第1話 餌を撒く
◆◆◆
「アリア・ローゼイン。君との婚約を破棄する」
それは突然の出来事。
レイナス・アーク=デイル王子が告げる。衆人環視の下で婚約の破棄を。
場が静まり返る。
「……レイナス殿下。そこまで蒙昧となられましたか。私と貴方の婚約は王家とローゼイン侯爵家との約定です。そのような言葉一つで覆せると本気でお思いなのですか?」
レイナスからあり得ない宣告を受けた相手。左右で異なる色彩の瞳を持つ、美貌のアリア・ローゼイン侯爵令嬢が静かに応じる。
「くくく。君だって落ちこぼれの俺なんかより、ルークが相手の方が良いだろう? 申し子同士お似合いだろう。はは。何より既にお互い深い仲なんだしな」
「……殿下、ご自分が仰っていることの意味をお分かりですか? 私がルーク殿下とそのような仲などと……この上ない侮辱です。私に対しても、ルーク殿下に対しても。恥を知りなさい!」
金と翡翠。それぞれの瞳に怒りを湛えながら、それでもアリアは平静に応じる。
「ふっ。俺が恥知らずで愚か者なのは既に皆が承知のことだろうさ。だが、そんな俺との婚約をずるずると引き摺りながら、婚約者の弟に懸想し、喜んで腰を振る君も十分に恥知らずだろうに……くくく。なにが〝そのような仲〟だ。今さら上品振るなよ。はっきり言えば良いだろ? ルークとは睦言を交わす仲だとなぁッ!」
「ッ!!」
そこは王立魔導院の講堂。この場にいるのは、皆が魔導の資質を持つ選ばれた者たちであり、平民もいるにはいるがそのほとんどはデイルの王侯貴族に出自を持つ者たち。
一般における公衆の配慮としても、貴族社会においての暗黙の了解としても、婚姻・婚約関係にない者同士が、一線を越えた仲であると吹聴するなど以ての外。
貴族の令息令嬢が相手であれば、そのまま家を巻き込む決闘騒ぎになるほどの侮辱。
魔導学院に在籍しながらも、ほとんど姿を見せなかった落ちこぼれの王子。
そんな彼が、式典の準備中に突然現れ、正式な婚約者に対して最上級に近い侮辱を吐く。そのような奇行に走るなど、流石に誰も予想できなかった。
周囲の者たちも呆気に取られて思わず息を飲む。
「……レイナス殿下。貴方の今の発言は私個人だけではなく、ローゼイン侯爵家への侮辱と受け取りました。後日、正式に貴方個人と王家にローゼイン家として抗議いたします。それを前提とした上で、まずはこの場で先の発言の撤回を求めます」
頭の芯のナニかが切れそうになるほどの怒りを覚えながら、それでもアリアは冷静に言葉を紡ぐ。
「ん? 先の発言の撤回? はは。君がルークと寝ているのは皆が知っていることだと思っていたがなぁ。俺がとある令嬢と閨を共にしていることも、娼館に通っていることも含めて――」
「レイナス殿下ッ! 貴方という人は……ッ!」
瞬間的に怒りを通り越す。異能を宿すその金色の右眼に魔力の火が灯る。
「ははは! どうしたアリア? その〝龍眼〟で俺の死に様でも見透してくれるのか!? いいぞ! やってくれ! この愚かなレイナスがどんな風に死ぬのかを教えてくれよ! どうなんだ! 優秀なルークの未来は見透したんじゃないのか!? あいつが王となり、その正室の座を自らが勝ち取る姿をなぁッ!」
「く……ッ!」
大仰に両手を広げ、高らかに笑うレイナス。
婚約者であるアリアはもとより、周囲の皆も既に知っていた。弟であるルーク王子への歪んだ劣等感によって、彼がとっくに〝壊れている〟ことを。
魔導学院に在籍となった直後の頃はまだ良かった。弟と比べられながらも、真面目に勉学に取り組んでいた姿も見られた。
だが、次の年にルーク王子が正式に王立魔導学院へ在籍となってからは、徐々にレイナスの陰は濃くなっていく。弟を避けるように学院に姿を見せなくなっていく。
そんな彼にとって止めの一撃となってしまったのは、皮肉にも献身的に彼を支えようとしていた婚約者アリアの存在だった。
魔導学院の実習中、彼女は不注意から事故に巻き込まれ大怪我を負った。全身を強く打ち、右眼は潰れた。一時は生死の境を彷徨うほどに切迫した容体。
王室御用達の医師や高位の治癒術の使い手による懸命な治療により、彼女は命を拾う。死の淵から現世に舞い戻る。
そして、目覚めたアリアは〝申し子〟となっていた。覚醒してしまった。
潰れた右眼は金色をまとい再生する。申し子の中では、比較的広く知られた〝龍眼〟と呼ばれる異能を発現するに至った。
それは視えざる物を視る力。エーテルを可視化し、向き合った者の未来さえ見透すと伝えられる異能。流石にアリアにはそこまでの力はなかったが、それでも彼女がデイル王国において特別な存在となったのは間違いない。
弟に次いで婚約者まで。
結果として、レイナスの中でナニかがぷつりと音を立てて切れた。
「レイナス殿下ッ! 何故にこのような愚かな振る舞いをなさるのですか!? 貴方は栄えあるデイル王国の第一王子なのですよ!」
アリアは抑えていた感情と共に吐き出す。
自身が申し子となった事実が彼の心を折ってしまったと知りつつ、それでもここ数年のレイナスの振る舞いを許容することはできない。幼馴染としても、婚約者としても、デイル貴族の者としても。
「ははは! なにが第一王子だ! 誰も俺をそんな風に見ちゃいないだろ! 落ちこぼれの出来損ないであり、優秀なルーク様の引き立て役でしかない! 王室から出た〝奇跡の申し子〟! 有能で皆に慕われるお優しいルーク様! ははッ! そんな素晴らしいルーク様なら、兄の婚約者と寝ても許されるというわけだ!」
「殿下ッ! もう私に対してどのような妄言を吐こうが構わない! しかし、ルーク殿下を貶め、ご自身を卑下するような真似はお止めなさい! あの不埒者の令嬢どもとの付き合いも今すぐに断つのです!」
アリアが〝龍眼〟に目覚めてからしばらく後、どこから連れて来たのか、レイナスは胡散臭い取り巻きに囲われていた。
名ばかりで実のないデイル貴族。爵位を金で買った成り上がり者たちを引き連れ、いかがわしい盛り場や娼館に出入りするようになる。そして、そんなレイナスに影のように常に付き従う令嬢がいた。
「不埒者の令嬢どもか――はは。確かにジュディはとんでもない女だった。俺はもう……彼女が傍に居てくれればそれで良かったのに……幾度となく肌を重ね、夜ごとに朝まで語り合ったが……間抜けな俺には、彼女のことがなにも見えていなかった。もはやどうしようもないところまで来てしまった……くくく……」
「殿下?」
ルークやアリアへの劣等感に苛まれて壊れてしまった。
自分にとってこの世界は生き地獄。
レイナス自身もそんな風に思っていた。
違う。甘い。甘過ぎた。壊れるなど烏滸がましい。今までは自暴自棄になり、ただ楽な方へ流れされて漂っていただけ。
あの程度で何が生き地獄なのか。本当の地獄の底は更に更に下へ下へと続いている。その入り口すらレイナスには見えていなかった。
そのことを悟った時、彼の後悔の旅路が始まる。
鐘が鳴らされる。地獄へと続く道の扉を開くための鐘が。
「レイナス殿下! ご同行を願いまするッ!」
「皆もその場から動くなッ!!」
「ッ!?」
「え? 何だ!?」
「お、王室近衛兵ッ!? どうしてこんなところに!?」
王立魔導院の講堂に突如としてなだれ込んでくる兵たち。それも精鋭たる王室近衛兵。
訳が分からないとばかりに騒然となる講堂。
突然のことに右往左往とする学院生たちを後目に、近衛兵たちの動きは素早かった。あっというの間に目標へと肉薄する。対象者を取り囲む。
「くくく。思ったよりも早かったじゃないか……いや、この場合は遅すぎるというべきかな? ふはははッ!」
皆が困惑する中、レイナスの嗤い声が講堂に響く。彼は近衛兵を待ち侘びていた。冷静に自らの破滅を受け入れていた。
「レイナス殿下、おとなしくご同行を……」
「どうか抵抗しようなどと考えないで頂きたい。我らの本分は王室の守護です。王室の一員である殿下を力尽くで拘束するような真似はしたくありません」
彼ら王室近衛兵の目標は誰あろうレイナス・アーク=デイル。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! どうして近衛兵が殿下を!? 一体何が!?」
どれほどの侮辱を受けようとも、身に染みた婚約者としての……王子を支える者として習いがアリアを動かす。近衛兵との間に体を滑り込ませ、咄嗟にレイナスを庇う姿勢を見せる。
「アリア・ローゼイン侯爵令嬢。貴女にもご同行を願いましょう。これは我ら王室近衛兵の正規任務としての行動です。任務についての背景をこの場で説明することはできませんが……王宮にて陛下や妃殿下、ルーク殿下を含め、王室庁や元老院の主要な方々からもお話を聞くがよろしい」
「王室の方々に元老院までッ!?」
「ふははは! 良かったじゃないかアリア! 今回は君も王室の一員として扱われるようじゃないか! やはりルークの正室はアリアで決まりのようだな! ふふ、ふははははははッ!」
両手を掲げて天を仰ぎ、気が触れたように嗤うレイナス。
デイルを飲み込む地獄の到来と己の愚かさを呪う。
その時、彼の頬には一筋の雫が溢れていたのだが、それを知る者は少ない。
それはデイル王国の暗黒の幕開け。
災いを招いた者たちの策動が白日の下に晒されるきっかけとなった一幕。
◆◆◆
落ち着いた色調の調度品で揃えられた部屋。執務室。石造りの壁には天井にまで届くほどの本棚が設置され、その中には所狭しと書類や文書が詰め込まれている。
今は日も沈んだ頃合い。窓から差し込む陽の光の代わりに、備え付けられた魔道具によるほのかな明かりが部屋を照らしているといった具合。
「婚約の破棄ですか?」
どっしりとした執務机の上には、処理を待つ書類たちが積み上がったまま。
部屋の主は真っ白な髪を丁寧に束ねたサラリア離宮の長であるシャーニ女史。
彼女は話を持ってきた相手が相手の為、作業の手を止めて来客用のソファにて訪問者と相対している。
「正確には婚約内定の解消だよ。俺とアリア・ローゼイン嬢との婚約は公式に発表されたものでもないんだから、今なら王家とローゼイン侯爵家との調整だけで済むだろう? その旨を王室庁に相談したいんだ」
シャーニの前にはレイナス。そして、その後ろにはミリルが秘書のように控える。幼い主の要望もあってか、最近の彼女は常にレイナスの付き従うようになっていた。
今や王子と使用人という表向きな主従だけはなく、雇い主と二重間者という裏の意味も付け足されているが。
「殿下がお望みとあれば喜んで……と言いたいところですが、その内容故に私としてはなんとも扱いづらいです。そもそも殿下とアリア嬢との婚約は昨年内定したばかりですのに……」
「状況が変わったんだから仕方がない。それに、むしろアリア嬢とは数えるほどしか会っていない今だからこそだよ。これからお互いの家を行き来したり、公務を共にしたりと交流が増えていくはず。そうなれば、公式に発表しなくても皆が察してしまう」
レイナスがシャーニに持ち込んだのは、王家とローゼイン侯爵家との間で内定している婚約の解消についてを、王室関連の祭事や事務の全般を取り仕切る王室庁へ上げて欲しいという相談。
「しかし殿下。状況が変わったと言いますが、レイナス殿下とアリア嬢の婚約についてはなにも変わらないではありませんか?」
レイナスが暮らすサラリア離宮を任されているシャーニの立場としては、幼い主の望みはできる限り叶えるために動く所存ではある。しかし、今回は第一王子の婚約という内容故に、主の言い分に唯々諾々と従うのも憚られる。なにしろ王家と侯爵家の取り決めなのだ。
「そりゃ確かに俺やアリア嬢が直接どうのこうのじゃないさ。シャーニにだって分かってるくせに。状況の変化というのは、申し子となったルークについてだよ。先日、王宮に快癒の挨拶に出向いた時に聞かされたんだ。バーバラ様がルークの立太子を具申し、陛下と王室庁が協議の場を設けることになったってね」
「……やはり殿下もお聞き及びでしたか。まだ公式な情報ではない為、殿下にお伝えすべきかを迷っておりました。誠に申し訳ございません」
シャーニは静かに立ち上がり、淀みのない動きでぴしりと頭を下げる。幼き主に許しを請うための謝罪の礼を取る。
「別にシャーニに謝られる筋合いはないんだけど……分かったよ、俺はシャーニ離宮長の謝罪を受け入れる。この先、この件についてシャーニに更なる謝罪を求めたりはしないよ。さ、これで良いだろ? それよりも婚約解消のことを相談したいんだ、座ってよシャーニ」
「承知しました。殿下、私の謝罪を受け入れていただきありがたく存じます」
堅苦しく形式に拘るシャーニだが、それは彼女にとっての自然体。また、主にとって不快、不利益となりそうな情報を吟味するのも離宮長の仕事の一つ。
デイルにおいては、第一子が必ず王位や爵位を継承する訳ではないが、それでも第一子が嫡子として扱われる場合が多く、健在であるレイナスを差し置いて第二王子のルークが……ということに抵抗を覚える者も少なくはない。
「まぁバーバラ様としては我が子を王にしたいんだろう。なにしろルークは申し子なんだ。この上なく分かり易いと言えば確かにその通りだよ。第一王子である俺との差が明らかになった今の内に、さっさとルークを王太子にして安心したいというのもあると思う。今後、第三、第四と王位継承権を持つ子が生まれるかも知れないしさ」
「しかし……レイナス殿下はそれでよろしいのですか? 婚約の解消というのも、ルーク殿下とアリア嬢の婚約を見越してのことなのでしょう?」
「よろしいもなにも……今の俺にバーバラ様や王室庁に逆らうような力はないよ。それに、王位継承について口を挟むのは不敬だよシャーニ。バーバラ様にもそう言われたしさ」
子供ながらにどこか陰を落としたような表情。くたびれたような苦笑いを浮かべながら語るレイナス。その姿は、腹違いの弟とその母に王位継承の道を塞がれつつある第一王子のそれ。
「バーバラ妃殿下に?」
「あぁ。俺が意識を取り戻した日の見舞いの最後にね。あの時は……ミリルもいただろ?」
「え? ええ……い、いえ、バーバラ妃殿下とルーク殿下のお見舞いには同席していましたが、そのような話は……あ、レイナス殿下がバーバラ妃殿下を呼び止めた後のことですか?」
急に話を振られたミリルは咄嗟に記憶を探るが、レイナスとバーバラの間での王位継承云々の話は聞いていないと思い返す。
「そうだった。ミリルはルークを案内してたんだったな。あの時、俺はルークに事故のショックが残っていないか、普段の様子を聞きたくてバーバラ様を呼び止めたんだ。まぁ話の流れの中ではあったけど、バーバラ様に『王位継承について口を挟むのは不敬だ』と牽制されたよ」
「そ、そのようなことが……いえ、私などが詮索するのは筋違いですね。申し訳ございません」
「はは。もう謝罪は良いよシャーニ。まぁそういうわけだよ。バーバラ様がそう仰るなら、俺は邪魔をしないようにおとなしくしておくよ。俺とルークが王位継承を巡って争うなんて、デイルにとっては害でしかないからね。それにルークは申し子だ。第一子を飛び越えても特に問題にはならないはずだよ」
レイナスは静かに行動を開始している。デイルを覆う謀略の糸を少しでも断ち切る為に。流石に黒幕にまで手が届くとは思わないが、せめて手の届く敵は討って見せると腹を決めた。
「では、殿下は自らが身を引くという意思を表す為にアリア嬢との婚約解消を望んでいるということですね?」
「その通り。その上でアリア嬢をルークの婚約者として推薦するつもりだよ。第一王子である俺の婚約者として内定してたってことは、元々アリア嬢は正室候補だろうしね。相手が俺からルークに変わっても、ローゼイン侯爵家が王家に強く抗議したりはしないと思う。まぁあくまで王家側の都合だから、先方にはそれなりの誠意を見せる必要はあるだろうけど……」
せっせと餌を撒く。デイルに仇なす者どもが食い付き易い餌をこれ見よがしに。
誰が一番に餌に食い付いてくるのか?
レイナスは待ち構えている。
◆◆◆




