第30話 兆し
それから、俺たちは律花に話しようと試みるも、叶うことはなかった。彼女はずっとイヤホンをつけたまま、教室の隅で一人、ぽつんと座っている。声をかけても反応はない。——いや、気づかないふりをしているように思える。
机に伏せることもなく、ただ前を向いたまま。その横顔は、驚くほど静かだった。ふと視線を落とすと、机の中に無造作にしまわれたスマートフォンが目に入る。
画面は暗いまま。音楽アプリも開かれていない。……何も、流れていなかった。あんなことがあった後だ。何かを聴こうとする気力すら、残っていないのかもしれない。
それでも、授業が始まれば、彼女はいつも通りノートを取る。板書を写す手は止まらず、名前を呼ばれたら淡々と答える。彼女らしい行動に、余計に胸を締め付けられた。
放課後。チャイムの音が、やけに長く響いた気がした。
律花は誰とも目を合わせることなく、静かに席を立つ。鞄を肩にかけて、そのまま教室を出ていく。呼び止めることは、できなかった。ただ、その背中を見送ることしかできない。
「……ごめん、湊」
隣で、瑠璃が小さく呟く。視線を落としたまま、かすれるような声で続ける。
「私、もう少し早く言うべきだった」
その言葉に、俺はゆっくりと首を振る。
「それは違う。……あのとき。パーティーの場でも、言う機会はあった」
何度もあったんだ。それなのに、俺は逃げた。また対立するのが怖かった。あの空気を壊すのが、怖かった。あのタイミングで言えば、関係に亀裂が入るんじゃないかって。そう思って、言葉を飲み込んだ。
……結局。俺は、小学校の頃から、何も変わっていない。
人と関わることには慣れたはずなのに。関係が深まれば深まるほど相手を傷つけることが、怖くなる。だから、踏み込めない。言うべきことを、言えない。
そのまま、先延ばしにして気づいたときには、手遅れになっている。
「……ほんと、最悪だな」
小さく吐き出した声は、自分でも驚くくらい、重かった。あの頃から、ずっと変わっていない。そして、その結果が今に繋がっていた。
「……どうしたら、律花はまた話してくれる?」
瑠璃の、どこか縋るような声が聞こえる。けれど、その答えを俺は持ち合わせていなかった。ほんのわずかな沈黙。けれど、その時間がやけに長く感じて、俺は耐え切れず答える。
「……分からない」
その一言は、思っていたよりもずっと重かった。メッセージも送った。教室でも声はかけた。瑠璃だって体育の時間、必死に話けてくれたけど、結果は変わらなかった。
「……ほんと、どうすればいいんだろうな」
ぽつりと落ちた言葉に、胸の奥が鈍く軋む。どうすればいいのか、何をすれば振り向いてくれるのかも、思いつかない。頭の中を探っても、出てくるのは同じところを回る思考ばかりで——前に進む方法が、どこにも見当たらない。
「……くそっ」
気づけば、小さく震えた声を言葉にしていた。抑えたつもりのその一言は、思った以上に強く響いて。自分の中の焦りと不甲斐なさを口にしていた。
その日は互いに帰って考えるってことで落ち着いた。
***
数日経っても、状況は何ひとつ変わらなかった。ただ、焦燥感だけが、じわじわと胸の奥に積もっていく。作曲のデッドラインも近づいて来ているのに、何も手につかない。
気づけば、何もしていないまま、ただ宙を見つめていた。
ピピッ——
不意に、アラームが鳴り響く。少し鬱陶しくなりながら、視線をやると、予定表が起動していた。
(……そういえば、のあとの会議が入っていたっけ?)
ぼんやりとしたまま、画面に目を落とす。そこに映った画面に映る少し虚ろな自分を眺めながら、思う。さすがに心配させるのは違うよな、と。
そう考え、俺は息を深く吐いて気持ちを切り替える。そうして挑んだはずなんだけどな……
「今日のm1naseさんはなんだか、元気ないみたいだけど、大丈夫ですか?」
唐突にかけられた言葉に、思わず息が詰まる。画面の向こうにいるはずの彼女の姿を思い浮かべながら、まじまじとディスプレイを見つめてしまう。
「どうして、分かったんだ?」
「分かりますよ。だってm1naseさんが、選ぶ言葉も音も、ずっと見てきましたから」
その言葉に、思わず顔を上げる。
……そう、だよな。
彼女の言葉が、すとんと胸に落ちた。確かに凛との付き合いだって短くない。もう数年は一緒にいる。
出会ったのはここ数ヶ月でも、それ以前からやり取りをしていた。彼女の人柄だってよく知っている。どんなことに怒って、笑うのか。それを知っている。
改めて画面に向き合うと、返答がないことに焦ったのか、のあが慌てたように声を上げた。
「その、変な意味じゃないですからね……」
その声音に、少しだけ、肩の力が抜け、思わず小さく笑みがこぼれる。俺は、背筋を伸ばして、ゆっくりと口を開いた。
「のあ、相談してもいい?」
少し驚いたような声があり、すぐに元気な声が返ってきた。
「はい! もちろんです」
————
「なるほど……つまりその友人さんに正直に気持ちを伝えられなかった結果、傷つけてしまったと」
彼女は言葉を選ぶように、時折相槌を打ちながら聞いてくれていた。
「うん、そうなんだ」
軽く息を吐くように、俺は頷いた。少しの間、彼女は考えるように沈黙を落とした。通話越しでも、彼女が真剣に考えてくれているのが伝わる。
やがて、ゆっくりと問いかけるように声が聞こえた。
「ちなみに、その方との関係は?」
「友人、かな? たまたま作曲してるのを知って、一緒に曲を作るようになってさ。でも……女の子だから、どう声をかければいいのか分からなくて」
「そうですよね。……って、女性なんですか?」
のあの驚いたような声が聞こえる。……あぁ、そういえば言ってなかったな。たしかに、男性と女性じゃ、掛ける言葉も違う筈なのに、そこまで思い至らなかった。相手のことにきちんと向き合えていない、自分に嫌悪する。
「いやっ、でもっ……」
言いかけて、のあは言葉を飲み込む。画面の向こうで考えてくれる、のあの方が真剣に向き合っている気がする。それに比べて俺は……
そんな、俺の暗い雰囲気を読み取ったのだろうか。のあは、少しだけ柔らい声で尋ねてくる。
「m1naseさんは、どうしたいんですか? その人と」
俺の意志を問いかけるその質問に、まっすぐに画面を見据えて、言葉を絞り出す。
「 俺は、また彼女と仲良くしたい。一緒に作曲して、時たま意見をぶつけ合って、喧嘩もして……それでも一緒に一緒に前に進んでいきたい」
「……そうですか」
彼女は静かに受け止めるように呟いて、まっすぐな声で俺に伝える。
「なら、m1naseさんにしかできないことも、試してみるべきだと思います」
「……それって」
「その人との関係がはっきりとわからないので、伝えられないんですけど。でも、きっとあるんじゃないですか。m1naseさんだから伝えられるものが」
彼女はまるでヒントを与えるように言葉を紡いでいく。
「それは多分、私にはわからないことで、m1naseさん自身で答えを出すべきものだと思います」
その言葉が、胸の奥に落ちる。俺にしかできないこと。彼女の言葉に、背中を押され、思考が回り始める。
背中を押されるように考える。俺だからこそ、伝えられるもの。そもそも俺はいつもどう気持ちを伝える。俺は、これまでどうやって気持ちを伝えてきた?
言葉で伝えてきたのか?それは違う。そもそも俺自身、言葉にするのがあまり上手くない。いつも思いを伝えてきたのも、俺が変わってきたのも、全部、音楽だった。なら、俺が伝えるべきは……
自分の中で一つの核心に変わり、深く頷く。
「ありがとう、のあ。やるべきことが分かった」
そう伝えると、のあはふっと笑みを浮かべ、画面越しでも伝わる柔らかな声で応えた。
「はい、頑張ってください」
彼女の優しい声色に、そっと背中を押されるような感覚があった。俺は自然と手を鍵盤に伸ばす。初めて、たった一人のために、自分の思いを伝えるために、俺は作曲をする。




