第29話 打ち上げ
祝賀会は、律花の曲を祝う言葉から始まる。
「ウェール・カリドゥム。25万再生突破を祝って——乾杯!!」
「乾杯」
グラスが軽く触れ合う音が、部屋に響く。その音頭に、律花も嬉しそうにはにかみながら、「乾杯!」と声を上げた。そうして始まった祝賀会だったのだが……
「ねえこのコメント見て! 『この人天才だな』だって」
そう言って、ぐっとスマホを差し出してくる。思わず目をやると、その距離の近さに一瞬戸惑ってしまう。いつもの彼女からは考えられない程に近く。声のトーンも、普段より明らかに高く、弾んでいた。
(……ほんとに、テンション上がってるな)
少し呆れたように思いつつ、それでも俺も感化されるように、気分が昂揚していくのが分かった。
「自分で読むなよ」
思わず笑いながら突っ込むと、
「いいでしょ、今日くらい」
なんて、子どもみたいに笑っていた。それからもずっと、浮ついた様子でふと俺が瑠璃の方を見つめている時には。
「ねえ、そんなに瑠璃のこと、気になるの?」
耳元で、不意にそう囁いてきた。瞬間、ぞわりと背筋が震え、思わず小さく肩が跳ねる。反射的に振り返ると、すぐ近くに悪戯っぽい笑みを浮かべた律花の顔があって、ドキッと心臓が跳ねる。
思わず見とれつつ、俺は内心の動揺を隠すように、少しだけ震えた声で返す。
「……単純に様子が気になっただけ」
「ほんとに~。……ってか、耳、弱いんだ?」
くすくす、と楽しそうに笑う。その距離の近さに、心臓の鼓動がやけに大きく響いた。
(……もしかして、酔ってるのか?)
そう考えて、思わず、テーブルの上に目をやる。並んでいるのはジュースとスナック菓子だけで、アルコールは見当たらない。
お酒入りのお菓子を知らずに食べたとか? もしかして、匂いで酔ってとか? そんな展開も一瞬よぎったが、どうやら違うらしい。ただ、単純にテンションが上がっているだけだった。
二五万再生。疑惑を跳ね返した達成感。そのすべてが、彼女を浮き立たせているのだろう。くすくすと笑う横顔は、どこか幼く見えた。同時に、こんなふうに無邪気に喜んでいる姿を見られたことが、少し嬉しくて
(……まあ、いっか)
なんて、自然と笑っていた。
「それで、自分の曲が評価された今、どう感じてる?」
様子を探るように、慎重に問いかける。
「……嬉しいよ。もちろん」
一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐこちらを見た。
「これまで、AIとか疑われてたでしょ? だから、ちゃんと認められたのが、嬉しい……二人のおかげだね。ありがとう」
照れも誤魔化しもなく、ただ真っ直ぐな言葉だった。その素直さに、俺と瑠璃は思わず顔を見合わせる。驚きと、少しの戸惑いが混ざった視線が交わった。
瑠璃も驚いているんだろう。いつもより瞬きが多い。ぱち、ぱち、とわかりやすいくらいに。
(へぇ~、瑠璃も、驚いたとき、こういう反応するんだ)
そんな発見が、妙に嬉しかった。
律花の笑顔と、瑠璃の戸惑いと、自分の鼓動。その全部が同じ空間に溶けている。だからかな、三人の距離が、確かに縮まっていて、少しだけ部屋が狭く感じるのは。胸の奥に、温かな感情が広がっていく。それはどこか、高揚にも似ていた。
「ほら、二人とも。食べて食べて」
そう言って、リッカはテーブルいっぱいに並べた袋を誇らしげに広げた。人気のスイーツショップ、ちょっと遠くのベーカリー。いろいろな店のロゴが並んでいる。
「にしても買い込みすぎじゃないか?」
「いいじゃん、こういう時はぱーっと盛大に祝うものでしょ」
そんな他愛ないやり取りを交わしながら、紙皿に取り分ける。甘いものとしょっぱいものを交互につまみな、絶えず笑いながら話し込んだ。
楽しいやり取りに、昨日までの不安も、疑惑も、全部が遠い話みたいに感じられ。だからこそ、言い淀だ。
もし、このときに伝えていたら。きっと、何かは変わっていたはずだ。彼女が何を目指しているのか。何を思っているのか。そんな話からでも、踏み込めていたなら——そんなことを本気で思った。
***
浮かれた空気のまま終わった、あのパーティの翌日。教室に入ってきた彼女の表情は、昨日とは打って変わって、ひどく疲れた顔をしていた。あれだけ弾んでいた声も、無邪気に笑っていた顔も、どこにもない。
(……何かあったのか?)
胸の奥が、ざわりと波立つ。
昨日あんなにも近く感じたはずの距離が、たった一晩で、遠く離れてしまったような気がした。心配になった俺は恐る恐る声をかける。
「律花……もしかして、体調悪いのか?」
「ううん、別にそんなことないよ」
小さく首を振る。でも、その声には昨日のような弾みがない。その違和感が気になって、気づけば一日中、何度も彼女の方を見てしまっていた。
視線の先の彼女はいつもノートを見つめたまま、どこか遠くに意識を置いているようだった。いつもなら飛んでくるはずの、
「どうして、こっち見てるの? やましい気持ちでも抱いてないでしょうね?」
そんな軽口も、今日はない。それが、酷く寂しく感じる。休み時間に話しかけても、返事はワンテンポ遅れて……
「……うん」
「そうだね」
と、どこか上の空だった。まるで、そこにいるのに、いないみたいに感じる。
そんな不安な気持ちを抱いて過ごした、放課後。律花から俺達二人とも残って欲しいと告げられる。その声音は静かで、けれど逆らえない何かを含んでいた。
やがて教室から人がいなくなり、静寂が訪れる。近くに誰もいないことを確認し、律花によって閉じられた扉の音が、やけに大きく響いた。
沈黙が落ちる。窓の外では、夕焼けがゆっくりと色を深めていき、その光が、彼女の横顔に影を落としていた。
「ねぇ、湊に聞いていい?」
「……なんだ?」
短く返す声が、自分でも分かるくらい固い。律花は薄っすらとした笑みを浮かべたままこちらを見つめる。
「湊はさ、私の曲に対して何か思うところがあるんじゃない?」
その一言で、呼吸が止まる。俺は取り繕うことも忘れ、目を大きく開いて彼女を見つめてしまった。
「……やっぱり」
彼女はどこか確信していたように呟いた。そのまま、俺を見つめる彼女に、さっきまで浮かべていた笑みは、もうない。そこにあったのは、ひどく冷めた目線だけだった。
「昨日家族に言われたんだ、私の曲を聴いたって」
口元に悔しげな笑みを浮かべながら、律花は続ける。その笑みは、自分でもどうしようもない感情を押し殺すためのものに感じた。
「気づいて貰えた時は、嬉しかったな~。ようやく認めてもらえるって、そう思っていたから」
その時の情景を思い出してだろう。彼女は思い出すように押し黙る。
「でも、違ったよ。『相変わらず、つまらない曲だな。やっぱ、作曲家に向いてないわお前』って、そう言われた」
空気が、ひやりと冷える。律花は小さく息を吸い込んで、言葉を選ぶように続ける。
「二五万回再生されてる。そう伝えもした。けど、返ってきたのは……『再現性もない、ただ一曲再生されただけだろ。しかも、それは温情だ。AIかどうかで注目された、そのついでに再生されたに過ぎない。現に家族の誰も、この曲を認めていない』……そう言われちゃった」
自嘲するように、かすかに笑う。
「こたえたなぁ~、あのときの、みんなのひどく冷めた視線には。ほんと、冷や水を浴びせられた気分になったよ」
少しだけ、肩を震わせながら、彼女はポツリと呟く。
「でね、聞いたんだ。同じ作曲家なら、気づくかなって。……で、返ってきたのは"当然だろ"って答えだった」
律花は俺を鋭く見つめる。その視線に、心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
「湊も私に足りないものに気付いているんだよね?」
「それは——」
言葉が詰まる。逃げ場のない、雰囲気に思わず息を呑んだ。
「うん。その反応で分かる。そして、瑠璃もだよね?」
「……うん。気づいている。ごめ……」
「いいよ、謝らなくて」
遮るように、律花は言った。
「ただ、私が浮かれていただけだから」
悲しげに呟いたあと、彼女はそっと俺たちに背を向ける。夕焼けに視線を投げるその横顔は、どこか遠く触れられない場所にいるように見えた。
言葉にならない感情を押し込めるように、わずかに息を整えて。そして、何かを決意するように、静かに口を開いた。
「次の締め切りって、二五日後だよね」
「……ああ」
「分かった。それまではちゃんとこなす。だから……もう、関わらないで」
静かに、そう告げる。俺たちと目線を合わせることもなく、彼女はそのまま教室を出ていった。二人、薄暗くなった教室にぽつりと残される。その間にあったのは静寂だけだった。




