第3話 母と子、王妃と王子
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サラリア離宮の離宮長シャーニから、レイナス王子が婚約解消を望んでいるいう具申が王室庁へ出されてから数日が経過したある日。
レイナス王子は、母であり現王の正室……第一王妃たるマリアベルに呼ばれ、王宮へと馳せ参じていた。
そこは王宮の奥の間。ごくごく限られた者しか立ち入りを許されない、王や王妃たちの私的な居住空間。
レイナスも元々はここで暮らしており、いわば慣れ親しんだ場所ではあるのだが、離宮を与えられて王宮を出た以上、今の彼はあくまで来訪者という立場になる。
もっとも、レイナスとしては『確かに俺はこの幻想世界にとっての来訪者に違いない』などと、益体もないことが頭を過ぎってしまうが。
「レイナス。貴方がアリア・ローゼイン侯爵令嬢との婚約の解消を望んでいると聞きました。それはまことのことですか?」
ゆったりとした口調で部屋の主が問い掛ける。
王宮の中でも、公的に来客を持て成す必要がある場所は絢爛豪華な造りになっているが、それらと比べるとずいぶんと落ち着きのある私室にて、母と子はテーブルを挟んでソファに腰掛けて相対していた。
「はい。間違いございません。俺はアリア・ローゼイン侯爵令嬢との婚約の解消を望んでいます。その上で、ルークの婚約者としてアリア嬢を推します」
軽やかな語り口でレイナスが応じる。あっさりとしたもの。
「そう。貴方はその意味を理解しているのかしら? アリア嬢がどのような立ち位置を望まれているのかを……」
第一王妃たるマリアベルは、私的な空間で過ごす際には略式の動き易いドレスを好み、装飾なども普段は極力身に着けない。
しかしながら、くつろぐようにソファに腰掛けてはいるものの、今の彼女はまさしく正装。公的な行事に参列する際と同じ形式のドレスと装飾で身を包んでいる。
そして、そんな彼女の後ろには、彼女が王室へ嫁ぐ以前より仕えている古参の者をも含めたマリアベル王妃の忠臣たちが、それぞれの立場での正装にて控えていた。
それはつまり、いかに私的な空間であっても、この会談が公的なものに準ずるという王妃側の意思表示に他ならない。
レイナスは招かれた側。来訪者。王妃側がこのような場を設定した以上、彼は公的な正装が求められる。少なくとも、自身が王子であると表明する儀礼として、王から与えられたマントの着用は欠かせない。
……にもかかわらず、レイナスの装いは略式。つまりは離宮で過ごす際の普段着だ。
「嫌だなぁ母上。理解しているからこそ、ルークとアリア嬢の婚約を願っているんですよ。アリア嬢は第一王子の婚約者として、つまりゆくゆくの正室候補に相応しいだけの血統や才覚を持ち合わせているのでしょう? ルークの婚約者としても当然に相応しい筈です」
「……そう。つまり弟に道を譲るというのが貴方の意思なのね?」
口調はゆったりとしたままだが、マリアベルの切れ長の瞳には剣呑な光が浮かぶ。
それもそのはず。
あからさまで隠れてはいないが、今のレイナスの装いや言動は、暗にマリアベル王妃への反意を示しているのだから。
「違いますよ、母上。これは俺の意思なんかじゃありません。デイル王室に籍を置く者として国益を考えた結果なだけです。ルークが申し子であると判明した以上、俺の方が〝予備〟となるのは当然の流れ。今の状況において、俺個人の意思が介在する余地などないでしょう?」
微笑みを浮かべ、いっそ軽妙なレイナス。見ようによっては、自暴自棄になっているようにも、相対しているマリアベルを嘲笑しているようにも見える。見えてしまう故に、彼の軽やかな態度とは対照的に場の空気は順当に重くなっていく。
「ですがレイナス。現時点でも貴方の王位継承権の順位は高いのよ? それこそ成人となれば、すぐにでも立太子の儀を執り行う可能性がある程です。何も今の段階で事を急く必要はないのでは?」
「母上。ですから、それらは俺が決めることではないでしょう。俺は第一王子として、デイル王国の利に沿った決定に従うのみです」
噛み合っているようで噛み合わない問答。
マリアベルとしてレイナスの言い分など当然に理解している。順当に行けば、申し子であるルークが王太子となるのは目に見えている。だが、それでもルークはまだ七つ。レイナスも八つだ。まだまだこの先に何があるかは分からない。
だからこそ、マリアベルはレイナスから引き出したい。〝この一件は気の迷いでした〟という言質を取りたい。今は現状維持で特別な問題はない筈だと彼女は考える。
「王国の決定に従うというなら、陛下がアリア嬢との婚約を継続せよと命じれば、レイナスはそれに従うと?」
「それはもちろん。父上の……陛下の決定に異を唱えるような真似はいたしません」
「そう。なら、後は陛下のご判断に委ねることとしましょう」
離宮を与えられ王宮を出たからなのか、知らぬ間にずいぶんと頑固に、物分かりが悪くなってしまった息子に戸惑いながらも、とりあえずの言質は取った。マリアベルとしては、後は陛下と話を詰めれば良いと考える。
しかし、それは国の運営に影響力を持つ者としては、あまりにも安易で軽薄な行動でしかない。
今のレイナスは知っている。大罪人として終わった人生の中で思い知らされたものだ。
「ええ。陛下や王室庁の判断によってです。ただ、俺として疑問なのは、この一件は既に終わった話なのですが……どうして母上は今さら話を蒸し返すのですか?」
「……何ですって?」
「いえ。この一件はシャーニ離宮長から王室庁への具申が通った時点で終わっている話です。陛下からは当然に了承を得ていますよ」
「そんなはずはありません。王室庁からは、まだ正式に受理はしていないと私は聞いています。だからこそ、事情を確認する為にこうして貴方を呼んだのです」
それはレイナスの試し。元々アリア嬢との婚約解消は考えていたが、その過程で、母であるマリアベル第一王妃の反応を探ろうとした。
結果として彼が思う以上の収穫があった。ただし、その方向性は悪い方にだ。
「母上。先程から何を仰ってるんです? 王位継承権を持つ者の婚約者に関することなんですよ? そもそも、陛下《父上》と妃殿下《母上》の了承がなければ、シャーニ離宮長の立場で王室庁へ具申などできません。つまり、王室庁に具申できた時点で俺の要望は通ったということです」
「何を言っているのレイナス。私は了承などしていませんよ」
「ふっ。どうやら母上はお疲れのようですね。ご自身が何をしたのかも覚えておられないとは……いや、これは正確じゃないか。母上は自身の親衛隊がいかに役立たずであるかをご存知ないようですね」
場にいる者たちはようやくに気付く。レイナスは自暴自棄になどなっていない。彼はマリアベルをはじめとした、この場にいる者たちを嘲笑しているということに。
「……レイナス殿下。ここはマリアベル様の御前です。如何に御子であろうと、我らが主への侮辱は見過ごせませぬ。どうかお控えを……」
マリアベルが怒りを吐き出す前に、彼女の傍に控えていた女がレイナスを諫める。
王妃の私室にまで立ち入ることを許された者たち。王国や王ではなく、マリアベル個人に仕える者たち。選ばれた王族だけが召し抱えることを許された親衛隊。
彼ら彼女らは、時に王を差し置いてでも主と仰ぐ者を優先する。それだけの忠義と覚悟を有し、デイル王国としてもそれを許している。つまり、主を優先するという権限が与えられている。
たとえ相手が王子であろうと、主に対しての礼を失するならば、それを諫めるのは親衛隊の裁量の内だ。
「俺は今、母上と話をしているのだ。お前らの方こそ引っ込んでろ。そもそも、お前らの無能の所為で俺と母上はこんな話をする羽目になったんだぞ? 今さら上辺だけの忠義を振りかざして口を挟むな、この役立たずどもが」
微笑みを浮かべながらの軽い口調はそのままに、レイナスは親衛隊に対して猛烈な毒を吐く。こき下ろす。
場に刹那の間が生まれる。皆は突然のことで処理が追いつかない。言葉の意味が入って来ない。
「……レイナス。我が親衛隊への侮辱は許しません。今すぐに先の言葉を取り消し、謝罪しなさい」
撒き散らされた毒に、真っ先に反応を示したのはマリアベル。ゆったりとした口調と表面上の平穏は保っているが、その身の内には怒りの火が灯った。
「はは。これはこれは。母上ともあろう御方が、こんな役立たずの不忠義者どもを庇い立てるとは。母上は聡明さだけでなく、とても深い慈愛の心をお持ちのようですね」
「レイナス。二度目です。今すぐ親衛隊へ謝罪を。たとえ我が子であろうと、三度目があれば謝罪だけでは済ましません」
マリアベルは周囲から深い情愛を持つ御方だと評されている。礼を失しない限り、その出自や来歴だけで相手を判断することもない。公平な目と耳を持ち、相手が誰であろうと、まずは語り合おうとする姿勢も持ち合わせている。
しかしその一方で、一旦その怒りに火がつけば燃え上がる。周囲を焼き尽くすほどに。当人の語りの通り、たとえ相手が我が子であろうと容赦しないという苛烈な面も持ち合わせている。
「……レイナス殿下。我ら親衛隊への暴言について謝罪を願います。どうか……」
主であるマリアベルの気質を誰よりも知る親衛隊だからこそ、レイナスへの謝罪を要求する。それは自分たちが軽んじられたことよりも、主の怒りを鎮めるための申し出。
「母上。いえ、マリアベル第一王妃殿下。貴女に仕える親衛隊の者について、不忠義者であると断じたことについて謝罪いたします」
謝罪の意を表しながらも、極端に感情が抜け落ちた平坦な声に表情。つい先ほどまであった微笑みと軽妙な口調がレイナスから消え失せた。
まさに一転。暗転。
マリアベルからすれば、それは燃え上がろうとしていた怒りの火に浴びせられた冷水のごとくだ。
「……分かれば良いのです」
突然に切り替わった王子の姿に皆が戸惑い、またもや場の空気が一瞬止まる。
「マリアベル第一王妃殿下が求めるのであれば、俺は親衛隊による鞭打ちの罰を受けても構いません。それを前提で改めてお聞きしたいことがあります」
表れる表情は無。まるで精巧な人形細工の如くレイナスは言葉を紡ぐ。思わず、マリアベル側にあった剣呑な空気が、若干の戸惑いを含んだものへと移ろう。
「……良いでしょう。罰を受ける覚悟を以て口を開くのであれば、私はその言葉をしかと聞きましょう」
「ありがとうございます。……ではお聞きします。俺は今、何故マリアベル第一王妃殿下の御前にいられるのですか?」
覚悟を以ての質問なのだろうが、それを聞く者たちは質問の意図が理解できない。
「……この会談の理由を問うているのですか?」
「いえ。会談の理由ではなく、この会談が行われた理由です」
「?」
この場の誰もが、決して理解も共感もできはしないが、言葉を紡ぐレイナスの内心には怒りがある。
それは先ほど燃え上がろうとした、マリアベルが抱いた〝主従ごっこ〟による怒りとは比べ物にならぬ程の怒り。
かつての世界で、彼が弟ルークへの嫉妬心や劣等感を抱いた際に……それに同調し、王宮内での派閥による対立や確執を招いたのは誰あろうレイナスの母、第一王妃マリアベルだ。
あの時、王妃マリアベルを諌め、諭すことができる真の忠臣がいたら……親衛隊が主の暴走を止めてくれていれば……。
レイナスが今抱いている怒りは、所詮は自分勝手な八つ当たりに過ぎないのも分かっている。だからこそ、この世界で繰り返すことを容認できない。したくない。
「質問自体が腑に落ちていないようなので言い方を変えましょう。俺は見ての通り正装ではありません。何故、こんな俺を誰も咎めなかったのです? 礼を失した者が妃殿下の御前に通された理由は? 俺が王子だから? 既に王宮を離れた者なのに? 確かに王子である俺は王宮への立ち入りに制限はない。しかし、王宮の奥の間を訪れる際には身を検められるのが基本。特に王族の私室にまで立ち入る際には、親衛隊の検分が欠かせないはず。なのに、妃殿下の御前へ通されるまで俺は誰にも止められなかった。何故です?」
「……」
それは当然の指摘であり疑問。事実として、王宮を訪れた際に怪訝な目こそ向けられたが、こうしてレイナスはマリアベルの私室へと案内された。
誰も止めない。誰も咎めない。
マリアベル自身も、そこには何らかの意図があるのだろうとしてレイナスの礼を失した装いについては見逃していた。
母と子。マリアベルとレイナスの関係性を考慮したと言えば聞こえはいいが、客観的に見れば、親衛隊が主への無礼を見過ごしただけでしかない。
「そもそもの話、何故この会談が必要だったのでしょう? 先ほどもお伝えしましたが、この件は終わった話です。サラリア離宮のシャーニ離宮長は適正に手続きを進めました。王位継承権を持つ俺の婚約者についての話など、陛下や妃殿下の了承もなく進められるはずもない。当然にお二人には書面にて事と次第を説明していました。その上で了承を頂き、王室庁への具申と相成ったのです」
「私は了承などした覚えはないと先にも言ったはずです」
「たとえ貴女がご存知なくとも、マリアベル第一王妃殿下が了承の意を示した公的な書面をシャーニ離宮長は確かに受け取ったのです。いえ、今回については、むしろ妃殿下からは書面しか頂戴していないと言うべきかも知れません」
王妃自身が知らぬとしても、既に公的な書類は発行されている。相手側はそれを受け取り手続きを進めた。結果、手続きは正式に受理されるに至った。
「……レイナス。私はそのような書面の発行は許可していません」
「マリアベル第一王妃の名で正式に発行された書面が現に存在する以上、今さらそのような言い分は通りません。その書面は王室庁によって認められた物であり、妃殿下の印も本物です。当然に偽造などではあり得ません。このようなことが起こるのは妃殿下も十分にご理解されているはず。もしこれが他国との外交上のやり取りであったならどうです? それでも妃殿下は、子供の言い訳にもならぬ『自分は書面の発行を許可していない』などという戯言を吐きましたか?」
「……」
示す事実は明らか。王妃の執務を取り仕切る者たちが、事務手続きの内容を精査していなかったということ。マリアベルが最終的な確認を怠っていたということ。
「ちなみに、シャーニ離宮長からの連絡を確認した陛下の親衛隊は、間を置かずにサラリア離宮を訪れ、直接俺やシャーニ離宮長から詳しい内容の聞き取りを行いましたよ。その上で、陛下自らがアリア嬢との婚約解消についての具申を許可しました。一応、シャーニ離宮長は確認の為の書類を妃殿下に宛てて何度か送りましたが、いずれも了承を示す形式的な書面が返って来ただけで、ついぞ妃殿下側からの直接的な接触はありませんでした」
マリアベルの瞳には先程とは別種の怒りが宿る。同時に己への羞恥も。親衛隊たちの顔色も悪い。蒼白。事ここに至ってようやく自分たちの失態を理解した。
「さて、重ねての質問です。何故、俺は今、ここで妃殿下と会談を行っているのでしょう?」
一方のレイナスは淡々と語るのみ。マリアベルとその親衛隊が遂行した実務の杜撰さを。
「……ならば、貴方はなぜに正装で奥の間を訪れなかったのですか? この母である私を、私の親衛隊を試すような真似が……王子の振る舞いに相応しいとでも?」
それは苦し紛れ。マリアベルは、自分や親衛隊が刺されるだけだと知りながらも、つい問うてしまう。
「もちろん、不敬であるのは承知の上です。しかしながら、俺は俺の無礼を、妃殿下の親衛隊が止めると一方では信じてもいました。このような不埒者を妃殿下の御前に案内するはずがないと。そう――信じたかった……ッ!」
淡々と語っていたレイナスの瞳が揺れる。声が僅かに震える。それは怒りと共に、ある種の哀しみを内包している。
「……」
マリアベルとその親衛隊は沈黙するしかない。どうあっても、このやり取りで彼女らの〝勝ち〟はない。
「――あぁ、もう一つ。先程、俺は妃殿下の求めに応じて親衛隊の忠義を蔑ろにしたことについて謝罪しました。どうでしょう? 妃殿下の親衛隊が役立たずの無能だと侮辱した件について、改めて謝罪は必要でしょうか?」
落ち着きを取り戻した王子は問う。
先ほどのレイナスの謝罪はあくまで不忠義云々について。親衛隊が無能である旨については、もはや謝罪の必要はないはずだと突き付ける。それはそのまま、そのような無能者どもを親衛隊として重用しているマリアベルへの非難に通ずる。
「…………我が親衛隊への改めての謝罪をレイナスには求めません。また、先程貴方に謝罪を求めたこと自体を、今ここで、マリアベル第一王妃の名の下に撤回しましょう」
表に出たのは、ゆったりとした口調でのこれまでと同じような音。しかしながら、それはマリアベルが絞り出すようにして発した言葉。
「そうですか。では改めて……マリアベル第一王妃殿下の親衛隊は、上辺だけの忠義を振りかざす浅はかな不忠義者どもであり、必要最低限の実務すら遂行できない無能な役立たずであると指摘しましょう」
「……ッ!」
「ぅ!」
「くッ!」
親衛隊たちの相貌が歪む。散々な言われようにどうしても反応してしまう。
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