れた様子で注文を仕切り、二人分のコースを頼んだ。

「神崎、何か追加したいものはある?」

「滅相もないです。先生のお選びになったもので十分すぎます……いつか、俺もこれくらい素敵なお店でお返しできるよう努力しますよ。約束します」

「私を驚かせたいなら、松阪牛だけじゃ足りないわよ」と、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして仲居の方を振り返り、「あ、それと、柚子蜜のスパークリングウォーターをふたついただけますか?」

注文が終わると、星野先生は身を乗り出し、まっすぐな視線を俺に向けた。

「これでようやく、あなたのこの街でのカルピスの記憶を上書きできるわね」

俺の顔の表面が少し熱くなったのは、きっと卓上ロースターの熱のせいだろう。彼女の視線から逃れるように、俺は目の前に置かれた松阪牛の血統証明書に目を落とした。三大銘柄の頂点、文字通り口の中で溶ける極めて低い融点を誇る肉。

「いただきます」

食事はナムルとキムチから始まった。ごま油と塩が重なる複雑な味わい、それを覚醒させるような刺激的な酸味が対比を成す。

「こんな風に腰を据えて食事をするのは、随分と久しぶりね」ともやしのナムルを口に運びながら、彼女は呟いた。

頼んでいた飲み物が運ばれてきた。黄金色の弾ける炭酸の泡と、柚子の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。星野先生はグラスの中で踊る泡を見つめていた。

「最後にこうして話したのは、あの合宿の時以来でしょうか」

「あの合宿、あなたの目にはどう映っていた?」

「確かな進歩を感じられました。代数セクションで少し躓きましたが、全体としては素晴らしい経験でした。東京の街を散策できたのも新鮮でしたし」

「それを聞いて安心したわ。あなたの吸収力は本物よ。硬直化した学校のカリキュラムの外には、探求すべき広大な領域が広がっているわ」

「先生の指導がなかったら、俺は中学の時点で数学を完全に諦めていたと思います。当時の授業は、ただの無機質なルールと超えられない壁でしかありませんでした。でも、先生が違う視点を見せてくれた」

俺は漆塗りの座卓に映る、自分の暗い影を見つめた。「お前は理系に向いていない」「頭に水でも詰まっているのか?」——過去に浴びせられた言葉は、俺を殺すほどの鋭さはなかったが、俺の精神を確実に削り取っていった。大層な悲劇ではない。けれど、同じような小さな傷口が何度も積み重なるうちに、すべての数学の問題が自分の無価値さを証明する法的文書のように見え始めているのだった。

顔を上げると、星野先生は温かく、すべてをリセットするような笑みを向けていた。

「標準化された数学教育の罪は、人々が自分自身の数学的言語を発見する前に、その門を閉ざしてしまうことにあるのよ」

「学校だけじゃないです」と俺は言った。「顧問の中には、競技数学を子供だましの前奏曲みたいに扱う人もいます。『本物の』数学じゃない、と」

星野先生は繊細かつカチリと鋭い音を立ててグラスを置いた。

「数学オリンピックと研究は違うものよ。一方は閉ざされたアリーナでの瞬間的な構造的スピードを要求し、もう一方は何年もかけて開かれた曖昧さを進むことを求める。アカデミアが好む『コンテスト数学は本物の数学ではない』という言い回しは、事実というより、謙虚さに擬態した勧誘のスローガンに近いわ」

彼女は俺をまっすぐに見つめた。

「数学研究会を、そんな階級社会への供給パイプラインにするつもりはないわ。私と如月が、あんなヒエラルキーに自分の価値を定義されずに数学を探求できるように、あの場所を作ったの」

塩タンの端が熱で縮み始めると、ロースターが心地よい音を立てた。繊細な肉をひっくり返すと、重く停滞していた空気が、少しずつ薄いものに変わっていく。

「数学研究会についてですが……俺が大会の話を出した時、如月の反応が妙でした」

先生の箸が止まった。彼女の視線は肉から外れ、遠い過去の記憶を手繰り寄せるような内省的な深みを帯びる。

「相変わらず鋭いわね、神崎。あなたが彼女の手に見た微小な震えは、私たちの骨の髄まで刻まれた消えない傷痕なのよ」

「誰しも、抱えている重荷があるということですか」

「彼女の環境は、完璧以外の何も許さないの。その完璧さが、どれほど内側から彼女を削り取っているか、誰も問いかけようとしない」星野先生は肉を裏返し、立ち上る炎を見つめた。「成績や実績といった外部の指標だけで自分を定義するのは、極めて危険なゲームよ。私はあの部活を……あなたたちが違う種類の『錨(アンカー)』を見つけられる場所にしたいの」

柔らかいタンを噛みしめながら、俺は思考を巡らせた。

「先生、あなたは長い間あの部の顧問を務めていますよね……あの日々、本当は何があったんですか?」

俺が探るような視線を向けると、先生はくすりと小さく笑う。

「未知の領域へなりふり構わず飛び込んでいく男の子は嫌いじゃないわ。それこそが、本当に面白い問題を解くための唯一のアプローチだもの。データが欲しいなら、神崎、図書館のアーカイブを調べなさい。この九ヶ月間で、何が書き換えられたのかを確かめるのよ」

「調べてみます……特異点を引き起こして爆発させない程度に」

「私たちはすべてをゼロから再構築するの。月光が最も強く輝くためには、圧倒的な夜の暗闇が必要なのよ。あの部屋には、彼女以上に厄介な問題を抱えた子たちがまだいるわ」

「どうやら、俺はすでに沼に片足を突っ込んでいるようですね」

「それこそが、私の気に入っているあなたの姿よ、神崎」

先生がグラスに口をつけると、彼女の横顔が部屋の重厚な静寂の中に深く刻まれた。ロースターの上には、次の料理――極上の塩焼き松阪牛が絹のリボンのように美しく並べられる。肉が熱に触れた瞬間、果実のようなかすかな甘い香りが空気に漂った。

「そういえば星野先生、どうして純粋数学の道を選んだんですか?」

「そうね……純粋なエゴよ。現実の裏側に隠された建築構造を理解したい、自然の美しさをそのまま感じたいという欲望。数学は、最も小さなものに宿る美しさを教えてくれるわ。例えば、この牝牛だって自分が『極上』と呼ばれるなんて知らずに、ただ生き、ただ存在していた。ただそれだけのことよ」

「そうだとしても、二十一歳で博士論文を完成させるなんて、俺から見れば怪物ですよ」

「私の年齢の話を蒸し返すのはやめなさい」彼女は悪戯っぽく微笑んだ。「進路調査票はもう提出したの?」

「今のところは国内の大学を書いています。先生はプリンストンで学士を取られたんですよね?」

「ええ。あそこはあなたにぴったりだと思うわ」

「どうしてですか?」

「あなたは何年もの間、既存のルールにしっくりきていなかったでしょう。次のステップは、より良いルールを探すことでも、彼らのアカデミックな階段を登ることでもないわ。あなたの存在そのものを探求として許容してくれる場所へ行くことよ。そう思わない?」

塩焼きの肉は噛む間もなく口の中で解け、豊かな旨味とほのかなナッツのような余韻を残した。グラスの中の氷がゆっくりとその形を変える。次に運ばれてきたのは、見事なサシが入った部位だった。筋間脂肪が精密なフラクタル構造のように繊細な白い網目を描き、肉全体を淡いピンク色に見せている。

「この肉、高解像度のフラクタルパターンみたいですね」俺は少し冗談めかして言った。

星野先生は小さく、少女のような笑い声を漏らした。

「大正解よ、神崎。実際に精肉業界では、霜降りの複雑さを測定するためにフラクタル解析を使っているの。フラクタル次元が高いほど、肉質は繊細で高級だと格付けされるわ」

「本気ですか? ……どこへ行っても、数学から逃げることはできないんですね」

炭火に脂が落ちるジュという心地よい音がロースターから響いた。目の前の風味だけではない。先生が紡ぐ言葉の一言一言に含まれた重みが、俺の胸の奥深くへと静かに沈殿していく。

「ところで星野先生、俺がノートを取った時、如月は怯えていました」肉を卵黄にくぐらせながら、俺は低く呟いた。

先生は静かに頷いた。その表情は柔らかかったが、瞳の奥には容易な進入を許さない警戒心が潜んでいる。

「恐怖はいつだって『隠された変数』よ、神崎。人と人との間に結ばれた、見えない契約なの」

俺が背もたれに寄りかかると、先生は視線を外した。結露したグラス越しに見える彼女の横顔が、歪んで映っていた。


2.3

食事の終わりに近づき、テーブルが片付けられた。淹れ立ての一保堂の茶から立ち上る湯気が、緊張でこわばった手のひらを温める。

「たくさんの生徒を見てきたわ」彼女は目を少し閉じ、満足げな笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。「あまりに多くの才能ある子たちが、完璧さの追求の中で自分を見失ってしまう。真の啓発は、自分自身の不完全さを許し、問い直し、築いてきた土台を何度でも再解釈した時に現れるのよ」

「ええ、あそこをトロフィーケースではなく、お互いを信頼できるワークショップにしたいんです。俺も見たいんです、先生や如月が見ている数学の風景を……」

先生は深く頷いた。

「それこそが、私があなたを選んだ理由よ、神崎。それこそが数学研究会を、そして最終的には世界を新しい軌道へと導くものになるわ」

料理が完全に下げられ、残香を楽しんでいると、部屋の襖が静かに開いた。

先ほどの仲居が滑り込むように入ってきて、丁寧なお辞儀とともに、最大限の敬意を表した。

「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました、星野様。お食事はいかがでしたでしょうか」

「すべて素晴らしかったわ! 最高の美味とおもてなしをありがとう。……実はね、こちらの若い方にも会員資格をとお考えなのだけど」

「星野様からのご推薦でございましたら、喜んでご案内させていただきます」

突然の申し出に驚き、俺は座布団の上で思わず星野先生の方へと身を乗り出し、小声で囁いた。

「星野先生、そこまでしていただく必要は……」

「気にしなくていいの。ここには朝から夕方まで営業しているプライベートな茶房カフェがあるのよ。静かに読書や勉強ができるでしょう?」

「でも、ここキャンパスから遠すぎますし――」

俺の反論を遮るように、先生の表情が大人の落ち着いたものへと変化した。

「すぐに必要になるわ」

彼女は何を企んでいるのだろう。本当にズルい人だ。

「……はぁ、先生がそこまでおっしゃるなら」

俺が小さなため息をつくと、仲居は綺麗に包まれたお土産の和菓子と手書きの会員カードを、恭しく差し出した。

「これからは、いつでもお気軽にお越しくださいませ」

「あ、いや……星野様、このようなものをいただくわけには」

俺のぎこちないマナーの真似事に、仲居と先生は楽しそうに声を合わせて笑った。押し問答の末、俺は結局、星野先生の好意をありがたく受け取ることになった。

やがて、本当のお別れの時が訪れた。仲居はどこまでも丁寧に見送り、店の玄関から駐車場に至るまで俺たちを見送ってくれた。

「星野先生、今日は本当に楽しくて勉強になりました。ありがとうございました」

「いいえ、私の方こそ感謝しているわ。こんなに心地よく食事を楽しめる相手は珍しいの。とても満足したわ」

彼女の少し芝居がかった台詞に、俺は夜空を見上げ、ふと思い浮かんだ考えを口にした。

「星や月光が最も強く輝き、美しく見えるのは、こういう暗い夜空があってこそなんでしょうね」

先生の足取りが、一瞬だけ止まった。街灯のオレンジ色の光の下で、彼女の白い頬がかすかに朱に染まる。まるで完璧な論理の設計者が、ごく微小な計算ミスを犯したかのような小さな動揺。

「どうやら今日の夕食には、少々『魅力パラメーター』を重ねすぎたようね」

彼女が再び歩き出すと、その肩が俺の腕に軽く触れた。漂う香水の香りが、炭火とスパイスの香ばしい匂いと混ざり合い、俺の鼻腔をくすぐる。少々、刺激が強すぎる夜だった。

車の前に到着すると、再び冷たい夜気が俺たちを包み込んだ。足元を見下ろすと、暗い水たまりが、街灯の光を滲ませたリボンのように映し出している。靴の先は、行きに星野先生が跳ね上げた水滴で少し湿っていた。

帰り道、月光に洗われた静かな京都の街並みを眺めながら、俺は今夜交わした言葉を一つひとつ反芻した。けれど、その明晰な分析思考の底で、確かな不安が静かに根を張り始めていた。如月をあの崖っぷちまで追い詰めた重圧の正体。明日、機会があれば、彼女と正面から向き合わなければならない。

学園の寮が近づくと、車は静かに停車した。星野先生は普段よりほんの少し低い声で言った。

「おやすみ、神崎。ディスクリート(慎み深さ)を忘れないようにね」

バックミラー越しに彼女と目が合った。その瞳には、紛れもない強さが宿っている。

「了解しました。ごちそうさまでした。俺は昔から、連続関数よりもディスクリート(離散数学)の方が得意なんですよ。孤立点は、誰も追跡できるような軌跡を残しませんから」

「孤立点であっても、同じ集合に属していることに変わりはないわ、神崎」星野先生は、冷たい車内の空気に残る柔らかく可笑しそうな笑い声を漏らした。「離散級数を足し合わせても、得られるのは有限の値よ。自分だけ微分して蚊帳の外に出られると思わないことね」

重厚なエンジン音とともに、白いグランドツアラーは闇の中へと消えていき、俺は寮の正面玄関の前で一人それを見送った。校舎が目の前にそびえ立っている。


『銀蝶』の余韻を胸に抱きながら、俺は敷居を跨いだ。


集合の要素が、また一つ増えた。

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