第5話 決意
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耳に心地よい小鳥のさえずり。
穏やかな日差し。
そっと肌を撫でる優しい風。
訪れる者が視覚的に楽しめるようにという思惑により、美しく整えられた庭園。
そんなサラリア離宮の庭園にて、幼い主と年若い使用人が向き合っていた。
「? ダ、ダリジャン一派の紐付き……ですか? え、ええと……殿下の仰る意味が分からないんですけど?」
小首を傾げならがら、きょとんとした顔の年若い使用人。幼い主の真剣な問いだからこそ、まさに肩透かしを食らったようなミリルがそこにいた。
「……そうか。やっぱり聞くんじゃなかったな」
一方、問いを放った側の幼い主。レイナスは分かり易く落胆していた。
肩を落として大きなため息を吐く。見た目は紛れもない子供ながら、その仕草はどこかくたびれた大人のそれを想起させる。
「よ、よく分かりませんけど……で、殿下、お、お気を落とさずに……? えぇと……ほ、ほら! 他に聞きたいことがあるならお答えしますから!」
何だか分からないが落ち込んでいる様子の幼い主を慰めようと、無理矢理に明るい声を出す使用人。そのまま主に向かって一歩を踏み出そうとするが……。
「ぅッ!?」
その足が止まる。思わず少女は息を呑む。
「あぁ。警告が遅れたが、それ以上俺に近付くなミリル。いや、確か……本名は〝シェリー〟だったか?」
「!?」
落胆していたかと思えば、一転して感情の抜け落ちた表情を見せる幼い主。その冷たい瞳が使用人の少女を捉える。
「泣ける話だな。ダリジャン伯爵家の怒りを買った家族のために、幼いながら自ら名乗り出て買われていったという商家の娘。密偵として仕立て上げられ、バルボアナ男爵家に貸し出されたダリジャン一派の手駒。まぁその背景には同情するよ」
「……ッ……!?」
まるで物を見るかのような無感動さでミリルを眺めながら、レイナスは独白のように淡々と語る。いつの間にか、その冷たい瞳には淡い灯火が……凝集されたエーテルが宿っている。
「どうしたシェリー? 少し殺気が漏れてるぞ? 〝おっちょこちょいで天真爛漫なミリル・バルボアナ男爵令嬢〟を演じないのか? 『家督継承の望みも薄いし、私の器量とバルボアナの家格じゃ政略としても大した価値がないので……行儀見習いの後は使用人としてどこかの貴族家に拾ってもらいたいんです』なんて言って笑ってたじゃないか」
「あ、あはは……い、一体何のことでしょう? 私には殿下が何を仰っているのか……ま、まるで分からないんですけど?」
そんな訳の分からないことを投げ付けられても困る……という、ぎこちない笑みと困惑を浮かべるミリル。それでいて、彼女の体は自然と状況の打開へと傾いていく。
「……ふむ。重心を僅かに後ろにしたな? 首を刎ねられる前に後退する気だろうが……止めておけ。どうあっても俺の方が早い。……ふっ。やはりここは、俺にとって甘く優しいだけの世界じゃなかったんだな。夢か幻かは知らないが、結局はここも血と謀略の蠢くあっちと同じなのか……」
もう使用人もどきの演技にレイナスが興味を示すことはない。
その瞳はミリルの姿を映しながらも、彼は既に彼女のことも見ていない。謀略の手駒にまとわりつく紐の先。デイルを覆う災いの影をぼんやりと見据えている。
「で、殿下? よ、よく分らない陰謀ごっこは終わりにしてくれませんか? とりあえず、こ、この物騒なモノを引いて欲しいんですけど……」
ミリルはミリルで、白々しくも自身の要望を口にする。子供のお遊びというには危険過ぎる状況を脱したいと願う。
彼女の足が止まった理由。
動けない理由。
現在進行形で嫌な汗が噴き出ている理由。
それはエーテルで構成された極々細い糸。
視覚的にも、気配的にも巧妙に隠された凶器が、いつの間にかミリルの首筋に軽く触れている。その白い肌に一筋の赤い血が薄らと浮かぶ。まるで鋭利な刃物を突き付けられているかのように。
「設定と覚悟が甘いな。〝ミリル・バルボアナ男爵令嬢〟は、まだ本格的に魔術の訓練を受けていないという体だったはず。なのに、どうして隠蔽されていたソレに気付けたんだ? 間者としての本分を果たすのであれば、君は気付かない振りをして、そのままばっさりと首を刎ねられるべきだった」
魔術による仕掛け。それも離宮内の守衛や警備用に設置されている魔導具の感知をすり抜ける程に高度な術。
ただの使用人が気付けるはずのない凶悪な魔術。
レイナスが突き付けた剣。
身に危険が迫る直前とはいえ、その存在にミリルは気付いた。足を止めた。
それは大罪人として、デイルを襲う数々の災いを知っているレイナスが、この幻想の世界を試すための仕掛け。
もし、ミリルが仕掛けに気付かなければ、元の世界と素性の違う人物であるならば……彼は即座に術を解いていた。
そして、自らの意識が消失するその時まで、揺り籠に優しく揺られるように、この幻想の世界で微睡みながら暮らしていくつもりだった。
しかし、彼女は足を止めた。命を狩る仕掛けに気付いた。
レイナスは確信する。してしまう。ミリルは元の世界と同じ背景を持っていると。この幻想の世界も元の世界と同じなのだと。
ダリジャン家の手駒。
内憂の走狗。
外患を呼ぶ災いの種。
己の利益を求める輩。
狂信に駆られた強大な敵。
そんな連中が跋扈するデイル王国。
「あ、あはは……で、殿下。流石に命の危険があれば誰だって勘付きますよ? ちょ、ちょっと血も出てるし……乙女の柔肌に傷を付けるなんて……ダ、ダメですよ? まったく、殿下は紳士としてはまだまだですね!」
滝のような汗を掻きつつ、無理矢理に明るい声を出して笑顔を繕うミリル。たとえレイナスが確信を得ようとも彼女の行動に変わりはない。何も知らない使用人として振る舞う。それがどれだけあからさまであっても。
「往生際が悪いなミリル。正体のバレた密偵など、すでに終わった駒だ」
「だ、だから、私には殿下がなんの話をしているのかさっぱりなんですけど?」
悪あがきにしか見えない言動。そんな彼女の様子を前にしながら、レイナスは過去に思いを馳せる。
かつての世界でのこと。
詳しい事情について、当時のレイナスは知らなかった。
罪人として幽閉されてから、彼は一連の謀略や侵略の痕跡の数々を資料として見せられた。強制的に。
己の軽挙妄動が招いた現実を直視し、その罪の重さを知れ。
それは愚かな元・王子に課せられた罰の一つ。
そんな日々を過ごしていたある日、レイナスは資料の片隅でサラリア離宮の関係者の名を見つける。その内の一人がミリルだ。いつの間にいなくなっていた使用人の少女。
王国暦485年の記録。
ザクセン辺境伯領にて民衆の武装蜂起の変事あり。
そんな一報が王都に届けられた頃。
デイルを覆う謀略に気付く者が増え、いよいよ隠されていた仕込みが大々的に表に出て来る頃の記録。
王都の片隅で一人の女が死んだ。
全身をずたずたに切り裂かれた遺体が路地裏に打ち棄てられているのが発見された。
遺体の身元を確認しようにも、目視では叶わない程の惨状。
魔術を用いた数回の調査により、ようやくその遺体がミリル・バルボアナ男爵令嬢であることが判明する。
しかしながら、本物のミリル・バルボアナ嬢はとうの昔に病没しており、シェリーという名の商家の娘がバルボアナ嬢に成り代わっていたという事実を、王国の暗部機関が確認するに至る。
が、追求はそこまで。
すでにバルボアナ家の主要な者たちは国外へ逃れたあと。
真相は不明ながらも、ミリルことシェリーが凄惨な状態で始末されたのは、口封じと同時に組織内の見せしめを兼ねていたのではないかという推察が非公式な報告書にまとめられていた。
結局、彼女は一派に利用するだけ利用され、用済みとなったところで切り捨てられた哀れな道具でしかなかった。それ以外の何者にもなれなかった。
ただ、その報告書を見たレイナスは改めて気付かされたものだ。デイルを覆う謀略の糸は彼が幼い頃からあったという事実に。
そんな時分からデイルは蝕まれていたという事実を、レイナスは罪人として裁かれてからはじめて知った。あまりにも遅過ぎた。
籠絡され利用されたレイナスの罪が消えることはないが、デイル王国が迎えた国難というのは、結局のところ起こるべくして起こったという類のもの。
敵の巧妙さもあるだろうが、デイル王国自体が無能を晒し続けた結果の蓄積だったわけだ。
「ミリル。俺は君の個人的な事情は知らない。言い訳や演技も要らない。ただ選んでくれ。このままここで死ぬか、ほんの少しばかり俺に従い協力するかを」
「…………」
レイナスは思う。過去をなぞるこの幻想の世界に迷い込んだ理由は分からない。ここでなにを成そうが意味などないのかも知れない。それでも、かつての後悔を、デイルを蝕む害悪を放置する気にはなれない。謀略と戦禍に飲まれる過去を見過ごすことはできない。
「で、殿下。何度も言いますけど……このミリルには、殿下が何を仰っているのか……」
「そうか。では『ここで死ぬ』という選択でいいんだな?」
「ぁぅッ!?」
締まる。首元への唐突な圧迫。ミリルに呼吸は許されない。魔術の形態が変わる。切れ味の鋭い薄く細い糸状から、厚みのある紐状に。
「残念だよミリル。この世界があっちと同じなら、少しは役に立ってくれると思ったんだが……仕方ない」
「!? ぐぅッ!?」
首の圧迫だけではなく、いつの間にか手足も動かせないように拘束されている。ミリルはもはやもがくことすらできない。思考は散り散りとなり困惑に襲われる。
耳には己の心臓の音。
汗を増すだけの鬱陶しい日差し。
肌に張り付くような感触の嫌な風。
過度の集中によって視界も狭まる。
ミリル・バルボアナはまさに窮地。
ほんの少し前までは上手くいっていた。そう信じられるだけの手応えが確かにあった。
まさか、こうも突然に進退窮まる事態に陥るなど、彼女は思いもしなかった。
「すまないが後始末の手間もある。ばっさり斬ったり、分かり易く首を圧し折ることはできない。苦しいだろうが、とりあえず窒息で死んでくれ。利用されていた末端であっても、君はデイルに騒乱を招いた実行犯の一人でもあるしな。もう一度その命で贖ってもらおう」
遠目から見ると、二人はただ向かい合って立っているだけに映る。
レイナスからすれば、今は守衛の目を多少誤魔化せば良いだけ。死後の処理は後で考えれば良いとばかりの雑な偽装ではあるが、この場では必要十分なもの。
彼の魔術は淀みなく、流れるように発動した。躊躇もない。他者に対してこうも直接的に魔術を使用するのは初めてのことだったが、それでも彼は、平静なまま使用人の命を奪うという決断を下す。
一方のミリルからすれば、唐突な窮地の到来。絶体絶命。それも幼い主の訳の分からない言い分によって。
彼女は徐々に暗く狭まっていく視界の中で、目の前に立つ王子を捉えた。その冷たい瞳を見た。
『死ね』
それ以外の余計な思惑などない。その顔にも色がない。なんの表情も浮かんでいない。作業のように命を奪う者。ミリルは今のこの状況が決して脅しなどではないと悟る。
「ぁ……ぅ……ま、まっ……て……ッ!」
彼女の脳裏に雷が走る。鮮烈に焼き付いた感情は恐怖。根源的な死への恐れ。
『死にたくない! まだ終わりたくない!』
咄嗟にミリルの中のナニかが叫ぶ。そして、実際の言葉としても表に出る。
「っッ!! おね……が……! し、死に……た……くないッ!」
少女の瞳にはありありとした恐怖が浮かび、涙が溢れる。レイナスはそれを見た。ミリルの死にたくないという意思をはっきりと確認した。
「そうか。ミリルは『死にたくない』のか。悪いが、それは俺が提示した選択肢にない。ここで死ぬか、少しばかり俺に従い協力するかを選んでくれと言ったはずだ」
「ぅッ!?」
レイナスからすれば、死に瀕した者が命乞いをしただけ。提示した選択肢にない答えを出されても困る。だからどうしたというもの。
死にたくないと訴えただけで命が助かるのであれば、世の中の仕組みはもっと単純明快にできている。
自身に落ち度もないのに、もっと生きたいのに……それでも、迫る死を回避することができなかった者など、それこそ星の数ほどいただろう。
愚かな王子の所為で、デイル王国ではどれほど多くの血と涙が流れたか。どれほどの無辜の民が苦難の道を歩むことになったか。どれほどの者が慟哭の末に死んで逝ったか。
レイナスは知っている。己の罪と残酷な世の仕組みを。
覚悟を決めた以上、彼は単なる命乞いに応じたりはしない。
一方、呆気なく命乞いを流された側。
ミリルは苦しみ悶え、困惑し、朦朧とする意識の中で選ぶ。まさに失われつつある自らの命を懸けて。
「……ぁあ……ッ! ……し……した……がぅッ! で、殿……下にッ!」
本人が思う程の音にはならなかったが、彼女は提示された選択肢を叫ぶ。吼える。
「そうか。ならばミリル。この世界では少しばかり俺のために働いてもらおう」
その瞬間、首の圧迫をはじめ、彼女を場に固定してた力が失せる。解放されたミリルはそのまま膝から崩れるように倒れ込む。
「――――ぁぁぁあぁッ! かは……ッ! げほッ……! はぁ……はぁ……ッ!」
四つ這いになり、妨げられていた分を取り戻すかの様に、彼女の肉体はほんの少し前まで当たり前だった生命活動を慌ただしく再開する。堰を切ったかのように、生きた血が体内を駆け巡る。
涙が止まらない。それは生理現象なのか、死の恐怖によるものか、はたまた迫りくる死を逃れた歓喜からなのか。ミリル自身にも分からない。
そんな少女を見下ろすのはレイナス。見た目はまだ幼い子供ながら、冷静に状況を考察していた。
「(それにしても……こっちでは隠蔽以外で初めてまともに魔術を使ったが、想定以上の精度だな。記憶や意識だけじゃなく、魔術の練度もあっちから持ち越しているのか? まぁ、ある程度の距離があれば守衛や魔導具の感知をすり抜けられると知れたのは良かった)」
魔術。魔力を用いて、様々な現象を引き起こす魔導の技。
弟への劣等感に塗れた兄レイナスには、確かに申し子ほどの魔導の才はなかった。
しかし、それでも彼は、現代の魔導王国と称されるデイル王室に出自を持つ者。磨けば光る才は確かにあったのだ。
それを腐らせてしまったのは当人の醜く弱い心。
彼自身がそのことに気付いたのは、魔力封じの枷をされ、特殊な術式により行動を制限された虜囚の身となってから。罪人として裁かれた後だ。
己の軽挙妄動から、敵国の牙を見す見すデイルに食い込ませてしまった。
荒れていくデイル王国を知り、自己嫌悪と後悔に塗れ、いっそ死にたいと願っても、術式で縛られて自傷すらも許されない。正気を手放すような真似もだ。
罰として、正気を保ったままに、己の愚かさの結果を微に入り細を穿つかのように伝えられ続けられた。
その結果、彼は祈るようになる。
戦で死んでいった将兵を思う。
疫病や飢饉によって窮する民を思う。
領民を助けるために苦渋の決断をする領地持ちの貴族を思う。
死にたくないという理由で武器を取る者を思う。
謀略に踊らされていると知りながらも、止まることができない者たちをも思う。
伝えられる数々のデイルの苦難に対して、湧き上がる自死への衝動、後悔、苦悩、自身への怒り……それらに触発されるように、身の内で暴れる魔力。
封じられて外へ発散することもできない魔力を鎮め、苦難に晒された者たちのために、デイル王国のために、ひたすらに祈る。それが大罪人レイナスの日常。
処刑されるまでの十年以上にわたって続いたその祈りの日々は、図らずとも魔導の修練の日々でもあった。
彼が処刑台の染みの一つになる数年前には、魔導の深奥の端に指を掛ける程度には熟達していたものだ。
魔力封じの枷も、自身の行動を縛る術式についても、すでに解析済みであり、その気になれば、幽閉されていた塔から逃げ出すことすら可能だったほどには。
紛れもない自身の過去であり、十年以上の時を積み重ねた未来の技を持つ今のレイナスにとっては、魔力や己の感情を制御するのは息をするのと変わらない。手遅れで皮肉な話。拗らせて、腐らせてしまった才を、今こそ十全に使いこなしている。
「(所詮はミリルも切り捨てられた側。恐らく謀の詳しい内容など知らされていないだろう。まぁ敵からすれば捨て駒であっても、俺からすれば貴重な人材に違いはない)」
今のレイナスには、未熟な密偵に気付かれない程度の魔術による仕込みは造作もなかったが、流石に守衛や魔導具の感知すら掻い潜れたのは彼の中でも想定外。後悔の祈りの末に結実した才は、彼が思うよりも少し上を行っていた模様。
「さてミリル。苦しんでいるところを悪いが、いくら遠目とはいえこれ以上は守衛に不審がられる。動ける程度に体調を戻すぞ」
「はぁ、はぁ……げほ……も、戻す……?」
レイナスはそう言いながら、喘ぐような粗い呼吸のミリルの肩にそっと触れる。次いで、ほのかに温かいエーテルが彼女の体内を緩やかに巡りはじめる。
「はぁ、はぁ……こ、これは……治癒……術……?」
「違うよ。そんな上等なものじゃない。君の中のエーテルを誘導して活性化しているだけだ。外傷を癒すほどの効果はないが、痛みの緩和や呼吸を整える助けにはなるはずだ」
「あ……ほ、ほんとに……」
呼吸が落ち着いていく。締め付けられていた部位の痛みが引いていく。その効果は覿面。混迷を極め、散り散りになっていた思考が徐々に明瞭になっていく。
「で、殿下……あ、貴方は……一体? ルーク殿下の事故の影響でエーテルの乱れがあったはずなのに……こ、これほどの術を容易く扱うなんて……そ、それに……わ、私のことも……どうして……?」
まともに思考が回りはじめれば、当然にミリルは目の当たりにした有り得ない状況について疑問が生じる。
「君だって普段は色々とできないフリをしているだろ? それと同じだよ。エーテルの乱れを偽装するなどどうということもない。まぁ色々と疑問はあるだろうけど今は後回しだ。まずはいつも通りにしろ。立ち眩みがして、少ししゃがみ込んでいただけという体で。ほら、ゆっくりと立つんだ」
「……は、はい」
ミリルは言われるがまま、諸々の疑問を飲み込んで幼い主に従う。
こうなった以上、いっそ目の前の幼い王子の細首を圧し折るという選択肢も彼女の脳裏に浮かんだが……今しがたの死の恐怖が勝る。実行に移すには至らない。動けない。
「(……ふむ。切り替えが遅いな。どうにもこの時のミリルは、密偵としても魔導士としてもまだまだ未熟のようだ)」
当然にレイナスも、自暴自棄的に暴力に訴えることを含めて、ミリルの動きに注意を払っていたが……一先ずは杞憂に終わる。
また、遠目から自分たちを観察している守衛たちに対してもかなり気を配っていたが、実のところ、守衛たちは僅かな間に起こった二人だけのひりつくような逢瀬には気付かずじまい。
外敵への対処ならいざ知らず、サラリア離宮の庭園内での幼い主の動向についてはそこまで強い警戒を持っていなかった。
善く言えば大らかであり、悪し様に言えば平和ボケ。緩んでいる。
離宮付きとなる以上、それなり以上に信用と実力のある人員が選出されているが、既にミリルという間者の侵入を許している。つまり、人員選定の段階で穴がある。
まさに今のデイル王国を象徴するかの如く。あちこちが穴だらけという有様。
「ミリル。まず先にこれだけは言っておく」
「…………」
レイナスは何事もなかったようにゆっくりと歩き出す。庭園の散策を再開したかのように振る舞う。
そんな主に、ある程度呼吸が整ったミリルが使用人として付き従う。内心では戦々恐々としながらも、できるだけ普段通りを意識して。
「間者を逆利用するというのは、兵法の中では常道中の常道であり、時には戦況を左右する要でもある。だからこそ、俺は二重間者となるミリルを厚遇するよ。望みがあるなら言ってくれ。今の立場でできることはする。もちろん裏切るのも自由だ。ミリル自身が自分にとってより条件が良い相手なり陣営を選べばいい」
「え?」
間者を利用するレイナスからすれば当然の処遇なのだが、まだまだ未熟なミリルには、その意味するところを理解できない。思考に空白が生まれる。
「俺は裏切り自体をとやかくは言わないが、デイルに仇なす者は排除すると決めた。必要とあれば、見せしめとして対象者の家族や関係者を巻き込むことも辞さない。そこに容赦はない。……まずはそれを覚えておいて欲しい」
「…………」
この時のミリルはただ本能的に死にたくなかっただけ。特に深い考えがあったわけでもない。レイナスへ従うと宣言したのも所詮はその場しのぎだ。
なんとかしてこの窮地を切り抜けられたなら、〝第一王子のレイナス殿下は既に危険な魔導士〟という情報を持ち帰り、後は上役の指示を仰ぐつもりでいる。
死への恐怖を味わいながらもミリルは、まだどこかでレイナスの語りを軽く考えていた。
彼女は知らない。デイルに仇なす者を排除するという彼の言葉に偽りがないことを。
そこには尋常ならざる覚悟があることを。
彼がこの世界に積極的に介入する決意を固めたことなど……彼女には知る由もない。
そして、そんなミリルをレイナスも察する。
「(己の命を優先するだけで、間者としての交渉や駆け引きもできない今のミリルには響かないか。このままだと、遠くない内に俺かダリジャン一派の手で始末されるのがオチだな)」
それは人の上に立つ者の思考。命ある者を駒として扱う冷徹な計算がある。
未だに自分の意識が存在するこの世界がなんなのかは分からない。しかし、ここも記憶にあるかつての世界と同じだと知ってしまったレイナス。
優しくない世界。謀略に絡み付かれているデイル王国。
やりなおす。
後悔に塗れた過去を繰り返す気はない。
デイルに仇なす者を見過せない。
「(いつまで〝俺〟がここにいられるかは知らないが……精々あっちでできなかったことをさせてもらうさ)」
レイナスは後悔を取り戻す。
己の過去を変える。この世界のデイル王国に介入する。
その第一歩を踏み出した。
◆◆◆




